第9話:クランダ地方地平線軍

 ――1374年。ドラニア王国中部、クランダ地方東方は教皇領と境を隣するヴェンダー伯が領地だった。広大な森林と若干の銀をはじめとした鉱山を保有する伯爵領は比較的裕福な土地であり、多くの商人が交易の為に訪れた。


 この伯領に甚大な影響を及ぼしたのは福音書であった。元来福音書と言う物は修道士や聖職者などが古典言語を学んで読むことができ、実質的に読み、それを説く権利を教会が独占していた。しかし、ミハウ・ダスベルグという商人はそれをドラニア王国中部の共通語に翻訳した事によりその限りではなくなった。


 当初、ヴェンダー伯領にはイェソド派という異端の一派がいた。彼らは基本的に西方諸国教会を信仰しているが、教会の権威を重要視せず、信仰の基礎イェソドはそれぞれ個人のうちにあり、福音書の教えを実践することであると考えていた。彼らはそれだけならばまだ教会にとってあまり〝信心深くない〟信徒であったが、それがミハウの訳した共通語の福音書を手にしてしまった。文字の読める豪農や商人、地元の有力者、一部の司祭や執行官によってそれは更に解釈され、彼らによって説かれるようになり、教会の地位を揺るがす一派となった。


 イェソド派は西方諸国教会に対して何らかの攻撃をした事は一度もない。通常通りミサに参加し、教会税を納め、降誕祭や名前の日を含む様々な祭りに参加し、日常では物乞いに施しを、旅人に宿を貸し与える非常に敬虔な人々で、地元の教区司祭でさえ彼らを良き隣人と考えていた。


 彼らが罪を犯したというのは教会の視点である。誰であろうと福音書を開けば神の言葉を知ることができるのは教会の必要性という箇所を揺るがす危険性があったからこそ彼らは異端の烙印を押された。


 同年の初夏、クランダ地方半分以上を領有するボフミール・フォン・スラヴニー・ツー・ヴェンダー伯爵の下に異端審問の許可を求める使者が送られてきた。異端審問は裁判権を侵すという主権侵害の一つだが、宗教により統治されているという都合上、多くの領土で黙認される。ヴェンダー伯もそれを承諾した。これが紛争を招いた。


 数日後、教皇領との間の関所に百数十の軍勢が現れ、関所を守る城伯は慌てふためいた。送られてきたのは軍隊であった。異端審問に必要な手勢や装備とは到底思えず、彼らを足止めした。


 ——「シュヴァルツェンベルク卿! 我らは法皇聖下の命を受けている。開門していただきたい!」


 城門の下で叫ぶ騎士がある。無数の旗槍が掲げられ、彼らが教会の手の者であることは一目でわかる。黒い陣羽織で統一され、教会のシンボルである横線一本が描かれた旗や教会の象徴であるカラス、または守護聖人の象徴である首一本だけを残して手足や翼すらもがれたドラゴンの意匠を掲げる彼らは紛れもなく教会の私兵たる宗教騎士団であった。


 シュヴァルツェンベルク卿はヴェンダー伯の家臣であり、領の辺境を任せられている信頼の篤い城伯だ。彼は伯爵より異端審問官の通行を許可されていたが、今回のような規模の軍勢を通行させる許可は下りていなかった。彼と兵士たちの頭の中では彼らに勝てるか、彼らにもし勝てたとしてその後どうしたら。と言う事がひたすらに繰り返していた。


「聞いておられるか、シュヴァルツェンベルク卿、これをご覧あれ」


 軍勢の先頭で馬にまたがる騎士はその手に羊皮紙を持っている。そこに押された印璽は紛れもなく教皇猊下のものであった。


「教皇スヴャトスラフはここにヴェンダー伯爵領全域におけるイェソド派摘発のための異端審問を許可する。指揮監督権を大司教ベネショフに委任し、聖ラ・ピュセルを讃える西方諸国の信徒による帯剣修道会に対し、大司教の護衛と異端の改宗、従わぬ者への殲滅を命ず——この通り、シュヴァルツェンベルク卿、門を開けられよ!」


 胸壁の上、不安げな兵士たちの間に立つ緑のケープと白銀のキュイラス、ロングソード佩いた男は顎に手を当てていた。ヴェンダー伯に仕えている以上、勝手な判断で教会の軍隊を招き入れるわけにはならない。伯が許可したのは異端審問であり、軍勢の進駐ではない。対して教皇の印章付きの書類を持つ彼らを招き入れない事は自分が、延いては伯爵閣下が異端の擁護者と言われ、攻撃されかねない。そうなれば誰も我らを助けはしないだろう。


「ベネショフ大司教閣下、そしてそちらの騎士殿、その命令の権威は認めよう。しかし、ここは我が主君スラヴニー卿の領地にして、伯爵の裁量を受けぬ限り、大規模な軍勢の通行は認められない! 伯の名の下に申し上げる。貴殿らの目的が異端審問であるならば、それに相応しい規模と手続きに従い、しかるべき承認を得るが筋というものではないか?」


 一人の騎馬がつかつかと前に出てくる。武装はしていないが聖職者の被る飾り付きの帽子や金糸の縫い込まれた上着、派手なストールを首に掛けたそれは紛れもなく大司教その人だ。


「いやはやシュヴァルツェンベルク卿。承認ならば既に得ているであろう。ヴェンダー伯より異端審問の許可は既にある。イェソド派の規模は数人の審問官やその護衛の手に負えるものではないという教皇聖下のご配慮である!」


「大司教閣下! 私には判断しかねる。わが主君が受け入れたのは、軍勢ではなくあくまでも異端審問官殿の小部隊にすぎないはずだ。貴殿らの通行の是非はこの門と砦を守る私の権限を越えている。勝手な判断は正に不名誉であり叛逆である!」


「叛逆か!」大司教は吐き捨てるように言った後わざとらしく高笑いをする。


「ほう、叛逆か。貴殿の行動はまさしく神への叛逆ではないか⁉ 人は皆神の子だが、異端者をかばい立てる貴殿は一体誰の子か!」


 シュヴァルツェンベルク卿は仰々しく右手で胸元に一文字を描いた。


「私は父なる神の子、あなた方と同じ兄弟である。断じて神に反旗を翻す者ではない。しかしだ、神の理を私は信じているが、世俗には世俗の理と名誉が存在することをご存じないわけが無かろう」


「絶対なる神とその代弁者である教会に世俗の理を説くか!」


門下の軍勢の中から叫び声が聞こえる。次の瞬間何かが飛んできて、壁の兵士たちはシュヴァルツェンベルク卿を庇いながら引き下がる。そこから投石合戦が始まった。


 兜を被っていない兵士の一人が石で顔面を打ち砕かれて倒れた瞬間、投石は弓矢に変わった。卿は必至に静止せよと叫ぶが同僚の死を前にして彼らはすぐに止まれなかった。優勢なのは城伯の部隊だった。高所からの射下ろしにより、宗教騎士団とその兵士たちは矢の雨に降られ、馬と人間の悲鳴が聞こえる。数人が城壁の真下に付いて難を逃れ、いくつかの死体を残して教会の軍勢は引き下がりながら矢を射かける。

 

 彼らが退くと城壁の兵士は唾を吐き、罵声を浴びせながら武器を納め、2人の死者や数人の呻くけが人を城壁から建物の方へと引きずっていく。


 ――ある兵士は城壁から死体を数えていた。


「ひ、ふ、み、よ......ざまあみやがれってんだ。一昨日きやがれ!」


数人の軽装歩兵が草の上に乱雑に倒れている。蠢いている者もわずかながらいた。真っ白な馬が数頭、その美しい毛並みを真っ赤にして横たわっている。対するシュヴァルツェンベルク卿の内心は穏やかではなかった。領主の名誉を守るために神の使いに弓を引いてしまったからだ。


 暫くすると向こうの野営地から白旗を掲げた騎士がやってきて叫んだ。使者を射る事はなかった。


「シュヴァルツェンベルク卿。ベネショフ大司教閣下より申し出である。遺体と負傷者の収容をさせていただきたい」......数時間後、血だまりを残してすべての人間の死体と生きている者たちは向こうの野営へ帰っていった。


 彼としてはこれ以上やり合う事を避けたかったし、遺体や怪我人の収容を邪魔することは戦争をする上で不名誉であり、何よりも自分たちがその権利を得られない可能性があるからだ。


 卿らは何もしないわけにはいかず、早馬を領都ヴェンダーへ飛ばしていた。手紙には自身の死をもって償う覚悟もあることを記していた。

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