第二章「腐食果実」――この異物をどうしてくれようか――

 ◆

 「おい、起きろ翔太朗。ここがオレらのアジトだ」

 低くて腹に響くようなヒトデの声に起こされ、俺はぱちりと目を開けた。とりあえずは助かったのだという安心感と、長距離を走った疲労感から、どうやら俺は寝てしまっていたらしい。ヒトデが地面にしゃがみこむと、俺の体を引き付けていた見えない糸のようなものが消え、俺は地面に両足を着けて立った。

 いつの間にか繁華街は消え、俺たちは古ぼけた建物の前にいた。四階建てのこの建物は、元は白かったのだろう外壁は黒ずみ、お世辞にも綺麗だとは言えない。しかし、二階と三階の窓から光が漏れているので、一応人は住んでるらしい。

 俺は急に不安になってきた。もしかして、俺は騙されたのだろうか。あの男の力にはからくりがあって、実は全然すごいものじゃなかったとか。だって、アジトってもっとこう、最新のセキュリティとかを搭載しているものであって、こんな誰でも簡単に入れるような建物ではないはずだ。

 銀のドアノブをとってつけたようなドアの前で躊躇している俺を見下ろし、ヒトデは呆れたような顔をした。

 「何してんだよ、邪魔だ。入らねぇのなら帰るんだな」 

 胡散臭い、といった表情でヒトデを見上げる。

 「部外者の俺がそんな簡単に入れるものなのか?」

 「何だ、そんなことかよ。このオレがいるんだから何の問題もねぇよ」

 答えになっていないような答え方をして、俺の横からヒトデが手を伸ばした。

 そのままドアノブを回し、ドアを引く。

 ぎぎ、と音をして、ドアが開いた。

 俺を押しのけて中に入ったヒトデの後に続き、俺もアジトへと足を踏み入れる。

 ヒトデが電気をつけ、部屋の中が明るくなった。

 「わお、すごいな」

 経営破綻していたかのような外装とは裏腹に、内装はきっちりと整理整頓されており、心地よさそうな空間だ。手前には大型のテレビが置かれ、真ん中には机と四脚の椅子、奥にはキッチンが備え付けられている。他にもソファなどの家具が置かれ、生活感が溢れていた。綺麗好きな人間がいるのだろう、塵一つ見当たらない。

 「まあ、各階に部屋は一つずつしかねぇな」

 ヒトデは黒いソファを指さした。

 「そこにでも座りな」

 その言葉に甘え、黒いソファに座る。思っていたよりもふかふかで、体が沈み込んだ。一度座ったら、立ち上がれなくなりそうだ。

 ヒトデが横にある階段の方へ消えようとしていることに気づき、俺は慌てて立ち上がった。俺はソファに座って一休みするために、不審人物に連れられてこんなところに来たわけではない。

 「ちょっと、どこに行くんだ。さっきのヤツとキサラギって人間について教えてくれるんじゃないのか」

 ヒトデは俺の方を振り向くことなく、右手を振った。

 「オレの仲間を呼んでくるから、ちょっと待っとけ。話はそれからだ」

 そう言って、ヒトデは階段を上がっていく。

 とんとんという音が遠ざかっていった。

 「これは、やばい状況かもしれないな」

 俺はとっさに、身の回りに武器になりそうなものがないかを探した。ここまで無事に生きることができているということは、ヒトデは俺を殺す気がないということだと思っていたのだが、仲間を呼ばれるとなると話は別だ。もしかすると、キサラギについて俺が持っている情報を洗いざらい吐かせた後に殺そうという魂胆かもしれない。最も、俺はキサラギについての情報なんて持ってないに等しいのだが。

 机の上に置いてある分厚い本、は駄目だ。鈍器のように使えるかもしれないが、ヒトデよりもリーチが短い俺が使ったところで、相手にダメージを与えることはできないだろう。

 ボールペンやカッターナイフ、も駄目だ。上手くやれば頸動脈を破ることができるかもしれないが、本と同じ理由で却下だ。

 その他、花瓶や額縁、コードなど何とか武器になりそうなものはあったが、全部普通の人間一人を相手にする分には事足りるかもしれないが、普通の人間ではないヒトデとその仲間を倒すには明らかに役不足だった。

 どうやら、腹をくくるしかないらしい。

 俺が天井を仰いでいると、さっき消えた足音が、三つに数を増やして近づいてきた。

 「待たせたな、翔太朗」

 「ごめんね~」

 ヒトデの低い声の後に、気の抜けるような声が聞こえる。

 俺が声のした方を見ると、ヒトデの横に立っている優男が手を振った。

 俺の正面のソファにヒトデと、兎のぬいぐるみを抱えた小学生ぐらいの少年が座り、優男はソファの背もたれに寄りかかるようにして立つ。

 「これがオレの仲間だ。あともう一人いるが、そいつは今は寝てるし、会うこともほとんどねぇと思うぜ」

 いつでも逃げることができるように足に力を入れる。そんな俺の様子を見て、優男がヒトデの頭をポカリと叩いた。

 「ちょっと、ヒトデ。翔太朗くん怖がっちゃってるから、まずはおれたちの自己紹介をしないと」

 そう言って、優男は俺の方を見た。そして、さらさらとした茶髪をかきあげる。きらきらと輝くヘーゼルの瞳が俺をとらえた。

 「うわっ、すごいイケメンだ……」

 思わずそう声をもらしてしまった俺に、優男はふわりとほほ笑む。女子の黄色い声援が聞こえそうだ。

 「どうせヒトデは最後に言いたいだろうし、おれからいくね。おれの名前はトンボ。趣味はたくさんあるけど、今年の夏はサーフィンがブームだったよ。料理とかの家事は大抵おれがやってるから、何かあったら遠慮なく言ってね」

 イケメンとは自己紹介もイケメンなのか。優男ならぬトンボから溢れるイケメンオーラが眩しく、俺は思わず目を細めた。

 トンボはバチンとウィンクする。

 「あと、これは一番大事なことなんだけど、イケメン担当はこのおれ、トンボさんだよ。ちなみに、能力は後で詳しく説明するけど、千里眼みたいなものかな」

 前言撤回。どうやらただのイケメンではなく、いわゆる残念イケメンらしい。

 それよりも、後半の能力のことが引っかかり、俺は首を傾げた。

 「能力?」

 不思議そうに尋ねる俺に、トンボと少年が驚いた顔をする。二人は俺の顔とヒトデの顔を交互に見た後、盛大なため息をついた。

 「ねえ、ヒトデは本当に何も言わずに連れてきちゃったの? そんで翔太朗くんは本当に何も知らずに付いてきちゃったの?」 

 「ああ、そうだぜ。オレよりもお前らの方説明上手いからしょうがねぇだろ。それに、連れてけって頼んできたのはこのガキだ」

 ヒトデは顎で俺をしめした。

 「それでも、何の説明も無いってひどいと思うよ」

 「あーもうわかったって。いいか翔太朗。信じられねぇかもしれないが、ヤツらは吸血鬼で、キサラギってのがそのボス。んで、オレらは半人間。吸血鬼のなりそこないみたいなもんだ」

 面倒くさそうにそう言うヒトデに、はいそうですかと返すわけにはいかなかった。確かにキサラギは吸血鬼がどうのこうのだと言っていたが、所詮吸血鬼なんてものは、おとぎ話の中の存在だ。ヒトデたちがどうしてヤツらと戦っていたのかは知らないが、こっちは弟を助けなければならないのだ。事は一刻を争っている。俺はいらいらしてきた。

 「いくら俺が子供だからって、そんな話信じるわけないだろ」

 強い口調の俺に、ヒトデは「けっ、こうなるからオレはお前らを呼んだんだよ」と腹立たしそうな顔をする。

 場の空気が悪くなり、トンボが苦笑いする。ソファの隅っこの方に座っていた少年がそっぽを向いた。

 「うちのヒトデが馬鹿でごめんね、翔太朗くん。あとは俺が話すよ」

 そして、ヒトデを押しのけ、トンボが俺の正面に座った。

 「まず、さっきヒトデが言ったことは全部本当のことなんだ。きみの目の前でヒトデに殺された男は成功体の吸血鬼。あの男が吸血鬼だとは信じられなくても、少なくとも人間でないことはわかるはずだ」

 トンボの落ち着いたこれと話し方につられ、俺も冷静な気分になってきた。そうだ、ヤツが普通の人間のわけがない。ヤツの人間離れした身体能力を思い出し、俺は一人で頷く。

 ただ、吸血鬼ってもっと青白い肌をしていたり、耳や犬歯が異常に尖っていたりと見た目に特徴があるはずだ。その点、ヤツは見た目は人間だった。だから、吸血鬼が存在することは信じられない。

 「じゃあ、吸血鬼が仮に存在するとして、何で存在するんだ。そんで、半人間って何なんだ」

 吸血鬼の存在の有無も大事だが、とりあえずは目の前のことを考えなければならない。そんな俺の気持ちがわかったのか、トンボは無理に吸血鬼の存在についての話を推し進めることはせず、ヒトデの肩にぽんと手をのせる。

 「吸血鬼が何で存在するかってことだけど、キサラギが人工的に創り出しているからなんだ。成功したやつは成功体としてキサラギの命令に従う。おれたちみたいに失敗して吸血鬼になれなかったやつは処分される。おれたち三人は、運良く実験施設から逃げられたから今こうして生きているんだ」

 やっぱりトンボが話すことは現実味を帯びておらず、にわかには信じることができない。

 しかし、今この状況で真面目な顔をして嘘を吐く必要性もないだろう。俺は、とりあえずトンボの話を聞くことにした。

 「じゃあ、何でヒトデたちは吸血鬼と戦ってたんだ」

 トンボの後ろにまわっていたヒトデが口を開く。

 「そりゃあ、オレたち一人一人目的は違うぜ。オレの場合は、オレを実験台にしやがったキサラギが腹立つからだ。だから、キサラギが創り出したものを片っ端から破壊してやりてぇんだよ」

 ヒトデは自分の胸をドンと叩いた。

 その前にいるトンボが両手でピースサインをする。

 「おれはね、おれの幼馴染が安心して暮らせる世の中にしたいからかな」

 「俺は、みんなが幸せな世界にしたいから」

 不意に俺の声が聞こえ、俺は声がした方を驚いて見た。声の主は少年だ。ふわふわした銀髪に淡いピンクの瞳、あどけなさが残る可愛らしい顔。兎のような雰囲気だ。その少年から、俺の声がした。

 「ぼくはウサギです。能力は声帯模写だっちゃ」

 特徴的な声でそう言い、兎のぬいぐるみがぺこりとお辞儀する。 

 このウサギと名乗った少年とは一度も目が合っていない。恥ずかしがり屋なのだろう。

 それにしても、やはり能力というものが気になる。

 俺は正面に向き直った。

 「だから、能力って何なんだ?」

 「ヒトデが翔太朗くんの目の前で吸血鬼を倒したときに使ったやつみたいなものだよ。吸血鬼やおれたち半人間は、一つだけ能力ってものを持ってる」

 トンボとアイコンタクトしたヒトデが不気味に笑い、俺に向かって手を伸ばした。

 「引力操作、心ノ臓」

 見えない糸を引っ張るようなヒトデの手の動きに合わせて、俺の体が引っ張られる。ヒトデに負ぶられたときと同じ感覚だ。

 「うわっ」

 ヒトデが手を開くと、俺の体を引っ張る不思議な力は消えた。

 「オレは、オレの心臓と他人の心臓との間に引力を発生させることができる。

 オレより体重が重いやつに使えばオレの体が動き、軽いやつに使えば向こうが動く。磁石を想像するとわかりやすいぜ」

 ヒトデはトンボを手で押しやるような仕草をする。すると、今度はヒトデの体が浮かび上がった。

 確かに、磁石みたいだ。俺はヒトデの手をまじまじと見つめる。

 それに気づいたヒトデは得意げな顔をした。手の動きに合わせてヒトデの体がゆっくりと下がり、床に着地する。

 それにしても、この人たちはどうして生き物の名前で呼び合っているのだろうか。

 「ずっと思っていたんだけど、ヒトデたちの本名は何ていうんだ? 俺だけ本名で名乗るのはフェアじゃないと思うぞ」

 俺の質問に、ヒトデはチッチッと人差し指を振った。

 「それは教えられねぇな。第一、オレもトンボやウサギ、あともう一人の本名は知らねぇぜ。本名だけじゃねぇ、個人情報は一切知らねぇな」

 俺は目を丸くした。この人たちは、仲間同士ではないのだろうか。本名さえ知らず、信頼関係を築くことなんてできるのだろうか。やはり、ヒトデに付いていくと決めたのは間違いだったのだろうか。そう考える俺の頭をヒトデがはたく。

 「何勘違いしてんのかはわかんねぇが、ここでは個人情報なんざどうでもいいんだよ。吸血鬼を倒すっつー覚悟さえあればな」

 「おっと、人でなしのヒトデにしては珍しくマトモなこと言ったじゃーん」

 ぱちぱちとわざとらしい拍手をするトンボの鳩尾に、ヒトデの拳が一発入る。「ぐはっ」とうめき声をもらしたトンボが腹を抱えた。

 「そういうわけで、お前に覚悟がある限り、オレらの目標はお前と一緒だ。だから、さっさとキサラギについてお前が持ってる情報を教えな」

 言外に、自分たちが話したのだからお前も話せよ、という意味が込められている口調だ。キサラギの仲間ではないみたいだし、昨日俺が見たことについて話しても問題ないだろう。

 俺は口を開いた。

 「その前に、もう一つだけ聞いてもいいか?」

 ヒトデが片眉を上げる。

 「駄目だっつっても聞くんだろ」

 「何で俺をここに連れて帰ったんだ? キサラギの名前を知ってる人間を全員連れて帰るなんてリスクが高いことをしているわけでもないだろうし、俺の何が理由なんだ?」

 ヒトデはまっすぐ俺の右腕を指さした。俺の右腕の傷はまだふさがっておらず、血が流れているため、こまめに服の裾でぬぐっていた。

 「お前、血が止まりにくい体質だろ。それが理由だ」

 トンボが隣に座り、俺の右腕をしげしげと眺めた後、近くの箱から消毒液を取り出し、俺の腕に丁寧に吹き付ける。

 「ここまでこの傷を放置しててごめんね。どれぐらい傷が治らないかを見てたんだ」

 「それと何の関係があるんだ?」

 ヒトデががばりと口を開き、犬歯を見せる。

 「血が止まりにくい人間は吸血鬼の大好物なのさ。吸血しやすいうえに、味も良い。お前は吸血鬼をおびき寄せる格好の餌ってこった。こっちも命懸けて戦ってるし、ギブアンドテイクっつーやつだ」

 人を餌にするなんて、人として最低だ。だが、最低だからこそ、信用できた。只より高いものはないというし、何か思惑があるのだろうとは思っていたのだが、まさか俺のこの厄介な体質が原因だったとは。利害の一致というやつか。これはいよいよ、この男たちを信用しても良さそうだ。

 トンボが俺の右腕に布を巻きつけ、きつく縛る。

 「さ、これでとりあえずは大丈夫。吸血鬼について詳しい話はヒトデがまた説明してくれるから安心して」

 「ねっ」とトンボはヒトデに視線を向ける。ヒトデはチッと舌打ちをした。

 場に静寂が訪れる。間違いなく、ヒトデたちは俺が話すのを待っていた。

 昨日起こったことについて話すため俺が口を開こうとしたとき、ウサギがおずおずと手を挙げた。

 「あの、翔太朗さんは疲れてるっちゃから、今は休んでもらって、お話を聞くのは明日にしないっちゃ?」

 気を遣われるとは思っておらず、驚いた俺がウサギを見ると、ウサギは慌てて目をそらした。

 ヒトデとトンボは二人で顔を見合わせた。ヒトデがため息を付き、トンボはウサギの頭を撫でた。

 「そうだね。ウサギの言う通り、今日は休んでまた明日話を聞かせてもらうよ。って言っても、おれたちは吸血鬼と戦うために夜型の生活をしているから、それに合わせてもらうよ」

 「ここには客室や空き室なんてもんはねぇから、今座ってるソファか何かで休めよ。じゃ、オレは部屋に戻る。明日お前を使うときは起こすから、それまでに何か用がある場合はそこのへらへらした野郎に頼め」

 ヒトデがさっと後ろを向き、階段を上がっていく。すぐにヒトデの姿は消えた。

 その後ろ姿を見送った後、トンボが俺に向かって両手を合わせる。

 「ほんとごめんね、翔太朗くん。あいつ、いつもあんな感じなんだよね。とりあえず、おれが今からきみの晩御飯を用意するから、その間にウサギにここの案内してもらってて」

 申し訳なさそうにそう言ったあと、トンボは立ち上がってキッチンに向かった。

 案内係を指名されたウサギが、俺の前に立つ。

 「ヒトデは少し不器用なだけで、本当はとても良い人だっちゃ。信じてほしいっちゃ」

 俺はソファから腰を上げ、頷く。ウサギは思っていたよりも小さく、小柄だと言われる俺の胸までもない身長だった。

 ウサギは顔をぬいぐるみで隠し、小さな声で「付いてきてほしいっちゃ」と言った。

 ウサギの後に続き、階段を上る。後ろからでも、兎のぬいぐるみの足がぶらぶらと揺れているのが見えた。

 「そういえば、その兎のぬいぐるみは何かのキャラクターなのか?」

 俺の質問に、ウサギがこくりと頷く。

 「小さい頃に好きだったアニメのキャラで、ぼくの今の声と話し方も、この子を真似しているものだっちゃ」

 通りで、話し方や声が特徴的なわけだ。俺は一人で納得する。

 「じゃあ、ウサギ自身の話し方はどんなのなんだ?」

 ウサギはふるふると首を横に振った。その動きに合わせて、抱えている兎のぬいぐるみの長い耳が見え隠れする。

 「それはあなたには聞かせられないっちゃ」

 きっと彼なりの事情があるのだろう。俺が「そうなのか」と返すと、ウサギは後ろから見てもわかるほどにほっとした様子をした。

 その会話のあとは、特に何かを話すわけでもなく、黙々と階段を上った。

 一番上まで上り、ウサギがドアを開ける。その先は屋上で、真夜中のひんやりとした秋の風が吹き込んできた。

 「ここは見ての通り、屋上だっちゃ。基本、屋上に出ていいのは、周囲の人間が寝静まっている時間帯だけっちゃよ」

 俺はぐるりと屋上を一周する。椅子などの家具が置かれているわけではないが、ここも綺麗でしっかりと手入れされていた。家事全般はトンボが担当していると言っていたので、ここの手入れもそうなのだろう。それにしても、トンボは几帳面なようだ。

 肌寒くなり、俺は階段へと戻る。俺が戻るのを待っていたウサギが、後ろででドアを閉めた。

 三階まで下り、一つだけあるドアをウサギが指さす。

 「ここはヒトデの部屋っちゃ。朝の七時半ぐらいまでは起きてるっちゃよ」

 つまり、ヒトデは寝るためではなく、用が無くなったから部屋に帰ったということか。少なくとも、性格が良いというわけではなさそうだ。

 俺が頷くと、ウサギは二階に下りる。

 二階のドアには、大きめのサーフボードのステッカーと張り紙が貼られていた。張り紙には、『みんなのイケメントンボさんの部屋だよ☆ AM五時三十分からAM八時三十分は寝てるから起こさないでね』と書かれている。

 俺は目を丸くした。三時間の睡眠時間で生きていけるのだろうか。

 そんな俺に気づいたのか、ウサギは「トンボはショートスリーパーなんだっちゃよ」と呟いた。

 ショートスリーパーなら腑に落ちるが、それでも俺には理解できない世界だ。

 「この人は本当に残念なイケメンなんだな」と俺が言うと、ウサギは苦笑いした。

 「普段はあんな感じっちゃけど、お仕事の時は真摯でかっこいいっちゃよ」

 このようにヒトデやトンボを庇うところだといい、戦う理由だといい、ウサギは本当にヒトデたちが好きなのだろう。

 「ウサギはヒトデたちが大切なんだな」

 俺の言葉に、ウサギがふわりと笑った。

 「本当の家族がいないぼくにとってはみんなが家族っちゃ」

 不味い、踏み込んではいけないところに踏み込んでしまったか。俺が何も言えないでいると、二階のドアの前に着いた。

 木製のドアには「USAGI」とだけ彫られている。

 ウサギがドアを開け、「どうぞっちゃ」と言った。

 その言葉に甘え、ウサギの部屋に入る。ウサギが電気をつけると、部屋の中があたたかい光で溢れた。

 部屋の真ん中には仕切りが置かれており、手前側には木製のベッドと照明、箪笥などがあった。

 「翔太朗さんは、ゲーム好きっちゃか?」

 「ゲームは持ってないが、見るのは好きだ」

 俺がそう答えると、ウサギの顔がぱっと明るくなる。そして、初めて目が合った。

 「こっちに来てほしいっちゃ」

 ウサギの後をついて仕切りの奥に行くと、そこには大型テレビと大きいクッションやパソコンが置かれているデスク、ゲーミングチェアなどがあった。その奥の棚には、所せましとゲームのソフトが並べられている。さっぱりとしていた手前側と違い、物が多くごちゃごちゃとしていた。

 「すごいな」と俺が感嘆の表情を浮かべていると、ウサギははにかんだ。

 「ゲームはたくさんあるから、良ければ時間がある時に一緒に遊んでほしいっちゃ」

 「もちろん。約束だ」

 ウサギが小指を差し出してきたので、俺も小指を出し、指切りをする。どうやらウサギの俺に対する警戒は解かれたようだ。

 ウサギはデスクの上にあったゲーミングヘッドフォンを首にかけ、部屋から出る。俺も部屋を離れた。

 「あとはKの部屋だけだっちゃ」

 一階を通り過ぎ、そのまま地下まで下りる。

 ドアには、お店で見るようなプレートがかかっていた。『CLOSED』の面が表になっている。

 ウサギは振り返り、人差し指を口にあてた。そして、ひそひそ声で話す。

 「Kは人間っちゃから、夜は寝てるんだっちゃ」

 俺が頷くと、ウサギは階段を上り、一階に戻った。

 リビングに続くドアの前には二つのドアがあり、片方には『TOILET』、もう片方には『BATHROOM』と書かれている。 

 「プレートの通り、トイレとお風呂っちゃ。お風呂に順番とかはないっちゃから、好きな時に使えるっちゃ」

 「わかった」

 ウサギがドアを開け、俺たちはリビングに戻った。俺たちを見て、カフェの店員のような腰エプロンをつけていたトンボがにっこりと笑う。

 「仲良くなれたみたいで良かった。吸血鬼に能力で劣るおれたちに重要なのは、力を合わせることだからね」

 トンボは「話すの頑張ったね」と言いながらウサギの頭を撫でたあと、俺に服を手渡した。

 「ご飯ができるまであと少しだけ時間かかるから、先にお風呂に入ってきなよ。お湯はもうはってあるし、湯舟でゆっくりしておいで」

 トンボに促され、俺はリビングから出て、『BATHROOM』のプレートがかかっている方の部屋に入る。

 洗面所で服を脱いで丁寧にたたんで置き、風呂場のドアを開ける。

 わざわざ沸かしてくれたようで、俺を白い煙が包んだ。

 かけ湯をした後、少し熱めに設定してある湯舟につかる。風呂は入りたいときに入れるものではないのもあって、余計気持ち良かった。

 「ありがたいな」

 俺はぼそりと独りごちた。

 

 ◆

 風呂から上がって用意された服に着替え、リビングに戻った俺を見て、トンボがうんうんと頷く。

 「うん、さっぱりしたね。怪我したところの血も止まっているみたいだし。翔太朗くんが着ていた服は後で洗濯しておくから、一日はその服で過ごしてね」

 「ありがとう」

 俺は素直に礼を言った。

 「翔太朗くんがお風呂入ってる間にご飯もできたし、どうぞ座って」

 俺が適当な席に座ると、トンボが料理を持ってきて机に置いた。わざわざご飯を炊いてくれたらしく、白ご飯からは湯気がたっている。和えたほうれん草と鮭の照り焼き、煮物も美味しそうだ。

 「とりあえず、この時間に食べても胃に負担がかかりにくいようにあっさりとしたものにしたよ。おれは料理にも自信あるから、味は保証できるよ」

 俺の横に座ったウサギの前には、ミルクが入ったマグカップと、何故か牛タンが置かれる。

 「ウサギはいつもの牛タンと、よく眠れるようにホットミルクね。ミルクにはお砂糖とはちみつ入れてるから、甘すぎたら言って」 

 「ありがとうっちゃ。いただきます」

 両手を合わせてそう言った後、ウサギは牛タンに箸をつけた。

 そして、俺の正面に座ったトンボは、ポケットから袋を取り出し、中に入っている何やら丸いものを食べだした。

 俺がそれらを怪訝な顔で見ていると、トンボが「ん?」とこちらに視線を向ける。

 「どうしたの? 毒が不安なら、全部おれが一口ずつ食べようか?」

 俺は慌てて自分の箸を持つ。煮物の里芋は柔らかく、すんなりと箸が刺さった。

 「いや、トンボは何を食べているのか気になっただけだ。それと、ウサギは何でこんな時間に牛タンを食べているんだ?」

 トンボはウサギとさっとアイコンタクトをとった後、袋を再びポケットの中にしまった。俺の横のウサギは、残っている牛タンを全部口の中にかきこんだ。

 「あー、これについては、時期にわかるよ。今話したら、きみの食欲が無くなりかねない」

 苦笑いしながらそう言って、トンボは組んだ両手の上に顎を置き、にこにこと俺を眺める。

 人に見られながら何かを食べるという経験がほとんど無いため、かなり気まずい。

 助けを求めるようにウサギの方を見るが、ウサギはホットミルクの最後の一口を飲み終えたところだった。両手を合わせ、「ごちそうさまだっちゃ」と言ったウサギは、牛タンがのっていた皿とマグカップを持って立ち上がる。

 「じゃあ、ぼくはこれで寝るっちゃ。おやすみなさいだっちゃ」

 小声でそう言ったあと、キッチンへと歩いていき、俺の位置からは見えなくなった。

 「おやすみ、ゆっくり寝るんだよ」

 俺から目を離し、トンボが声をかける。俺も、ウサギがどこにいるかはわからないが、「おやすみ」と言った。

 ウサギが階段を上る音が遠ざかっていき、消えた。

 気まずい空気から逃れるように、俺の箸のスピードがあがる。美味しいご飯だったためゆっくりと味わって食べたかったのだが、仕方ない。

 「ごちそうさま」

 俺が箸を置くと、「お粗末様です」と返したトンボが流れるような動作で俺の使った食器を持ちキッチンへと戻る。

 「俺がやる」と言おうとしたのだが、それはトンボの「お客様なんだからゆっくりしてってよ」という言葉によって遮られた。それ以上何か言うこともできず、「ありがとう」とだけ返した。

 トンボが食器を洗うガチャガチャという音がする。

 これは何か話しかけた方が良いのかと思っていると、トンボの方が先に口を開いた。

 「おれはこれが終わったら自分の部屋に戻るから、その辺でくつろいでてよ。そのソファは背もたれを倒したらベッドになるやつだし、そこにあるクッションでも枕にしといて。本当は誰かが翔太朗くんにベッドを貸すのが定石なんだろうけど、ここでは誰もそれができなくてごめんね」

 俺はトンボの言われた通りにし、ごろりと寝ころんだ。すぐに瞼が閉じそうになる。

 「多分、あともう一人のKってやつか、ヒトデに起こされることになるとは思うから、一応そのつもりでいてね。じゃあ、おやすみ。いい夢を」

 食器を洗い終わったらしいトンボが、リビングの電気を消した。 

 部屋が暗くなり、静寂が訪れる。 

 気づいたときには、俺は意識を手放していた。

 

 ◆

 「起きろ、坊主。今何時だと思ってんだ」

 ヒトデの声が聞こえ、俺はぼんやりと目を開ける。黒いパーカーにジーンズというラフな格好をしたヒトデが俺を見下ろしていた。

 俺は自分の頬を思い切りつねる。

 しっかりと痛みを感じた。つまり、一昨日や昨日起こった非現実的なことは夢ではなかったということだ。

 俺は上半身だけ起き上がり、壁にかけられているアナログの時計を見上げる。時計は時刻四時をさしていた。俺が寝たのは、昨夜の五時ぐらいだったはずなので、十一時間ほど寝ていたことになる。

 倒していたソファの背もたれを直そうとすると、ヒトデが俺の近くに座った。

 「それはそのままでいいから、さっさと支度しな。日が暮れ次第さっさと出かけるぞ。吸血鬼の目撃情報が入った」

 俺は重たい目をこすり、ソファから立ち上がる。これだけ寝たのに、疲れはまだ残っていた。

 机の上に置いてあった、トンボが用意してくれていたらしい朝食をかきこみ、ほんの気持ち程度に身だしなみを整える。

 俺が再びリビングに戻ると、ヒトデは何やら円柱型をした瓶のようなものを恍惚とした表情で眺めていた。

 「それは一体何なんだ?」 

 「よくぞ聞いてくれたぜ」

 ヒトデは俺の眼前に瓶を持ってくる。怪しい緑色をした液体に満たされている瓶の中には、どう見ても心臓としか思えない臓器がぷかぷかと浮いていた。

 俺は思わず体をのけぞらせる。

 「これ、すげぇ綺麗だろ? オレのコレクションの中で一番のお気に入りなんだよ。見ろよこの滑らかな曲線の造形美。筆舌に尽くしがたいよな。一生見ていられるぜ」

 言葉を失っている俺に気づいているのかいないのか、ヒトデはぺらぺらと話し続ける。俺を起こしたときの不機嫌さが、まるで嘘のようだ。

 「この心臓は、吸血鬼に殺された人間のものなんだよ。傷一つないこの心臓を見た瞬間の感動を、オレは今でもはっきりと思い出せるぜ。体に電流が流れたかのようなあの感覚、これが恋っつーもんなんだなと思ったよ。本能がこの心臓を掴んで手放すんじゃねぇぞって叫んでた」

 ヒトデの視線はホルマリン漬けの心臓に釘付けだ。

 俺はじりじりと後退してヒトデから距離を取る。ヒトデの本能はあの心臓を求めて叫んでいたのかもしれないが、俺の本能は今すぐこの男から逃げろと叫んでいる。

 背中に何かがぶつかり、俺は後ろを振り返った。

 「もう、翔太朗くんが怖がってるじゃん。ほら、それさっさとしまって。今から吸血鬼狩りに行くんでしょ」

 ヒトデの手から瓶を取り上げたトンボが、俺を見てにこりと笑う。

 両手が空っぽになったヒトデは、トンボを睨み舌打ちをした。

 「オレとマイスイートハニーの二人きりの時間を邪魔すんじゃねぇよ。それに、トンボも気持ちわりぃアルバム作ってんじゃねぇか」

 トンボはヒトデを無理矢理立たせ、そのままぐいぐいと玄関の方へと押す。

 「それはおれたちの本能なんだから仕方ないでしょ。今は翔太朗くん待たせてるんだから」

 「待ってたのはオレだっつーの」

 二人の軽いやり取りの合間にトンボにウィンクされ、俺は急いでヒトデの横に並ぶ。

 「じゃ、いってらっしゃーい」

 のほほんとしたトンボの声に送り出され、俺たちは冷たい秋の夜に繰り出した。

 ヒトデは頭をわしわしと掻いた。

 「オレのハニー……」

 何とかして心臓から話題を探そうと、俺は言葉を探す。そういえば、ちょうど昨晩のことが気になっていたからそれをヒトデに聞こう。

 「昨日の晩、トンボが何かよくわからないものを食べていて、それが何か聞くとはぐらかされたんだが、あれは一体何なんだ?」

 ヒトデがにやりと笑った。

 「あの野郎、オレのハニーを取り上げたくせに、自分もしっかり愛でてんじゃねぇか」

 独り言のようにそう言ったあと、自分の目を指さす。

 「眼球だよ、眼球」

 「それがどうしたんだ?」

 「あ? 今のガキは目ん玉って言わねぇと伝わんねぇのか?」

 馬鹿にしたようなヒトデの態度に、俺は少しムッとする。

 「だから、眼球がどうしたんだ」

 「食ってたものを聞いたんじゃねぇのかよ。あの野郎がよく袋から取り出して食ってるものは魚の眼球だ。オレたちがいくら半人間っつっても、一類は体いじられてっから、いじられた部位への執着は消せねぇんだよ」

 またしてもよくわからない話だ。

 「一類って?」

 ヒトデはワイヤレスイヤホンの片方を差し出した。

 「能力の種類。それについては後でトンボに聞け。それよりも、今は吸血鬼殺しだ」

 そして、イヤホンを右耳にはめた俺に向かって手を伸ばす。

 「引力操作、心ノ臓」

 あの引っ張られるような感覚がし、ヒトデの背中と俺の背中がくっついた。

 「じゃあ行くぞ」

 低い声でそう言ったヒトデが走り始める。

 「何で後ろ向きなんだよ」という俺の抗議は無視された。

 俺の手足がぶらぶらと揺れる。俺が何とかしてヒトデの方を振り向こうとしていると、耳にはめたイヤホンからトンボの声がした。

 『はあい、翔太朗くん』

 「うわっ」

 俺が驚いて声を上げると、トンボは喉の奥で笑った。

 『早速吸血鬼を探そうか、と言いたいところだけど、まずは吸血鬼について詳しく説明するね。まず、おれたちが吸血鬼と呼んでいるのには、成功体と亜種の二種類がいるよ。成功体は、キサラギ本人が直接創り出したもの。そして、亜種は成功体に吸血されることによって吸血鬼となったもの。成功体がきちんとした手順を踏んで吸血すると、亜種の吸血鬼ができあがるんだ。亜種の吸血鬼は手順に従って人間を吸血しても、その人間を吸血鬼にはできない』

 俺はイヤホンを手でおさえた。耳元の風の音がうるさい。

 「亜種が人間を吸血したらどうなるんだ? それと成功体の吸血鬼が手順を踏まずに吸血した場合は?」

 『前者の場合は、吸血した人間は数日ほど暴力をふるいたいという欲望が芽生える。たまに、路上で殴り合いの喧嘩が起こっていることがあるでしょ? それは、亜種に吸血された人間によるケースが多いね。また、後者だと何も起こらないよ。吸血されるから貧血にはなるけど、本当にそれだけ。ここまではおっけー?』

 俺は「大丈夫、問題ない」と返す。

 『じゃあ、話を進めるね。吸血鬼は能力を持ってるって昨日言ったと思うんだけど、亜種には基本的には能力は引き継がれないよ。吸血鬼波に身体能力が向上し、本能的に血を欲するようになるけどね。それに、亜種は太陽が昇っている間は、吸血鬼としての意識が無く、日が暮れ、月光を浴びてから自分が吸血鬼であるということを思い出す。だから、月の光が届かないときは、夜でも人間のままだ。昼間は人間、夜は吸血鬼、と狼男みたいな感じだね。その半面、成功体は日中も吸血鬼としての意識があり、吸血できるような人間を探す。どっちも太陽光の下では普通の人間と見た目は同じだ』

 「じゃあ、どうやって吸血鬼を見分けるんだ?」

 トンボがくつくつと笑う。

 『見分け方なら、翔太朗くんはもう知っているはずだよ。昨日、吸血鬼に襲われたとき瞳はどうなってた?』

 俺は昨日の記憶を探る。異常なほどの身体能力、普通に人間と変わらない外見。

 そして、深紅に染まった瞳。

 「瞳が赤色になる?」

 『ご名答』

 俺の言葉に、トンボが満足そうにそう答えた。

 『ただ、ややこしいことに、成功体と亜種で赤くなるタイミングが違うんだ。成功体は、日が沈むと目が赤くなる。亜種は、月光に照らされたときだけ赤く見える。まあ、月の光がある夜だと見分けがつきにくいから、赤い瞳のやつは全員殺すと思ってもらえればいいかな』

 いきなり物騒な話になってきた。俺が黙り込んでいると、トンボは『心配しなくても、翔太朗くんが直接手を下すことはないよ。殺すのはヒトデがするから安心して』と付け加えた。

 『吸血鬼は銀のナイフで心臓を刺さないと死なないんだ。生きてる限りは、腕をもごうが足を切り取ろうが、すぐに再生するよ。きみも知っている通り、身体能力が化け物だから、おれたちの中ではヒトデ以外吸血鬼を倒せない』

 トンボはの能力は千里眼のようなもの、ウサギは声帯模写だと言っていたので、二人は本当に戦闘はできないのだろう。

 「それは俺も一緒じゃないのか?」

 俺の疑問には、だんまりを決め込んでいたはずのヒトデが答えた。 

 「誰もお前が戦うことに期待なんざしてねぇよ。お前は餌っつったろ。その体質特有の血の匂いでオレの気配を消すのが仕事だ。吸血鬼が目撃された場所にお前を置くから、走って逃げてオレが戦うのに有利な場所まで誘導しろ」

 つまり、昨日の逃走劇をするのが俺の役目ってことか。正直に言うと、もう二度とあのような目には会いたくない。だが、弟のためだ。俺は唾を飲み込んだ。

 「わかった。俺が吸血されかけたり殺されかけたりした場合はどうするんだ?」

 再び黙り込むヒトデに代わって、トンボが『もちろんヒトデが助けてくれるから、きみは生きて帰れるはずだよ。ヒトデは吸血鬼を前に臆するなんてことはしないから』

 「はず」という言葉が気になる。その俺の気持ちを見透かしたかのように、トンボは『まあ、ヒトデがやられちゃった場合は諦めるしかないけどね』と軽い口調で付け加えた。

 つまり、俺は心臓にゾッコンな変態と一蓮托生ってわけだ。おまけに、この変態は性格が良くないときた。俺の命の保証はないと思っていいだろう。 

 ヒトデが走るスピードを緩めた。 

 「トンボがお前に配慮したから、今回のターゲットは亜種だ。トンボの説明通り、亜種は基本的には吸血鬼の能力は受け継がれない。ただ、ごくまれに吸血鬼の能力を持つ個体もいる。その場合は、成功体の吸血鬼よりは弱いが、亜種としては格段に強いな」

 そして、誰もいない小さな公園の前で足をとめる。反動で俺の足がヒトデにぶつかり、ヒトデは小さく舌打ちをした。

 俺の心臓を引っ張っていた力が消え、足が地面に着く。

 後ろを振り返ったときには、すでにヒトデはどこかへと歩き始めていた。

 「じゃあな、俺は身を隠しておくから、あとはトンボのナビゲートに従って俺の有利な場所まで吸血鬼を連れて来いよ」

 引き留めようと口を開いたときには、すでにヒトデの姿は闇に消えてきた。

 自分は吸血鬼を殺せる銀のナイフを持っているくせに、俺は丸腰なのかよ。しかも、いくら俺の足が速くても、化け物並の身体能力を持っているやつらに勝てるわけがないだろ。

 戦う道具をもらえると思っていたのだが、まさか本当にただの餌にされるとは。 

 近くに立っている街灯の明かりをぼんやりと眺める。もう秋も半分が過ぎているというのに、たくさんの蛾が群がっていた。

 それにしても、ここはどこなのだろうか。俺が見知った街でもないし、逃げやすい地形というわけでもなさそうだ。大きい家が並んでいるし、道路も綺麗に整備されている。高級住宅街と言えるほどではないが、それでも平均ほどの財力ではここらに住むことは不可能だろう。

 せめて近くの道の下調べでもするか、と足を踏み出そうとしたとき、耳のイヤホンからトンボの声がした。

 『ごめんごめん、共有するの忘れてたよ』

 全くもって誠意を感じられない謝り方だ。

 『じゃ、いくね。I want to know everything』

 トンボの流暢な英語が聞こえた瞬間、俺の視界の中になにやら地図のようなものが表示された。ちかちかと緑に点滅する点と、赤く点灯する点があり、過去に友人にやらせてもらったゲームのマップ表示機能のようだ。トンボの能力なのだろう。

 『おれは他人の視界を借りたり、逆におれの視界を共有したりできるんだ。だから、今翔太朗くんの視界には、おれが今みている電子マップを共有したよ。このマップはKがプログラミングした特別なものだから、吸血鬼との鬼ごっこの味方になるはず。少し癪だけどね』

 ゲームの世界に迷い込んだような気分になり、マップをいろいろと眺めていると、視界の隅に何かが映った。

 反射的に目をやると、そこにはスーツ姿の女の人がいた。うつむいているので顔はわからないが、手に持っている黒い鞄を引きずるようにしてこちらに歩いてくる。どうやらぶつぶつと独り言を言っているようだ。

 「あの上司がミスを押し付けてきたせいで私は今日も残業でしたよ。家に戻るのが面倒で駅の近くのネカフェに泊まろうと思ってたのに、家に大事な書類を置きっぱなしなことに気が付きますし。本当にもう散々です」

 独り言の内容が聞こえるぐらいまで近づいてきた女の人が顔を上げる。

 「だから、上司の血を吸ってやったんですよ。上司は会社のパソコンをぶっ潰してめでたく退職です」

 月光に照らされた女の人の目が血に染まる。

 俺は急いで視界の地図に表示される矢印に従って逃げ出した。

 女の人が俺の横を並走する。

 「けど、その上司が去ったところでまだ敵はたくさんいるんですよね。ああ息苦しい。会社にいると、真綿で首をじわじわと絞められる感覚に陥るんです」

 女の人はさっきまで重たそうに持っていた鞄を振り回し、ヒールの音を夜の街に響かせながら走っている。

 「血が飲みたいんですよね。上司のクソほど不味い血じゃなくて、美味しそうな匂いがするあなたみたいな人の血が」

 俺は左に曲がった。急に道が細くなる。

 並走できなくなった女の人が、俺の後ろに回る。

 俺はさらに左に曲がり、家と家の隙間を通り抜ける。子供の俺でも窮屈だ。おそらく、あの吸血鬼は俺ほどスムーズには通れないだろう。

 この隙を利用し、吸血鬼との距離を広げる。細い道の割にはしっかりと街灯が並んでおり、暗くて道が見えないということはなかった。

 後ろから吸血鬼の声が聞こえた。

 「ああもう、この世は本当に息が詰まります。あなたもそう思いませんか?」

 俺は足を止めることなく走り続けた。ヒトデいわく、亜種は身体能力が高いだけなので、落ち着いて指定の場所まで誘導するのみだ。

 「ねえ、聞いているんですか? 人の話を聞けないと、社会に出たときに困りますよ。私今、あまり運動したくないんですね。入社が決まったときに、唯一の家族である祖母が買ってくれたお高いスーツを汚したくないので。だから、あなたに止まってもらいましょうか」

 俺は視界のマップを確認する。目的地まではまだあと半分以上ある。

 「水天(すいてん)一碧(いっぺき)」

 俺の足元がふらついた。急に重力が弱くなったようだ。体がふわふわとする。

 俺は必死に足を動かすが、もたもたとして思い通りにならない。まるで水中にいるようだ。

 吸血鬼の足音が近づいてくる。

 「どうですか、私の能力は。オリジナルは、本当に水の中にいるように相手の呼吸まで止めて溺死させることができるのですが。生憎私の能力はそこまでの力はありません」

 やはり、この不思議な現象は吸血鬼の能力のせいらしい。

 亜種は基本的には能力は無いと聞いていたのに、どうやら俺は一発目からレアケースを引いてしまったようだ。我ながら、自分の引きの強さには笑いが出てくる。

 『あらま、翔太朗くん運悪すぎじゃない? 亜種が能力持つ確率なんて本当に低いよ。なんたって突然変種だもん。おれたちですら今までに

ほんの数回しか遭遇してないよ』

 トンボの声は相変わらずのんびりとしている。俺の運の悪さに関心する暇があるのなら助けてほしい。

 吸血鬼の気配をすぐ真後ろで感じ、俺は思い切り手を振り回した。

 『ったく、しょーがねぇな』

 ヒトデの声が耳元で聞こえ、俺の心臓が引っ張られる。俺の体は引きずられるようにして、ものすごいスピードで前に進みだした。水中にいるような感覚のせいで、腕や足に抵抗力がかかる。

 「動けるんですね」

 吸血鬼の声は腹立たしそうだ。というより、どこをどう見たら俺が自分の意思で動いているように見えるんだ。手足がスピードに追いついていなくて鯉のぼりのようにひらひらしているのが見えてないのか?

 俺と吸血鬼の距離が開くと、ヒトデの能力は消えた。足をずるずると引きずっていたため、靴の先がコンクリートとの摩擦ですり減ってしまっている。

 俺はぐるぐると肩を回した。助けてもらったのはありがたいが、本当に乱暴すぎる。 

 『はあい翔太朗くん。ねっ、ちゃんとヒトデが助けてくれたでしょ?  能力をざっと分析したところ、あの能力は吸血鬼に近づけば近づくほど強くなるみたいだよ。だから、上手いこと距離を取ってたら大丈夫。きみの匂いが強いおかげで、ヒトデには気づいてないしね』

 俺は再び走り出しながら、トンボに聞き返す。

 「何でそんなことがわかるんだ?」

 『あれ、言ってなかったっけ? おれは人間などの生物だけじゃなくて、カメラさえあれば非生命体の視界も共有できるんだよ。今は、その辺一帯の監視カメラの視界を借りてるんだ』

 「普通じゃない……」

 俺は思わずそうもらした。耳元でからからとトンボが笑う。

 『まあ、そういうことだから引き続き頑張って』

 ヒトデの力によって一度は吸血鬼との距離が広がったものの、すぐにその距離は縮んでいっている。

 また、あの水中にいるような感覚が戻ってきた。今は違和感を覚える程度だが、すぐにまた溺れそうな強さになるだろう。

 俺はレンガの柵に囲まれた大きな家を横に曲がる。息が苦しくなってきた。

 目の前の広い道をまっすぐ走り抜け、角のところで曲がり細い道を駆ける。足に水がまとわりついているようだ。思ったように体が動かない。

 灰色のコンクリートでできた不愛想な倉庫の前を通り過ぎようとしたとき、突然中から出できた手に引っ張られた。

 手を引く力が強く、俺はその倉庫の中に引きずり込まれた。

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