第四章

第1話 先生の息子

 指定されたファミレスの窓際に、白いブラウスにキャメル色のスカート姿の女性が座っているのが見えた。すうっと伸びた背筋が美しい。黒い髪は後ろで編み込みに結ってあった。

 電話で言っていた格好。おそらく彼女が恵子さんだろう。

 彼女が入り口から入ってきた私の方を向いたので、ちょうど目が合った。すっきりとした切れ長の目の美しい女性だった。私は軽く会釈して、恵子さんの対面の席に腰を下ろした。

 外では蝉が煩く鳴いていて暑さを倍増させていたが、ファミレスの中は寒いほどだった。

「何か頼まれます?」

 恵子さんに訊かれ、私はミルクティーを頼んだ。

「初めまして。保科恵子です」

「佐倉馨です」

「想像より遥かに若い方で驚いたわ。でも、そうね。佐倉という名前、貴女が中学生のときでしょうね。よく保科の口から聞いたのを思い出したわ。お気に入りの生徒だったみたいね」

 恵子さんは穏やかに話した。私は黙って聞いていた。

 恵子さんは一口ストレートティーを飲んだ。

「保科はやめといた方がいいわ、佐倉さん」

 なんでもないことのように言われて、私は一瞬訳が分からなかった。数秒後、やっと意味を理解して、

「なぜ、ですか?」

 と間抜けな質問をした。どう考えても恵子さんの言うことの方が正しいのに。

 恵子さんは困ったように微笑んだ。

「気が強いほうかしら? 保科の好きなタイプね。でも、貴女いくつ? 不倫なんて勿体無いことして自分をおとしめることなんてないわ」

「二十一です」

 私が答えると、店員の女性がミルクティーを持ってきた。話を聞かれていないか不安になり、私は一瞬口をつぐむ。店員の女性は私と変わらないくらいの年で、一礼すると席から離れて行った。私はそれを見届けて、もう一度恵子さんに視線を戻した。

「あの……」

 恵子さんの表情をうかがいながら私は口を開く。

「はい?」

「恵子さんは今日は何を言いに来たんですか? 私に先生と別れるように言いに来たんですよね?」

 恵子さんはさらに困った顔になる。

「若くてまっすぐな佐倉さん。……そうね。別れるように言いに来たつもりよ」

 何故だろう。保科先生をとられたというのに、恵子さんにはまるで敵意がないようだった。

「あの、恵子さんは保科先生を愛してるんでしょうか? 別れるつもりはないんですか?」

 いつのまにか私が恵子さんを質問攻めにしている。

 ふぅ、と恵子さんは悲しげに嘆息した。

「何から答えればいいかしら。そうね、結婚しているのだから、私は私なりに保科を愛してるわ」

「でも、先生は恋愛結婚ではなかったと……」

「よくご存知ね。でも、もう私には保科しかいないのよ。保科から私たちの子供のことは聞いていますか?」

 子供。私は保科先生のあの表情を思い出して、すぐに返事ができなかった。

 保科先生はなんて答えたっけ。

 確か。今はいない、と。

 あれ? 「今は」ってどういう意味だったんだろう。

「私たちの息子は二年前六歳で亡くなったの」

 恵子さんの言葉に私は絶句した。

 そういう、意味、だったの?

「私も保科も未だに立ち直れていない。お互い自分が悪かったと責めてる。……夜中、急な発熱で。保科は仕事で、私は。私は、子供の熱だからと様子を見てしまった。次の日病院に連れて行ったけれど、あの子はそのまま逝ってしまった」

 つうと音もなく恵子さんの目から涙が落ちた。

 私は何も言えなかった。

「どう考えても私が悪い。でも、保科は私を責めることはなかった。ただ、そのことで私たちの中は拗れて冷えてしまった」

 私はどこか聞かなければよかったと思った。

 恵子さんは少し冷めた紅茶をまた一口飲んだ。そして、綺麗な瞳で私を見据えた。

「保科は現実逃避をしているだけよ。貴女に」

 現実逃避……。

「っ」

 そうなのだろうか。本当にそれだけなのだろうか。

 なんだか頭に靄がかかったみたいだ。ちゃんと働かない。そして言葉も出てこない。

「私にはもう保科しかいない。貴女には悪いけど、別れることはできないわ。そして、保科もそれが分かっている。私を見捨てることはないと思うわ」

 私はしばらく息をするのを忘れていた。

 恵子さんの嘘だとはとても思えなかった。でも、先生の口から聞きたかった。

 頭がぼんやりする。

「貴女に保科は重すぎるわ。せっかく若いのだから、いい恋愛をして?」

「……」

「お釣りはいらないわ。これで払ってください」

 恵子さんは五千円札をテーブルの上に置くと席を立つ。私はその手を掴んだ。

「ま、待ってください!」

「なあに?」

 恵子さんが澄んだ目で私を見下ろす。

「わ、私は、別れたくありません!」

「……そう。でも、貴女に保科との未来はないわよ? よく考えて?」

 恵子さんは憐れむように言うと、店を出て行った。

 私は呆然とその後ろ姿を見送った。身体中の力が抜けて、なんだか怠くて何も考えたくなかった。




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