第2話 塾

 川端先生との面談を終えた陽大は、バイトがあるので帰宅はせず、塾を経営しているおばさんの家に向かった。今日はゆうと君の家に行ったみたいな出張授業ではなく、通常の教室での仕事だった。通常の教室と言ってもおばさんの家の一室に机と座布団を並べただけなのだが、出張授業よりかは塾講師感が出る。それに何よりも親の視線がないので、比較的緊張することなく授業が出来て気が楽だ。

 電車に揺られながら有線イヤホンを耳に付け手元のタブレットに意識を注ぐ。

 タブレットにアフレイのライブ映像が映し出された。

「お前たち、ここからがクライマックスだぞ~」

 山崎美鈴の煽りに会場が呼応している。

「『初めてのキスはレモンの味』」

 曲のタイトルがコールされると、大音量で音楽がかかる。アフレイの中でもトップクラスの人気を誇る曲故に、ファンが湧きたっていた。

 タブレットの画面に山崎の全身がアップになる。山崎は、編み込んだツインテールをお団子にまとめていて、きめ細やかな首筋の肌が強調されていた。画面越しでも甘い香水の匂いが漂ってきそうである。

「これがアイドルか」

 その輝きに陽大は圧倒されていた。

 そこで視線を山崎の腰辺りに向けると、アイドルのライブとしては異質なものが目に入る。山崎に限らずアフレイのメンバーは皆、腕に消防士が使うようなホースを抱えていた。

「それ~」

 ホースから液体が飛び出した。噴出されているのはビールだ。アフレイには大手ビールメーカーがスポンサーについており、このビールをぶっかける演出は定番となりつつあった。子供がいるとか、そんなことはお構いなしだ。誰もがビールを撃たれ、飲み込み、浴びることを待ち望んでいる。

 国民的アイドルからお酒を浴びた人たちは、全身がべたつくことも気にせず、ただ恍惚とした表情を浮かべていた。

 陽大も頭の中で妄想を膨らませる。

 観客席にいる自分の姿、盛り上がる会場、目と鼻の先にいる山崎美鈴。

 陽大は、想像の中で彼女からビールを放たれ、その水圧に耐えるよう踏ん張っていた。すると胸の内から温かいものが込み上がって来て、あらゆる感情が浄化され、自由に空を飛んでいるかのような快感を覚える。

 早くライブに行きたい。それだけが陽大の願いだった。実際に山崎からビールを浴びたらどうなってしまうのか想像すらも出来ない。きっと今までに感じたことのないカタルシスがそこにはあるはずだった。

 そんな妄想に浸っているとタブレットの中で事件が起きる。

 山崎美鈴の近くにあるスタンド席の柵が倒された。柵の前で警備をしているはずのライブスタッフは居眠りをしていたらしい。事態に気づいて小太りのスタッフが慌てて立ち上がったが、間に合わない。

 ファンの一人が倒れた柵を乗り越えて山崎美鈴に突撃し、殴りかかろうとしていた。きっと山崎のアンチ、反山崎派のアフレイファンなのだろう。しかし彼の拳が山崎に到達するより前に男は床に倒れた。

 別のファンが思いっきり男を殴り飛ばしたらしい。その二人を発端として、観客席の至る所で殴り合いの喧嘩が始まった。

 陽大は、そこでタブレットの画面を切り替える。もう見慣れた光景だったが、山崎美鈴を巡って喧嘩が行われているのは気分の良いものではなかった。原因はもちろん山崎の熱愛報道で、山崎を追放しろという勢力と噂は真実ではないという勢力がいがみ合っているのである。

 数としては反山崎派が圧倒的なようだが、山崎を擁護する立場の人たちは崇拝者と呼ばれ固い結束力と一部過激な勢力も有していた。

「何が崇拝者だ」

 思わず声に出してしまい、陽大は周囲を伺う。もし近くに崇拝者がいたらリンチにされかねない発言だったが、幸いにも電車はそれほど混んでおらず誰にも聞かれることはなかったらしい。

 胸をなでおろしつつライブ映像の無料コメント欄にコメントを書きこみ始めるも、途中で電車が目的の駅に着いた。

 ライブ映像を見て溢れた思いをいち早く言葉にしたかったのだが、乗り過ごす訳にはいかない。

 モヤモヤする気持ちを抱えながら仕方なくタブレットの電源を切ると、塾へと向かった。

 塾は、駅から十五分ほど坂を上った先にある住宅街の中にある。普段ほとんど運動をしない陽大にとっては、辛い道のりだった。どうしてこんな不便なところに家を建てたのかという気持ちと、一軒家を持っているだけで羨ましいなと思う気持ちがしのぎを削っている。

 なんとか目的地まで辿り着き、玄関の扉を潜るなり、出くわしたおばさんに二階にある部屋へと呼び出されてしまった。その瞬間にこれから起きることを察して一気に憂鬱な気分に包まれる。おばさんの部屋がある二階は電気が付いておらず階段を上る度に、視界が薄暗くなっていった。

 部屋にはおばさんが趣味で描いたという水彩画の絵が壁一面に飾られている。どうして心の汚いおばさんから、こんな綺麗な絵が生まれるのか不思議でならない。そんな事を思いつつ陽大はおばさんに向かい合って正座した。

「迫中さん、あのね、私もこんなこと言いたくないんだけど、ゆうと君のお母さまから苦情が来ているの」

 塾長でもあるおばさんは、机の前にあったキャスター付きの椅子に座っている。自然と見下されているような位置関係になった。その方が彼女にとって気分がよく話しやすいのだろう。その事の気が付くと余計に陽大はおばさんの事が嫌いになる。

「この前、出張授業に行ったとき、お金を盗んだでしょう?」

 しわだらけの顔に塾長はさらに皺を寄せた。

「違います。お金を盗まれたのは僕の方です」

「ううん、そうじゃないの。いい?」

 陽大の言葉におばさんが否定から入るのはいつもの事である。

「ゆうと君のお母さまは、抽斗にしまっておいた財布からお金が無くなっているっておっしゃっているの。お金は一人では動かないから、誰かが盗ったことになるでしょう?」

「それはゆうと君たちがやったことで、僕もお金を盗られ………」

「違うの。想像してみて。あなたがお母さまの立場だったら、ゆうと君があなたのお金を盗むと思う?私、人を見る目はあるのよ。ゆうと君はそんなことをする子じゃないわ」

 陽大は絶句した。

 おばさんは、自分の意見が間違っているとは微塵も思わないのだ。もう齢八十近くになるはずだが、どうやって生きてきたらこんな風になるのか知りたいくらいである。きっと孤独だったのだろうと思った。自己顕示欲に溺れて、救い出してくれる人などいなかったのだろう。哀れだ。可哀そうに。

 そうやって心の中で蔑んでいなければ正気を保っていられなかった。強い苛立ちを隠して平静を装うのに神経をすり減らす。右手に力を入れて怒りに震える拳を必死に抑えた。おばさんと話しているくらいなら、まだ中学生から殴られている方がましである。

「おばさん、僕の話も聞いてください」

 口調が少し荒くなってしまう。

「あら聞いているじゃない」

「ゆうと君はお金が欲しかったんです。それで僕からお金を盗ろうとしたけど、僕があまりお金を持っていなかったから、お母さんの財布からも盗ったんですよ」

「それは違うわ」

 おばさんが可哀そうな子供を見つめるように目を細めた。相手を憐れむような、それでいて馬鹿にするような目つきである。それがまた、陽大の神経を逆なでた。

「どうしてですか」

「だって、ゆうと君はそんな子じゃないもの」

「なんでそんなこと分かるんですか」

 段々と苛立ちが隠せなくなり、声がとがり始める。

 するとおばさんもなぜか、穏やかな口調で怒り始めるのであった。

「それは分かりますよ。あのね、言っておくけれど、うちの生徒にそんな子はいません。真面目で良い子しかうちは受け入れてないの。その代わりに、お金はとっても安くしているんだから。真面目で良い子なのに塾に行くお金が無い家庭が、今のご時世多いでしょう?そういう人たちのために、うちの塾はあるの」

「だから生徒の事は信用して、バイトの事は信用しないんですか?」

 我慢の限界だった。考えるよりも先に思ったことが口をついて出てきてしまう。

「信用しているでしょう。あなただって、その顔で他のどんな塾が雇ってくれるというの。働かせてもらっているだけで十分信用されているはずでしょう?」

 おばさんが、マスクの裏にある火傷を目で示した。

「でも、僕の言うことは聞いてくれない」

「聞いてるじゃない!」

 おばさんがヒステリックに叫ぶ。

 陽大の中で気持ちがスッと冷めていく。もうおばさんの前にいるだけで疲れてしまい、どうでもよくなってきた。

「聞いてないでしょ」

 おばさんは耳を塞いで背中を向けた。

「もう何も聞きません。とにかく、盗んだお金を返して来なさい。以上です」

「だから僕は………」

「うるさい。もう何も聞きません。早く出ていけ!」

 陽大は、溜息が出そうになるのをグッと堪える。ストレスだけを土産におばさんの部屋を出た。やりきれない思いを発散するように爪を掌に食い込ませながら、一階のリビングに入る。

 この塾は住宅街にあるおばさんの一軒家をそのまま利用していた。基本的におばさんのプライベートな部屋は先ほどの部屋だけで、後は生徒やバイトのために開放されている。

 リビングはバイトたちの控室になっていて、テーブルや椅子が置かれていた。どこも物で溢れていて、散らかっている。

 そのテーブルの前に二人のバイトが並んで座っている。二人とも歳は陽大と同じだが、高校は別だった。

「陽大、ゆうと達にお金盗られたらしいじゃん。ウケるんだけど」

 椅子に足を組んで座りながら松本亜美がスマホをいじっている。部屋に入ってきた陽大を見向きもしないまま馬鹿にしてきた。

 彼女の前にはビールの注がれたコップが置かれていた。彼女曰く酒でも飲んでないと講師なんてやってらんないとの事らしい。また彼女の椅子には金属バットが立てかけてあるのも特徴である。行き返りの防犯用らしいがそれが本当かどうかは怪しいところだ。

 松本を無視して、定位置となっている奥の椅子に着いた。おばさんへの怒りは収まる気配がない。いらいらと貧乏ゆすりをしているともう一人の同僚、長瀬あかりが隣に腰かける。

 陽大の視界に棒のようなものが入り込んできて、花火のようにパッと光った。その眩しさに目を逸らすと、長瀬あかりと目が合う。彼女は小柄だが、大きな瞳が印象的だった。

 小柄な高校生が差し出していたのはペンライトである。と言ってもブレード部分に何のカバーもなく、白熱灯のフィラメントがむき出しになっていた。色を変えることも出来ないため、完全に明るさ特化のペンライトのようだ。明かりを消すと、それを長瀬は陽大に差し出した。

「これを僕に?」

 長瀬あかりが頷く。

「見ない柄だけど、どのアイドルの奴?」

 陽大が聞くと長瀬はタブレットを取り出して、文字を打ち始めた。


 私が作ったの。


 画面にはそう打ち込まれていた。

「声が出せないと、おしゃべりするのも大変だねぇ」

 前からコップ片手に松本亜美が身を乗り出してきた。そして、長瀬の手からペンライトを奪い取る。

「へぇ、ちゃんとオンオフできるじゃん。しかもめっちゃ明るいし。これなら陽大でもファンサ貰いやすいかもね。まぁライブに行けたらの話だけど」

 松本亜美が声を上げて笑った。すでに頬は赤くなっていて、いつも以上にテンションが高い。お酒が回っているせいか両手が塞がったまま松本は手を叩こうとした。その弾みで手に持っていたコップから、ビールが飛び出しペンライトの剥き出しになっている発光部分に当たった。

 すると滴るビールの雫から炎が上がる。

「うわっ、なにこれ」

 松本は半ばパニックを起こし、ペンライトをめちゃくちゃに振っている。長瀬が、慌てて駆け寄ってライトを消すと、それをキッチンの方に持っていき、なんとか鎮火に成功したようだ。

「自作だから、熱くなりやすいの」

 タブレットの文章読み上げ機能が長瀬の打ち込んだ文章を音にした。

 火が収まると松本は再びペンライトを取り上げる。

「なおさら、面白いじゃん」

 酔っぱらった高校生は再び明かりを灯すと、ペンライトを陽大の顔に押し付けて来た。頬に衝撃が走り、陽大は椅子から崩れ落ちる。頬に小さな雷が落ちたかのようで、熱すぎてそれが熱さだと気づくのに時間が掛かった。

 マスクを外すと、一部が焦げて穴が空いている。頬の感覚は当たり前のようになくなっていた。

 青ざめた顔でキッチンから長瀬が氷を持ってきてくれる。受け取った氷を頬に当てながら、陽大は焦げた匂いに顔を顰めた。突然の事にびっくりしたけれど、松本の横暴は今に始まったことではない。仕方がないと受け入れて椅子に座りなおすと、怒った顔で長瀬が松本を睨みつけているのが見えた。

「火傷したじゃない」

 長瀬あかりのタブレットが言う。どうやら「怒ったように」と設定したらしく、先ほどとは口調が変わっていた。長瀬は、真剣に松本に注意するつもりのようだ。

「元々火傷しているから一緒だろ」

 松本の言葉に頬を膨らませて長瀬はタブレットに文字を打ち込む。

「サイテー」

 だが酔っぱらった高校生の耳には何を言っても響かないようである。松本は、笑いながら陽大の方を振り向いた。

「そんなことより良いのか?」

 松本が、壁に掛かった時計を指さす。

「小一のクラス、もうすぐ始まるぞ」

 陽大は、慌てて立ち上がると氷を片手に教材をまとめた。塾長の事はムカつくけれど、生徒たちに罪はない。授業を放棄するつもりもなかったし、遅刻して彼らを待たせる訳にもいかなかった。それにあのおばさんに何か一つでも理由を与えたら、減給してきかねない。

 忘れ物がないか確認すると最後に焦げたマスクを手に取る。きっと小学生がこの醜い顔を見たら授業どころではなくなってしまう。そのため普段はマスクを付けているのだが、焦げたマスクはそれはそれで怖がらせてしまうのではないだろうか。

 顔を隠すべきかと逡巡していると、手からマスクがするりと抜ける。松本亜美が陽大から取り上げたようだった。

「大丈夫だって、こんなのがなくても。この前、私が担当の時あんたの顔の話をしたら、みんな見たいって言ってたから」

 松本が、生徒たちが待つ教室代わりの和室の方を指さした。

「早く行ってこい」

 みんながこの顔を見たいと言ってくれていると知るとなんだか嬉しくなった。マスクを付けず廊下に出ると、隙間風が頬に触れ、ワクワクした気持ちで和室の扉を開ける。おばさんの事で気分が沈んでいたけれど、思いのほか楽しく授業ができそうだ。

「こんにちは、迫中せんせ……」

 部屋に足を踏み入れると、いつも通り生徒たちが挨拶をしてくれた。

 だが生徒たちが振り返って陽大の顔を見た時、松本亜美が嘘をついていたことを悟る。手前に座る女の子が、堰を切ったようにして泣き出してしまった。

 それ以上陽大は教室に入ることが出来なかった。リビングの扉が開いて、顔をのぞかせた松本亜美が笑い声をあげる。

 騒動を嗅ぎつけた塾長が、二階から姿を現すと醜いものを侮蔑する目で陽大のことを睨んだ。

「迫中さん、何したんですか」

 おばさんは、そう言いながら陽大の剝き出しとなった顔を凝視している。生徒の手前穏やかな顔を保ってはいるが、今にも沸騰するやかんのように鼻息を荒くしていた。

「生徒の前ではその顔を出さない約束でしょ。直ちに出ていきなさい!」

 陽大は、リビングに戻ると教材を机の上に叩きつけ、荷物をまとめる。自分の物かどうか判別する間もなく、近くにある物を鷲掴みにしては鞄の中に投げ捨てた。

 リビングを出る時、怒った顔をした陽大を見て、松本はさらに腹を抱えて笑った。それを無視して玄関扉を蹴飛ばすように開くと、外に出る。

 心配した長瀬がその後を追ってきて一度は足を止めたけれど、慌てて追いかけてきたせいかタブレットを忘れてきた長瀬が口をパクパクさせているのを見て、再び歩き出した。訳もなくあちこちを足を踏み鳴らすようにして闊歩する。傍から見ればある種軍隊の行進の練習をしているようにも見えたかもしれない。

 ただ当の陽大は、松本亜美や塾長(主に塾長)の顔を思い浮かべては地面に並べ、それを踏み潰すようにしていたのだが、そうやって一人歩いても怒りは収まらなかった。

 やがて帰路の半ばにある市民体育館までやって来ると、入り口に掛かったロープを跨いで駐車場へと足を進めた。駐車場は閉鎖されて久しく、今では市民が勝手にガラクタを捨てるゴミ溜めと化している。足元には煙草や大麻の吸い殻が無数に転がっていた。

 奥まで進むと、積み上げられている錆びた自転車の山を陽大は蹴りつける。一番上にあった自転車が陽大の方に落ちてきた。避けようとしたけれど間に合わず、陽大は地面に突き倒されてしまう。自転車の下敷きになり、陽大は地面を殴った。何もかもがうまくいかないことにムカついて自転車を持ち上げると思いっきり投げ飛ばす。怒りに任せて飛ばした自転車はコンクリートに衝突して前輪を歪めた。それでも陽大の気分は晴れない。暴れたせいで舞った埃が鼻腔をくすぐりくしゃみが出た。

 そのくしゃみにさえもムカついていると、陽大のタブレットに通知が入る。乱雑にタブレットを取り出すと母からメッセージが来ていた。時間を見ると授業もとっくに終わって帰る時間も過ぎている。今すぐタブレットを叩き割って発狂したい気分だったけれど、陽大はなんとか堪えて駐車場を後にした。



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