紅の鎮魂歌
星降
第一章「プロローグ」――君のためならこの命など――
◆
「はっ、はっ、はっ」
俺は犬のように舌を出し、肩で息をしながら後ろを振り返った。
「撒けたか……?」
土地勘がある人間ですら迷うほどの細い路地ばかりを選んで、ここまで逃げてきた。普通の人間なら、確実に撒けているはずだ。ただ、普通の人間は建物の七階から飛び降りて華麗な着地をすることや、道路標識を指一本で曲げることなどできるわけがない。
全身黒い服装のヤツは、どう見ても普通の人間ではなかった。白銀の月光に照らされ、血のような赤色に染まったヤツの瞳を思い出し、俺はぶるりと身震いする。
むしろ、ここまで逃げられたことの方が普通ではないのだろう。
必死の逃走劇で負ったたくさんのかすり傷を眺める。
ほとんどは小さなものだが、右腕のものだけは深かった。俺が血が止まりにくい体質なのもあって、だらだらと血が流れている。血が腕をつたう感覚が嫌で右腕を振ると、血が辺りに飛び散り赤黒い染みを作った。
長距離を走ったため酸素が足りないのだろう。頭がくらくらする。
ガサリ。
「嘘だろ……」
この重たい物音、間違いない、ヤツだ。ライオンに追われるシマウマのように逃げ惑う俺を見て楽しんでいるのだ。
やはり撒けなかったか。
俺の頭の中を絶望が支配していく。いくら体力と俊足が俺の自慢だと言っても、限界がある。両足は重たく、その限界はもうすぐそこまで来ていることを訴えていた。
ヤツから逃げ切ることは絶対にできないと本能が囁く。諦めて死を受け入れようとしたとき、脳裏に弟の顔がよぎった。幼い頃からずっと俺の後をついてきていた弟は、昨日ヤツの仲間に連れ去られた。
そうだ、俺は必ず弟を助け出すんだ。
重い足を引きずり、俺は再び走り出した。後方にヤツの気配を感じながら。
もうとっくにシャッターを下ろしているビルの隙間を駆け抜け、右に曲がり、くねくねとした道を走る。いくつもの階段を上り下りし、できるだけ暗いところを選ぶ。
途中細い道があれば、迷わず飛び込んだ。
この街は俺の庭も同然だ。わからない道は無い。
両足の限界はとっくに超えていた。ぜぇぜぇと今にも死にそうな呼吸で、夜の街を逃げ回る。いくつもの古びた看板が視界に映っては消えた。ネオンの光の残像が線を描く。
「がっ」
とうとう動かなくなった足がもつれ、俺は地面の上に勢いよく倒れこんだ。擦りむいた膝から血が流れる。
「残念ですねェ、せっかくここまで頑張って逃げてきたのにィ」
ねっとりとして声が聞こえ、俺はのろのろと顔を上げた。俺の後方にずっといたはずのヤツは、この一瞬の間に俺の目の前まで移動してきていた。
ヤツは俺の髪の毛を掴み、無理矢理目を合わさせた。真っ赤な瞳に映る俺はまさに満身創痍だ。
「どうしますゥ? ワタクシはまだこの鬼ごっこ続けてあげてもいいですけどォ」
俺は残る力を振り絞り、ヤツの顔面を殴った。ドム、と軽い音がする。
「弟をどこにやった」
痛がる素振りを全く見せることなく、ソイツはにちゃりと笑った。
「何のことやらわかりませんねェ?」
「殺す」
ヤツは、俺の首を掴んで持ち上げた。足が宙に浮き、息が詰まる。
「どうやってェ? もしかして、弱肉強食って言葉をご存じでないんですかァ?」
「殺す」
ヤツの手から逃れようと、じたばたと暴れる。ヤツはにやにやと笑いながら、少しずつ握る力を強めてくる。俺の首がみしりと音をたてた。
息ができなくなった俺は、酸素を求め、金魚のようにパクパクと口を開閉する。
手足の感覚がゆっくりと消えていく。頭もぼんやりとしてきた。
もはやここまでか。弟を助けてやれないなんて、兄ちゃん失格だよな。ごめんな。
「く……、そ……」
最後の悪態が口から零れ落ちたその時、ちかちかと点滅を繰り返す視界の隅で、何かが動いた。
「引力操作、心ノ臓」
ドスッという鈍い音がする。ヤツの胸から銀色のナイフが突き出て、月光を反射しきらめく。
首からヤツの手が離れ、俺の体は地面に打ち付けられた。
「かはっ」
俺は勢いよく空気を吸い込む。
「な、何ィッ。お前は、一体……」
俺の目の前に倒れたヤツが後ろを振り返り、それにつられた俺も、突如現れた男を見上げる。
黒いパーカーを着てフードを被っている男は、「チッ、外れかよ」と不機嫌そうに言った後、首から下げている銀の十字架のネックレスをヤツに見せた。チャリ、と軽い音がする。
「オレの名はヒトデ。お前たちの敵だ」
にやりと笑って、ヤツの胸から銀のナイフを引き抜く。血が噴き出し、男の頬に飛んだ。
「まさか……」
目を見開いてそう言ったきり、ヤツは動かなくなった。じわじわと赤い染みが広がっていく。
「大丈夫か、坊主」
男は頬の返り血を拭いながら、俺の方に近づいてきた。
「大丈夫。ありがとう、おじさん」
俺にさし伸ばされかけた手がすっと引っ込んだ。俺の手が空を掴む。
「オレはおじさんじゃねぇよ。言葉に気をつけな、坊主」
俺はゆっくりと立ち上がった。体の節々が痛むし、怪我をしたところはまだ血が流れている。
「じゃあ、ヒトデ。あと、俺は坊主じゃない。風見翔太朗だ」
「そうか。まぁ坊主の名前が何だろうと、オレには関係ないこった」
男――ヒトデは、くるりと踵を返した。どうやら、俺には微塵も興味が無いらしい。
「じゃあな。お子様はあんまり夜に出歩くんじゃねぇぞ。死にたくねぇだろ」
「ちょっと待ってくれ。さっきのヤツは一体何なんだ。それに、どうしてヒトデは俺を助けてくれたんだ?」
ヒトデは俺に背を向けたまま、ひらひらと手を振った。
「オレは別にお前を助けたわけじゃねぇよ。それに、さっきのやつが何だったかなんて、すぐに坊主には関係無くなる。だから、教える必要なんざねぇな」
闇に向かって歩き出すヒトデの背中に、俺は声をかけた。
「頼むから教えてくれ。俺の弟がさらわれたんだ! ヤツら、キサラギっていう人間の仲間なんだろ!? 頼むから教えてくれ!」
「キサラギ」という言葉を聞いた途端、ヒトデの動きがピタリと止まった。
「坊主、いや、翔太朗。それ、どこから聞いた?」
なぜヒトデが「キサラギ」に反応したのかはわからないけれど、これはチャンスだ。俺はここぞとばかりに声を張り上げた。
「俺と弟がキサラギたちの会話を聞いたんだ! 吸血鬼がどうとか、実験結果がどうとか言ってたんだ。ヒトデはキサラギについて何か知ってるんだろ?! 教えてくれ!」
振り向いたヒトデは、人差し指を口にあてた。
「うるせぇ。今何時だと思ってんだ。真夜中だぞ。気づかれちまうだろうが」
そして、再び俺に背を向ける。
「今からお前をオレらのアジトに連れて帰る。そこで教えてやるから、それまでは黙ってろ。それができねぇなら、もう二度とオレらやヤツらに関わんな」
突然現れた男のアジトに行くなんて、危険に決まっている。知らない人には付いていかない、なんてことは小学生でも知っている。しかも、目の前でヤツを殺した男だ。間違いなく、この男も人間じゃない。無事に帰れる保証なんてないだろう。
それでも、俺は弟を助けなきゃならない。この話を受けない理由はなかった。
覚悟を決めろ、俺。ヤツらと戦える人間なんて、この目の前の男を除いていないだろう。
俺はごくりと唾を飲み込んだ。
「わかった。連れて行ってくれ」
ヒトデは背を向けたまま、俺の方に手を伸ばした。そして、その手で何かを引っ張るような仕草をする。
「っ!」
まるで胸から見えない糸が伸び、それがヒトデに引かれているような感覚がし、俺の体がふわりと浮いた。まるで磁力が働いているかのように、すうっとヒトデの背中に引き寄せられる。俺の胸とヒトデの背中がぴったりとくっついた。
「少々雑だが負ぶってやった。振り落とされないよう、しっかりつかまっとくんだな」
驚いて何も言えない俺に、ヒトデは俺の方を振り向くことなくそう言った。
「俺は負ぶられるような年齢じゃない」
やっとのことで俺がそう言うと、ヒトデはやれやれと肩をすくめる。
「全く、可愛くねぇガキだな。オレが趣味でガキを負ぶるかよ。あくまでも、こうした方が速いだけだ。じゃあもう行くぞ」
俺がヒトデの首に手を回すと、ヒトデは深い深呼吸を数回した。そして、足に力を込め、走り出す。
「速すぎだろ……」
その速さは、俊足なんてものじゃなかった。というより、人間の出せる速度ではなかった。耳元で風がごうごうと鳴り、周囲の風景がものすごいスピードで流れていく。ヒトデのこの不思議な力が無ければ、間違いなく振り落とされていただろう。ヒトデの心臓がどくどくと力強く拍動しているのを感じる。それにしても、人間の心臓がこんなにも強く速く脈打つものだろうか。まるで心臓だけが別の生き物のようだ。
あまりにも非日常なことが連続して起こっているこの場面、普通ならパニックに陥ったりするのだろうが、俺は何故か落ち着いていた。この男に付いていけば弟を助けられると直感的に理解したのだろう。
待っててくれ。絶対に兄ちゃんが助けてみせるから。
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