13 禅機図断簡 智常禅師図:【陸斗】
「ちょっと待って。いつ決めたの、いつ話があったの」
「さっき」
三月。卒業に差し掛かる頃はまだ寒くて、僕らは厚手のコートを着ていた。今日は卒業式の予行練習があって、ヒカルと朝一緒に行こうと思って待ち合わせた時のことだった。
「さっき?」
「うん、行くってすぐに言っちゃった。ごめん、陸斗のこと考える前に……」
直感で勝手に決めるのは、この人の性格で考えてもあり得ることだった。細かいことでもそうだ。アイスの味を決めるのも、旅立つ決心も。
「いつ行くの」
「卒業式の二日後だから、十日後くらい」
「はぁ?」
ヒカルが進路を変えた。美大に受かっていたけど、アートユニットでベルギーでのエキシビジョンとその後の活動が決まったという。実は少し前からユニットにはオファーが来ていて、お父さんとも話し合っていたそうだけど、時期的に悩んでいたそうだ。その契約がいよいよ本決まりになったという。時々進路の話をするときに、海外でやりたいという考えがあることは聞いていたので、いつか行くとは思っていたけど、まさかこんなすぐになるとは!
ビザはどうしたとかの手続きが気になったので確認すると、今日、お父さんが神戸から戻ってきて一緒に申請に行くと言っていた。本当にすごい家族だ。思い立ったらすぐなところは親子で似てる。
確かに会えなくなるからって、僕が引き留める理由はない。彼の道が開けるんだ。ただ遠距離恋愛になるだけだ。――でも、僕は空虚だった。ヒカルが世界的なアーティストになろうとしているのに、なぜ僕はこんなに空っぽなんだ。
「よく考えたら、陸斗に会えなくなるのは嫌だ」
そんなの、よく考えなくてもわかることじゃん……と思ったけど、それは僕の思考であって人はそうじゃない。
「ヒカルがプロのアーティストになれるってことでしょ。僕は止められないよ」
「ごめん……テンション上がってすぐ決めたけど、顔見たら無理だって思えてきた。俺、陸斗いないと辛い。でもお前大学受かってるし」
「なに、僕を連れてこうとしたの? 君の人生のことだから、いずれにせよ君は行くんだよ。なかなか会えなくなるなら、明日も会おう。毎日会おう。出発の日も見送りに行く。……ちゃんとパスポートあるの?」
「ある」
そんなこと言ってたら涙が出てきたけど、朝だったので我慢した。何だよ、急な話すぎて整理がつきにくい。それから、僕はずっと「ビザの申請落ちろ、時間かかれ」と祈ったのに、あっさり通ってしまった。
何事もなかったかのように時が過ぎて、卒業式を終えて旅立つ日までは、僕はヒカルの家で過ごした。ヒカルが海外に行くことによりこの家が引き払われることが決まって、一緒に過ごすことはもうなくなるからだ。最後の日まで毎日、ヒカルは僕を抱いてくれた。ヒカルがいないと耐えられないのは、僕の心も体も同じだ。
この期間の時の流れの早さは、人生で一番早く過ぎ去ったように感じた。一日の出来事がまるで一行の文章で過ぎ去るようだった。あっという間に二人で起きる最後の朝になったし、空港の見送りもあっという間だった。
出発の前日の夜は僕が立てなくなるほどに抱き合ったのに、それにまだ足らず、その時を惜しむように空港で僕らは何回もキスをした。でもそんなこと自体も束の間だった。
これからどれくらい帰ってこないんだろう。ビザとかあるから帰ってくるよね。――って、そんな甘い考えでいいのか。本当にヒカルは帰ってくるのか?
ヒカルたちがブリュッセル空港についたとき、すぐにビデオ通話があった。ヒカルはいつにもなく「好き」「会いたい」「恋しい」を繰り返していた。
ブリュッセルのギャラリーでの展覧会は準備期間を含めて約一か月あった。その間僕は大学生となり、ブリュッセルに行くことなんかできなかった。それでも毎日、何かというとくる、ヒカルからのかなりの頻度のラブコール……彼なりに僕が寂しくないようにしてくれていた。毎日それを楽しみにしていると、時間の流れが急激だった。ヒカルと一緒にいた時間がどれほど幸せで穏やかだったのかを思い知らされた。
その後、ユニットの活動を続けながらヒカルは独自の活動を始めた。他のメンバーは一度帰国をしたものの、ヒカルはソロの活動のため帰ってこれなかった。どうやらヒカルの作品はヒットしているらしい。芸術家のヒットってどういうものなのか。それはこれから僕が勉強していくものだ。
ヒカルが成功するのは嬉しい。だけど、彼の中から僕の存在が影になったり小さくなっていくのではないかと不安になる。それでも帰れないことにブーブー言いたくなかった。物分かりのいい、彼氏の夢を尊重できる男でいたかった。
僕も大学生になって忙しくなり、父と兄の仕事でアジアのアートフェアにも同行させてもらうようになった。ヒカルとはお互い見たアーティストや出会った作品などを共有し合った。特にベルギーでのヒカルの話は楽しそうに活動していて、僕も現地で作品を見て歩きたくなった。忙しい中もお互いの今を感じ得ようと、ビデオ通話でヒカルが話しながら絵を描いていてくれることもあった。
ヒカルも僕も髪を伸ばして、カメラ越しに同じ髪型になってるのが嬉しかった。ヒカルは伸ばしっぱなしだけど。そんな姿がカッコよくて、思わず僕は愛を語ったりした。帰ってきたら一緒に住もうとか、どこに家を建てるとか、猫を飼うとか具体的なことも話してたし、歳をとって将来どう過ごそうとかなんて、二人の恋の夢物語も話すようになった。
現実のことといえば、ヒカルたちユニットの展覧会が当たったこと。彼らは、反体制や社会派をあえて題材にしないことを目的としている。日本人ならではの美意識や穏やかさ、作品の美しさを求めるユニットだった。そこが主流と相反していて逆に現代アートへのパンク精神だと僕は思っていた。おそらくそういう逆流した「美」がヒットしたのではないかと思う。なのに、ヒカルの好きな音楽が昔のパンクロックだったりするから面白い。
ヒカルの作品もとても人気があって、ソロ活動になってからも、メディアの取材を受けてウェブ記事をいくつも見た。
ヒカルの活躍は凄かったけれど、日本で忙しなく学生をやっている僕とは違う時間を生きている気がした。寂しさから、一度「いつ帰る?」と口が滑ってしまい、ヒカルに謝らせてしまったことを反省していた。
ヒカルはすごいけど、勉学に励む僕は……何をしているんだろう。学芸員の資格が目標なのは、すごいことだとヒカルが言ってくれたことを大切にしないといけないのに。
そんな頃だった。僕は何度も何度も数え切れないほど電話やメッセージを送った。なのに、ヒカルから一切の連絡が途絶えたのだ。
じきに、僕からの着信さえもつかなくなった――。
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