第13話:貴婦人の淫蕩
エルジェベート伯爵は自分の功績と損失に対する褒章と補償に不満を持っていた。彼女の夫はクランダ地方地平線軍で戦死した。だというのに銀山利権に一枚噛む事はできず、教皇庁にほど近い森林地帯や複数の城や砦、街を与えられたにすぎない。教皇庁と兄ミクローシュへの不信感が募るばかりだった。
――ある城の廊下。装飾のある扉から聞くに堪えない声と物音が聞こえてくる。
「ほら、はぁん、もっと……んっ、動け。さもなければ……」
低い、作ったような女の猫撫で声。ハスキーとは違う、それは顔どころか喉にまで皺が寄っているからこそでる老いた女の声。それと共に荒い男の呼吸が聞こえる。はあはあと何度も激しい呼吸をしている。声と同時にギシギシギシギシギシ、と家具が静かに歯ぎしりをする音も。
「閣下……もうっ……!」
「誰が閣下ですって?」さっきまでの吐き気を催すような甘えた声は姿を消し、威圧するような声色に変わる。
「も、申し訳ございません、エルジュベート様、どうか、命だけぅうぐぁっ——……」
うめき声。ごぽごぽと、まるで沼地の水に泡が吹き上がる時のような音が聞こえたあと、水気のある何かしらをぐちゃぐちゃとこねるような音が聞こえた。きしむ音も男の荒い呼吸も聞こえなくなった。そして、ドサッと何かが落ちる音がしてから、〝閣下〟は大きなため息を吐いた。
それを、扉の外からこの城の侍従長が見守っていた。その表情は苦虫を噛み潰したようで、主人のこの行為を良いとは思っていない事は一目でわかる。主人は女の身であり、貴族の身であり、そして神に仕える軍隊である地平線軍に兵や財を投じたというのに、彼女は今罪を犯している。それも今日に限ったことではないのだ。
ある時は農民の兄妹を。ある時は家臣の騎士を。ある時は家臣の貴族の息子や娘を。男でも女でも、老いも若きも見境ない。自分が進んで淫蕩にふけることもあれば、禁忌を見てお楽しみあそばされる事もある。そして、大抵は満足した後か、不明確な逆鱗に触れた後、哀れな人々はエルジュベート閣下の手で命を奪われる。
(神よ、どうか、わたくしの罪をお許しください)侍従長は胸の前で左から右に一本の線を描きながら心の中で願った。……ああ、聞こえてくる。ほら。
「……ルカーチュ侍従長、お入り」
「はい、閣下……」
侍従長はもう一度胸元に線を描いてから扉を開けて部屋に入った。この光景に慣れ、吐き気すらしない自分が、そして、それを平然と行う主人が恐ろしくなった。
真っ白なベッドやシーツ、金糸の装飾がされたクッションが真っ赤になっている。そこから滑り落ちるようにして裸の細身の青年が倒れていた。首に果物ナイフが突き刺さっていて、何度も動かされた後のように肉片が傷口からはみ出ている。目が大きく見開かれており、そこには絶望が焼き付いていた。口の周りにはまだ唾液と血液が混じった物が石鹸の泡のようにまとわりついていた。
「ルカーチュ、お運びなさい」
「はい、閣下」
侍従長はまだ暖かい青年の腕をつかんだ。まだどくどくと血が流れている。何と重いのだろうか。引きずると、床板の上に血痕がペンキのように引かれていく。しかし、気にしている暇なんてない。自分が閣下のお気持ちを害さない為には仕事をすぐに済ませる事だけだからだ。
部屋の隅のタンスの前に死体を持ってきたところで、侍従長はそれを開け、自分の上等な衣類が血だらけになるのさえ気にせず担ぎあげて投げ入れた。タンスの奥は落とし穴のようになっていた。投げ入れてすぐに、どちゃっという音がしたから聞えた。
真っ黒な地下行きの穴を覗き込んだまま侍従長は動けなくなった。今までこの穴に何人投げ落としただろうかと。その時、首にぬるっとした感触が触れ思わず唾を飲み込んだ。
「閣下……?」
首を撫でた手が肩にそっと置かれる。
「ルカーチュ、報告があるのではないか? わらわの街に入ってきた不届き者どもをどうしたのか?」しゃがれた声が耳を撫で、生暖かく生臭い息が香った時、思わず身震いした。
「はい、閣下。ご指示通り、捕縛した不審者は全員吊るし首に処されました。誰一人として生かしてはおりません」
侍従長は目を閉じ、歯を食いしばっていた。自分が殺すよう命じた相手は数人の騎士と白いチュニックの上に黒いフード付きのぼろ布を纏い、首にロザリオを下げたそれが何者かよく知っていた。我々は疑われている。教皇庁より異端者の残党を探すという名目で送られてきた彼らだが、我々は聞いている。彼らが閣下についての情報を集めていると。
今年が始まってから半年がたったが、今日までに2人の聖職者と10人近い帯剣修道士や兵士を手にかけた。地獄行きは決まっているような物だった。しかし、それ故に死にたくはないと。神の国が我々には訪れない事は分かっている。だからこそ少しでも生き永らえたいのだ。永遠の命が始まるのではなく、自分には永遠の苦しみが始まる。それが恐ろしくて仕方がなかった。
閣下は領内外各地の傭兵を金で雇い、そいつらに教会や他の領主の兵隊、あまつさえ自分の兵士や商人までも攻撃させることで、異端審問官らに起きたことは治安の悪化故の事故死という風に糊塗してきた。今のところ教皇庁やマレニア侯爵ミクローシュ閣下が大規模な軍を動かす予兆はなく、今はまだ疑いで収まっているのだろう。自分にできる事は外敵を始末し、主人の魔の手を平民に留めさせる事だ。
きっといつまでも続かないことは分かっている。閣下は旦那様の戦死以降ご乱心召されている。いつか憎きヴェンダー伯スラヴニー卿のようになってしまうだろう。しかし、彼らが異端とはいえ民を守るために戦ったのに対し、我らはきっと恥じと罪に塗れて死ぬのだろう。
「ルカーチュ、わらわの目を見よ」
「はい、閣下」
侍従長は振り返る。エルジュベート・フォン・ヴォルフスシュタインは初老の女だ。返り血によって彼女の顔の化粧が落ちており、それが隠していた化け物はおぞましくも微笑んでいる。皺のよった肌、垂れたしなびた果実のような乳房、骨ばった太もも。それが血にまみれている。麗しき伯爵夫人の姿はそこにはない。それは悪魔や鬼に見えてしまった。
「次も連中が来たら必ず殺しなさい」
「はい、閣下」
侍従長は恭しくお辞儀をした後部屋を出ようとする。早くこの空間から出たかった。乾きかけた血痕から生臭い臭いが漂い始めているような気がした。
「ルカーチュ、今度はそうね、村から姉弟を連れてきなさい。遊ぶのに飽きたわ。もっと面白い余興を見たいわ」
「はい、閣下」侍従長はまるで祈りの言葉のようにそう繰り返し部屋を出て行った。
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