第4話 忍び寄る不安
「馨」
拓の声に私は怪訝な顔をして後ろを振り返った。すぐ後ろの席に拓が座っていた。
「何? 今、講義中だよ?」
声をひそめて言うと、拓は、
「馨、時々黒い車に乗り込んでるよな」
と言った。
心臓を掴まれたような気がした。
見られた?
「学生じゃ、ない、よな? かなり年上に見えた 」
私は無視を決め込むことにしたのに。
「眼鏡かけた俺に似た男」
息が止まりそうになった。
「やめとけよ。マジお前やばいぞ。遊ばれてる」
「……もう拓には関係ないことよ。講義中に話すことじゃない」
そう言って私は拓に耳を貸すのをやめた。拓が舌打ちをしたのが聞こえた。
講義が終わってからすぐに私は席を立った。その私の腕を拓が掴む。
「なんであんな男がいいんだよ?」
「離して。理由なんて分からない。でもどうしようもなく好きなの。望んでしてること。だから拓にとやかく言われたくない」
私は拓を睨んでそう言った。
「……俺はあいつの代わりだったのか?」
「……悪いけど、そう、だよ」
拓の顔が歪む。泣きそうにさえ見えた。さすがに心が痛んだ。
「お前、馬鹿だよ! 信じらんねえ! 幸せになんかなれないぞ! 若いお前に飽きたらポイされるだけだ」
拓は悪くない。こんなこと言ってくれるなんて思わなかった。拓は、真っ直ぐで良いやつだったんだ。そんな拓を本気で好きになっていた方が幸せになれたのかもしれない、と私は思った。でも、それは無理だったのだから仕方ない。私は先生じゃなければ満足できない。
「拓、心配はありがとう。でもこれは私の問題だから」
私は保科先生に拓のことを告げた。先生はどう思うだろうか。私と会うのをやめるだろうか。
「先生? 昼会うのやめますか?」
「貴女はやめたいですか?」
「私は先生とお昼ご飯食べられるの、いつも楽しみにしてます。デートっぽくて」
先生は微笑む。
「私としても貴女との時間、尊重したいんですよ? だから、これまで以上にに気をつけて会いましょう。馨にはすこし歩いてもらうことになりますが……」
もともと裏門付近で待ち合わせしていたのがまずかったのだ。
「大丈夫です」
***
保科先生とホテルで二時間ほど過ごすのは大体木曜日の夜だ。毎週ではないけれど、先生が早く仕事を終われた時に会うようになっている。
今日も先生と過ごしていた。先生は私の身体を丁寧に弄って、愛してくれる。私の感じやすいところをちゃんと覚えてくれて、いつも私を身も心も気持ちよくさせてくれる。私にはもう、先生のいない日常なんて考えられなくなっていた。
私は以前より欲張りになった自分に気付いている。
身体は手に入れた。次は心が欲しい。私だけを見て、考えて、愛して欲しい。
私はなんて我儘なんだろう。でも、その想いは消せなかった。
先生の奥さんてどんな人だろう。先生は奥さんと別れるという選択肢はないのだろうか。
「圭介」
甘えた声で先生の首に腕を回す。
「はいはい、何です? 」
「私、圭介の全部が欲しい」
「それは……どういう意味、ですか?」
保科先生は上半身を少し起こして、目を見開いた。
「身体だけじゃなく、心も欲しいってことです」
先生は私の頬を両手で挟んで私を見る。
「貴女に恋をしていると言いましたが、それでは足りないのですか?」
「……。先生。先生は奥さんに愛があるかわからないのに別れないんですか?」
先生は黒目を揺らす。
「貴女は私が妻と別れるのを望んでいるのですか?」
「先生が独身になったら、不倫じゃなくなります。堂々と会える」
私は先生の手に自分の手を添えて、目を逸らさずに言った。
「それはそうですが……。私に妻か貴女を選べということですか?」
「そうかもしれません」
先生は私の頬から手を離すと、ベッドに横になった。
「馨はもう少し聞き分けがいい子だと思っていたんですけどね。割り切って付き合っているのかと」
保科先生の言葉に私の心が軋む。
確かにそう。先生に奥さんがいてもいいと思ってこの関係を始めたのは私だ。でもそんな言い方……。
私は動揺を悟られないように先生を見る。
「……段々我儘になってしまうものです。
でも、先生? 先生だって、私が先生とだけ付き合っているのではなかったら嫌でしょう?」
先生はうーんと唸って目を閉じる。
「正直かなり嫌ですね。それでも私は馨との関係を続けるでしょう。馨が好きだから。別れたくないから」
私は先生の鼻をつまんだ。
「先生、ずるい人……」
「そうかもしれません。それでも馨は私が好きなのでしょう?」
先生は魅惑的に笑う。
「先生は意地悪ね。……もしかしたら奥さんより、お子さんのために別れられないのかな、先生」
先生の顔がその瞬間すうっと無表情になった。
「子供は今はいません」
放たれた冷たい言葉に、私はお子さんについてはそれ以上聞けなくなった。
「貴女に色々考えさせてしまうのは私が満足させられてないからでしょうか?」
保科先生がまた私の身体を愛撫し始める。
「そんなことは……あっ」
結局、私は自分の思考に蓋をした。面倒くさい女だと思われたら嫌われるかもしれない。それは嫌だ。
先生が離したくないと思うような女になればいいのだ。そうすればきっと先生もずっと私といてくれる。
***
その日、夜遅くスマホが鳴った。知らない番号だった。
おそるおそる出る。
「さくら、さんですか?」
落ち着いた女性の声だった。
「はい。どちら様ですか?」
「保科の妻の恵子と申します」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます