第三章「偽りの宝玉」―偽りだから欲するのか、欲するから偽りなのか――

 ◆

 「なあ、大丈夫!? なんかキミもあの変なやつに追っかけられたっぽいけど」

 建物の中に俺を引きずり込んだ男がそう声をかける。大学生ぐらいだろうか。くしゃっとしたピンクの髪に、金色の瞳。パステルカラーのセットアップの服を着ている。一言でまとめると、とても派手だ。

 「ユズマ、この子困ってるから」

 その派手な男の肩を掴んで俺から離そうとする女は、派手男とは対照的だ。白いワンピースに紫の瞳がよく映えている。長くて黒い髪がさらりと揺れた。

 「そっか。ごめん!」

 慌てて男が手を俺から手を離す。

 そして、少し大げさにお辞儀をした。

 「僕はユズマ。ファッションの専門学校に通ってて、趣味は美術館に行くこと! 絵を描くのも好きだ」

 「レン。バカの見張り」

 「バカってひどいな!? まあレンのそんなところも好きだけど」

 元気に溢れたユズマの自己紹介とは反対に、黒髪の女、レンの自己紹介は二言で終わった。

 状況的には、二人は俺を助けてくれようとしているのだろう。だが、申し訳ないがここでのんびりと自己紹介をしている暇はない。俺は手短に終わらせることにした。

 「俺の名前は翔太朗。助けてくれてありがとう」

 礼を言われ、ユズマが照れくさそうに頭をかく。

 「照れるなぁ。室内にいたらあの変なのは来れないっぽいし、キミもここに隠れていようぜ」

 俺の耳がぴくりと動いた。室内にいたらあの吸血鬼は来れないのか?

 「どういうことだ?」

 ユズマが足元に置いてある袋を指さす。中にはペットボトルが二本入っているようだ。

 「僕ら、一緒に暮らしててさ、深夜にレンが寝れないしジュース飲みたいって言うから二人でコンビニに歩いて行ったんだ。そしたら、なんかあの変な女の人に追いかけられてさ。僕は片手で袋を持って、もう片方の手でレンの手を引いて必死に逃げたぜ。そんで、この倉庫見っけて、それが運良く扉が開いてたから二人で駆けこんだんだ。じゃあ、あの人は僕らを見失ったっぽくて、どっかに行っちゃった」

 「そうなのか」

 レンが静かに頷く。

 俺は二人の顔をさっと見た。視線を含め体が動かなかったし、手もきちんと俺から見えるところにある。どうやら、二人とも嘘はついていないようだ。つまり、あの吸血鬼の能力には制限があるのか?

 『ちょっと、翔太朗くん? どこにいるの?』

 耳のイヤホンからトンボの焦った声が聞こえてくる。やはり、ここに長居はできない。

 俺は靴の紐を結びなおし、つま先でとんとんと地面を叩く。

 「じゃあ、俺はもう行かないといけないから、この辺で」

 「えええ、もう行っちゃうのか? 外は危ないし、明るくなるまでここにいたらいいじゃん」

 「言葉は嬉しいけど、俺は本当にもう行かないと」

 ユズマは俺を引き留めようとしたが、俺の顔を見ると真面目な表情をして頷いた。

 「僕らより幼いキミを一人にするのは不安だけど、キミは本当に急いでるみたいだもんな。僕らはまだここにいるから、危なかったらいつでも戻ってきていいんだぜ」

 「頑張れ」

 ユズマとレンに送り出され、俺は倉庫から出た。

 ほんの少ししか彼らとは話していないしもう二度と会うことはないだろうが、二人とも良い人だった。

 体力が回復した俺は周囲を見渡す。

 『ほんとにどこに行っちゃってたのさ』

 「すまない。匿ってもらっていた」

 俺はトンボに謝った。それより、先ほどの吸血鬼はどこに行ったのだろうか。

 『翔太朗くん、上!』

 上を見上げる前に、俺の体は反射的に動いた。

 左に飛びのき、着地と同時に走り始める。

 「全く、どこに行ってたんですか? あなたにそっくりな人がいたけど、あなたの血の匂いとは違う匂いがしたのでわざわざ戻ってきたんですよ」

 すぐ後ろで吸血鬼の声がした。

 目的の場所までは本当にあと少しだ。周囲の建物も、どんどん高いものが増えていっている。

 俺は躓きそうになりながらもスピードを上げた。水中にいるかのようなあの感覚は、なぜかもうほとんど感じない。

 そして、とうとう指定の場所に着いた。

 俺は立ち止まる。それに合わせたのだろう、吸血鬼の足音も止まった。

 「とうとう諦めて血をくれる気になりましたか。私は嬉しいですよ」

 俺はくるりと振り返る。吸血鬼の背後、高速でヒトデが降ってくるのが見えた。

 「いいや、俺が諦めることはない」

 ドスッ。

 心臓をヒトデの銀ナイフで貫かれた吸血鬼は、口から血を流し、地面に崩れ落ちた。

 「初めてにしてはよくやったじゃねぇか、翔太朗」

 大きく深呼吸する俺に、自分の胸を押さえヒトデがそう告げる。

 俺は足元の吸血鬼に目をやる。ぜえぜえと呼吸を繰り返しながら、何かを呟いていた。

 俺は吸血鬼の口元に耳を近づける。

 「ごめん、ごめんね、おばあちゃん……。私が、楽にしてあげたかった……。今まで……ありが……と……う……」

 今にも消えそうな声でそう言い、彼女の生命反応が消えた。月光に照らされ深紅色に輝いていた瞳の光が消え、じわじわと黒に戻る。

 俺は胸がいっぱいになった。

 そうだ。彼女はいくら吸血したと言っても、元は人なのだ。吸血鬼のせいで亜種の吸血鬼になったのであって、彼女の意思で人間をやめたわけではないのだ。そして、その吸血鬼も自らの意思で吸血鬼になったわけではない。全ての元凶はキサラギだ。

 「許せないぞ、キサラギ……」

 決意を口にする俺の頭を、ヒトデがぐしゃぐしゃと雑に撫でた。

 「その気持ち、忘れんじゃねぇぞ。吸血鬼とは生半可な覚悟じゃ戦えねぇからな」

 ヒトデは、首にかけている銀の十字架のネックレスをちゃらりと鳴らす。

 「じゃ、帰るぞ。アジトまではそう遠くねぇし、途中までは歩く」

 そう言って、吸血鬼の死体に背を向ける。

 「ちょっと待ってくれ。死体はこのままにしておくのか?」

 このまま誰かに見つけてもらうまで放っておかれるなんて、彼女があまりにも気の毒だ。本当は彼女の祖母のところまで運ぶのが良いのだろうが、家もわからないし、せめて埋葬するなどをして弔いたかった。

 ヒトデは振り向かない。

 「そうだ」

 「そんなの、ひ」「無駄だ」

 俺の言葉に被せるようにして言葉を発したヒトデが、不機嫌そうに続ける。

 「吸血鬼の死体は残らねぇよ。生きている間は日光をあびても何も起こらねぇが、人間の魂が完全に抜けきった体は、太陽の光があたると塵のように散っていく」

 俺は口を開いたが、またもヒトデに遮られた。

 「帰るぞ」

 有無を言わせないその口調に、俺はしぶしぶ吸血鬼に背を向ける。後ろ髪を引かれるような思いで、その場を離れた。

 「キサラギについてお前が知っていることを話せ」

 歩き出してしばらくすると、ヒトデがおもむろにそう言った。

 俺は、「俺が見ただけだが」と前置きをした後、一昨日のことをヒトデに話した。


 ◆

 俺と弟は他に家族もいなければ身よりも家も無い。いわゆるストリートチルドレンだ。他にも俺たちと同じような仲間がいたから、その仲間と協力しながら生きていた。

 一昨日、俺と弟はいつものように食料を探して夜の街をうろついていた。俺たちの住んでいるところから少し離れたところは畑がたくさんあったから、動物に襲われたように細工しつつ、こっそりと野菜や果物をくすねることが多かった。

 その日は柿を取っていた。農家の人に極力怒られないようにするため、商品になりそうにないものを優先的に、弟の両手がいっぱいになるまで取った。

 小細工も終わり、俺たちはいつもの場所に帰ろうとしていた。動きやすくなるように、柿を布につつみ、俺はそれを背負っていた。弟は、柿を食べながら俺の後をついてきていた。

 俺たちは大抵橋の下で寝ていたから、その時も橋を目指して歩いていた。俺はそこで柿を食べるつもりだったんだが、弟がお腹が空いたとごねるから、近くの廃墟で食べようかということになった。地味な屋敷みたいなところだ。土地のわりには家の面積が小さく、その分庭が多かった。それに、その廃墟の横は工場があって、そこもまた無人だった。

 その廃墟は、いつごろ廃墟になったのかはわからない。少なくとも、俺がこの道を通るようになったときにはすでにそうだった。

 たまに寝床にすることもあってその廃墟には何度も入ったことがあったから、俺たちはすんなりと建物の中に入れた。二階の一番奥の部屋はその屋敷内でもっとも綺麗で埃っぽくないから、そこで食べようという話になった。そのついでに、書斎にある本などを眺めて勉強の真似事でもしようと。

 だが、中央の階段を上ろうとしたとき、俺たちは違和感に気づいた。埃を被っている絨毯の上に、俺たちのよりも大きい足跡があったんだ。

 こんな廃墟に訪れるのなんてよほどの物好きか、俺たちのように家が無い人間だろう。そいつらに会えば、もしかしたら何かもらえるかもしれないという期待もあって、俺たちはその足跡をたどった。

 すると、階段を上ったところぐらいで人の話声が聞こえてきた。話しているのは大人で、人数は五人ほどのようだ。俺たちは、とりあえずそいつらの話を聞いてみることにした。階段を上がってすぐのところで、二人してぴたりと壁に背をくっつける。

 「それで、イプシロンはどうしたんだ」

 「はい、キサラギ様。イプシロンは用意完了する予定でしたが、昨夜最終調整の物質を投薬した直後拒否反応を起こし、その後まもなく死亡を確認いたしました。そのため、本日用意できたのは、右からアルファ、ベータ、ガンマでございます」

 「そうか。お前、例の薬は持ってきているな?」

 「もちろんでございます。今すぐ投薬の準備をいたします」

 ここまで聞いて、俺と弟は顔を見合わせた。おそらく、いや、確実にこいつらは俺たちに食べ物をくれないだろう。それでも、お互い好奇心があったから、会話をもう少し聞くことにした。

 少しの合間沈黙が訪れて、再び男たちが話し始めた。

 「注射器をよこせ。この投薬は私しかできない」

 「承知いたしました」

 「アルファから順に投薬をする。お前はアルファたちの体を抑えておけ。薬品に対して拒絶反応が起こらず、上手く適応して吸血鬼にすることが成功した場合、人間である私の力では何かあった場合に対処できん」

 「承知いたしました。キサラギ様のお身はわたくしが御守りいたします」

 それからしばらくして、三種類の呻き声が聞こえてきた。俺たちは、頭では逃げた方が良いということはわかっていたが、何故か足が動かなかった。

 一番最初に聞こえてきた呻き声はだんだん高くなり、長い断末魔のようなものを最期に聞こえなくなった。

 「アルファ、死亡いたしました」

 「ラボに持ち帰って死体を解剖し、データを取ったあと処分しろ」

 二番目の呻き声はどんどん小さくなって聞こえなくなり、三番目の呻き声は逆にどんどん大きくなっていった。そして、よくわからない言葉を大声で喚き散らし、急に静かになる。

 「ガンマ、死亡いたしました」

 「アルファと同じように処分しろ」

 そして、また沈黙が訪れた。

 「ベータ、生存しています」

 「そうか。なら、ベータの意識が回復するまでは待機だ。回復した後は能力の確認。吸血鬼として問題無いようならラボに連行、問題があるようなら殺せ」

 「はっ」

 二人の口調は興奮気味だった。俺たちはさっと互いに視線を合わせ、頷いた。

 一刻も早くここから逃げなければならない。会話の内容を聞いている限り、あいつらは真っ当な人間ではない。

 動かなければならないのはわかっているのだが、足がすくむ。だが、俺は兄だ。弟だけでも逃がしてやらないと。

 自分の気持ちをふるいだたせ、弟の手を引いて忍び足で階段を下りる。踊り場を抜け、一階にたどり着いたとき、弟が手に持っていた柿を落としてしまった。

 「キサラギ様、一階で物音が聞こえたので確認してまいります」一階に下りたからその声はほとんど聞き取れなかったが、このような内容だということはわかった。

 俺たちは弾かれたかのように駆けだした。

 「誰かいるぞ、追え!」

 上からキサラギという人間の怒鳴り声が聞こえた。

 屋敷の扉をタックルで開け、弟を先に通してから足で蹴って閉める。

 植物が生い茂っている広い庭を突っ切り、屋敷の敷地から出る。

 後ろの方で、ガラスが割れる音がした。

 俺たちは急いで隣の工場に入る。手を繋いでいるとお互い走りづらいため、俺たちは手を離して逃げた。

 木がたくさんあるところを抜け、工場内に入る。ここは初めて入ったが、物がたくさん置いてあるおかげで、追手から姿を隠しつつ逃げることができた。

 暗くて視界が悪い中、いくつもの部屋を通り抜けた。

 俺は時折後ろを振り返り、弟がついてきているのを確認した。できるだけ物音をたてないように逃げていたが、撒くことはできていないようで、破壊音がどんどん近づいてきていた。

 古びたドアを開けて建物から出る。近くにはちょうど子供がぎりぎり通れるようなマンホールがあり、そのうえ運よく蓋はずれていた。

 俺は力任せにマンホールの蓋を脇にやり、先に中に飛び込んだ。あとで弟が下りるときに体勢を崩したとき、下で受け止めてやろうと思ったんだ。それに、中に何か危険なものが無いかを先に確かめたかったから。

 だけど、弟はいつまでたっても下りてこなかった。俺はずっと下水道で両手を広げて待ち続けた。

 気づけば、ずっと背後に感じていた破壊音と邪悪な気配はすっかり消え失せていた。


 ◆

 「弟は優しいやつだから、吸血鬼にさらわれた時、俺の名前を出さなかったんだ。俺だけでも逃がすために、あえて無言でさらわれた。とても怖かっただろう。それでも、弟は最後まで俺のことを考えてくれていたんだ。だから、俺はこの命に代えてでも弟を助けてみせる」

 俺が話し終わると、ヒトデは俺の頭をぐしゃぐしゃにした。ぼさぼさになった髪が目に入り、俺は目をしばしばさせる。

 「わかった。よく話してくれたな」

 そして、ヒトデは空を見上げた。

 月は沈みかけていて、もうすぐ夜が明けるだろう。

 「オレにも兄貴がいるんだぜ」

 ヒトデはぽつりぽつりと話し出した。

 「吸血鬼は成功体と亜種がいるっていったが、例外として、始祖っつーのが一匹だけいる。キサラギが創り出しているのは中途半端な吸血鬼だが、始祖だけは別格だ。神出鬼没で怪力無双、変幻自在、おまけに不老不死。まさに、童話の中に出てくるような完全な吸血鬼だ」

 今度は俺が黙ってヒトデの話を聞く。

 「だが、そいつは吸血鬼として強すぎた。キサラギによって創り出されたが、キサラギの指示を聞くことなく、ラボから一人で逃走。今は誰一人としてそいつの居場所を知らねぇ。そいつは優しいやつだったから、自らの力を恐れたんだよ。容易に誰かを傷つけてしまうその力をな」

 ヒトデはネックレスをちゃらりと鳴らす。

 「馬鹿だよな、オレの兄貴。何も一人にならなくたって、オレがいたのによ」

 俺が何も返せないでいると、ヒトデは俺の頭を軽くはたいた。

 「まっ、お前には関係ねぇから気にすんな。ただ、キサラギを倒すにあたって、始祖の力も借りれたら楽っつーだけだからよ。一人になったのは、兄貴の選んだ道だしな」

 そして、俺に背を向けた。

 「話も終わったことだ。とっとと帰るぞ。引力操作、心ノ臓」

 またもや強制的に負ぶられ、周囲の景色がものすごい速さで過ぎ去っていく。

 いつもなら俺は文句を言うだろうが、今回ばかりはありがたかった。俺は顔を見られたくなかったし、それはヒトデも同じだろう。

 アジトに戻るまで、俺たちが話すことはなかったし、耳につけているイヤホンも無言を貫いていた。


 ◆

 「帰ったぜ」

 アジトに戻ってきた時には、朝の六時だった。

 リビングには、眠そうな顔をしたトンボと、見たことない女の人がいた。二人は椅子に座り、何かを話している。

 俺たちが帰ってきたことに気づいた二人は顔を上げた。

 トンボが腰を上げ、出迎える。

 「おかえり。おつかれさま、お風呂もご飯も用意できてるよ」

 のほほんとそう言ったあと、トンボはにこりと笑う。

 「翔太朗くん、よく頑張ったね」

 ジャージ姿の女の人も立ち上がり、こちらへと歩いてきた。

 そして、俺の前で立ち止まり、少し身を屈めて俺の顔をじっと見つめてくる。

 その女の人はクールな雰囲気の美人で、俺はどぎまぎした。女の人の長いまつ毛が、深い緑色の瞳に影を作る。健康的な肌はまるで陶器のようだ。

 真っ赤な口紅を塗った艶やかな口が開いた。

 「25点。小柄だし顔はまあまあだけど、年齢が範囲外。何より、私の好みじゃない。子供が入ったって聞いて期待してたんだけど。やっぱりウサギきゅんが一番。ウサギきゅん最高すぎて早く会いたい」

 「えっ?」

 きょとんとする俺と女の人の間にトンボが割って入る。

 「はい、気にしないでね翔太朗くん。おれの後ろに立ってるおばさんはちょーっと幼い子が好きな人なだけだから。そんでその執着の度合が気持ち悪いだけだから」

 「誰がおばさんって? それにあんたの方が私の何倍も気持ち悪いわよ」

 トンボの首に手が回り、そのまま力が込められる。

 「ぐっ、ごめんって。ギブ! ギブだから手を離して、K」

 トンボが両手を上げると、Kと呼ばれた女の人がぱっと手を離した。    

 「あんた、ほんとに懲りないのね」

 「全く、おれの顔に何かあったらどうすんのさ。この国宝級イケメンがイケメンじゃなくなったら、女の子たちが悲しんじゃうじゃないか」

 「言っとくけど、顔は私の方が綺麗だから」

 目の前のテンポの良い会話についていくことができず困っていると、珍しくヒトデが「おい、そういうのは後にしろ」と助け船を出した。いや、助け船というよりは、単純に自分が嫌だっただけな気もする。

 「いやあ、ごめんごめん」

 片手で謝り、トンボはもう片方の手を差し出してくる。首を傾げる俺の横で、ヒトデは耳のイヤホンを外し、トンボの手の上に置いた。それを見習って、俺もイヤホンを返す。

 Kと呼ばれた女の人はくるりと後ろを向き、そのまま階段の方に歩いていく。

 「じゃあ、私はアプリの不具合を見てくるから。そんであわよくばウサギきゅんと話してくるから」

 「助かったぜ、K。あと、ウサギは就寝中だ」

 その背中にヒトデが声をかけると、Kはさっと片手を挙げて去っていった。嵐のような人だ。

 「あれがKだ。メカ担当。ここでは唯一の人間だな」

 ヒトデの横に立ったトンボがやれやれと首を振る。

 「ただ、まともかどうかって聞かれたら、さっき翔太朗くんも見た通り、かなりやばい人だよね。ここで一番まともなのはおれだし」

 「ウサギだろ」

 間髪入れないヒトデの一言にトンボの顔が引きつる。

 「まっ、まあとりあえずヒトデはお風呂入ってきなよ。その間におれは翔太朗くんと話しとくからさ」

 「余計なこと言うんじゃねぇぞ」

 「わーかってるよ」

 ヒトデがリビングから出て、部屋にいるのは俺とトンボの二人になった。

 「さっ、座りなよ、翔太朗くん」

 トンボに促されるままに椅子に座る。

 「ご飯食べながらでいいからさ、聞いてくれない?」

 俺の目の前にはできたてなのだろうアツアツのハンバーグ。俺はこくりと頷いた。

 「いただきます」

 俺が食べ始めると、トンボは俺の前で頬杖をついた。

 「ねぇ、ヒトデの様子は普通だった?」

 頷くと、トンボは「なら良いんだ」と呟いて話を続ける。

 「イヤホンで聞いてたよ、きみの話」

 俺は箸を止めた。そして、トンボの反応を伺う。トンボは、この二日ほどの関わりの中では想像もつかないほどの真面目な顔をしていた。 

 「おれもね、大切な人のために戦ってるんだ。おれの大切な人は、吸血鬼に襲われたショックで精神を病んでしまって、今じゃおれのことも認識してくれない」

 机の上に置いてあるペンを手に取ったトンボは、右手でくるくると回す。

 「おれたち半人間は身体能力が普通の人間よりもほんの少し高い程度だから、吸血鬼に襲われる幼馴染に何もできなかった。ただ、彼女がゆっくりと病んでいくのを指を咥えて眺めることしかできなかったんだ。ヒトデの身体能力が例外中の例外なんだよ」 

 トンボがゆっくりと顔を上げる。

 つい先ほどまで人懐こく輝いていたヘーゼルの瞳は、座りきって冷たい光を放っていた。

 「だから、おれたちで絶対に吸血鬼を抹殺しよう」

 俺の背筋を冷や汗がつたう。

 「だ、だが、吸血鬼だって元は人間だろう?」

 「そうだね。確かに彼らも元を辿れば人間だ。けど、おれからすると、おれの幼馴染を傷つけた時点で悪以外の何者でもないんだよ」

 トンボはすっと目を細めたあと、ぱっと笑顔になった。

 「なんてね。怖がらせてごめんね、翔太朗くん。ただ、一度吸血鬼や半人間になってしまったらもう二度と人間には戻れないということは知っておいてほしい」

 がくがくと頷く。この雰囲気は不味い。俺は話を変えることにした。

 「何でヒトデは例外なんだ?」

 「あー、これについては本人の口から直接聞いた方が良いと思うよ。ちょうどお風呂から出たみたいだし」

 言葉を濁し、トンボが席を立つ。

 「じゃあ、おれはそろそろ寝るね。おやすみ」

 入れ替わるようにして、ヒトデが俺の前に座った。 

 「んで、トンボのヤローと何話てたんだ?」

 「ヒトデの身体能力が例外だって話」

 自分の分の皿を机の上に置いたヒトデが舌打ちをする。

 「あいつ、ぺらぺらと人のことを話しやがって」

 そして、ヒトデは自分の心臓を指さした。

 「今動いてるこの心臓は、オレのものじゃねぇんだよ。キサラギによって造られた人工の心臓だ。そんで、この心臓の拍動は普通じゃねぇ。吸血鬼用に造られてっから、普通の何倍も強く、速く脈打つ。多くの酸素が体内を高速で循環するから、オレは吸血鬼並みの運動神経を持つし、再生能力と再生速度もヤツらに劣らねぇんだ」

 手が滑り、箸が落ちる。箸が床にあたるカツンという音がいやに響いた。

 ヒトデに負ぶられたときに感じていた違和感の正体がわかった。やけに拍動を感じるなとは思っていたが、まさか人間の心臓ではなかったとは。

 「そうか、ヒトデの心臓は自分のものじゃないのか」

 「ああ、だからオレは吸血鬼を狩りつつ、自分の心臓を探してんだよ。今まで集めた心臓は全部部屋でコレクションしてるから、お前も見に来るか?」

 俺は床に落ちた箸を拾い上げた。幸い、もう食事は終わっている。

 「いや、遠慮しておく」

 心臓を愛でる趣味など持ち合わせていないし、今日アジトを出る前のヒトデの様子を思い出しても、見に行かないという判断をするのが賢明だろう。

 立ち上がり、食器を片付けようとすると、ヒトデが俺の顔を凝視していた。 

 「なぁ、お前……」

 「何だ?」

 俺もヒトデの顔を見返す。俺とヒトデの視線が交差する。

 ヒトデはふいっと視線を外した。

 「いや、何もねぇよ。オレの勘違いだ」

 「そうか」

 怪訝な顔をした後、キッチンまで歩いていき食器をシンクに置く。

 そして、風呂へと移動する。そこには俺が昨日着ていた服がきちんとたたまれて置かれていた。トンボがそうしてくれたのだろう。破れてしまったところは、生地が似ている布をあててきちんと直されていた。色は似ているがそもそもの布の材料が違うらしく、そこだけやや分厚い気がするが、何の問題も無い。

 俺が風呂からリビングに戻ったときにはすでにヒトデの姿は無かった。

 昨日と同じようにソファの背もたれを倒して電気を消し、俺は眠りに着いた。


 ◆

 人の気配を感じた俺が目を覚ますと、椅子に座っていたトンボが眼鏡を中指で上げて俺を見た。

 「あ、起こしちゃった? ごめんね」

 俺は立ち上がり、何やらトンボが真面目そうに眺めているものを後ろから覗き込む。

 「うわっ」

 手のひらサイズのアルバムには、眼球を拡大コピーした写真がびっしりと並べられていた。

 思わず固まる俺に、トンボはへらりと笑ってアルバムをしまう。

 「言い訳になっちゃうけど、おれたち一類は体の失った部分に対して執着を持ってるんだよね」

 「一類」はヒトデも言っていた。俺はトンボから距離をとりつつ尋ねる。

 「一類って何だ?」

 「簡単だよ。おれたちみたいに吸血鬼の人体実験の過程でどっか身体の一部抜き取られて人口のものに交換されてるのが一類。能力は交換された器官に準ずるよ。例えば、ヒトデは心臓を抜き取られてるから能力は心臓に関するもの。その反対に、器官を交換されてないのが二類。身体の器官とは関係のない能力を手に入れられる代わりに必要とする血液の量が一類と比べ比較的多い」

 トンボはさっき自分のことを一類と言った。それに、その能力は目に関するものだ。

 「じゃあ、トンボのその目は義眼なのか?」

 ポケットから魚の目玉が入った袋を取り出したトンボが、急に真顔になって俺の顔を覗き込む。ヘーゼルの瞳はガラス玉のようだ。

 「ねぇ、きみのその琥珀色の目、綺麗だね」

 何か冷たいものを感じ、俺は慌てて後ずさりした。

 トンボがからからと笑う。

 「ごめんって。それより、あの人でなしのヒトデくん呼んできてくれない?」

 俺は何度も首を縦に振った。

 ヒトデは言うまでもなく、トンボもこんな感じだし、Kも変な人だったし、ここはウサギ以外にまともな人間はいないのだろうか。それとも、ああ見えてウサギもやばいやつなのだろうか。

 急いで階段をかけ上がる。さっきのトンボ、顔や口調は笑っていたが、目が本気だった。

 一気に三階まで走り、何もかかっていないドアをノックする。

 「入れ」

 中からヒトデの低い声が聞こえ、俺はそっとドアを押す。

 ヒトデの部屋は、一言で表すと殺風景だ。ドアの方を向くように一つだけ置かれたソファ、窓にはここしばらく開けられた様子が無い重そうなカーテン、部屋の隅の方にたまっている埃など、明らかに客人の存在を歓迎していない。ドアの正面の壁には巨大な本棚が置かれており、びっしりと分厚い本が並んでいる。タイトルをよく見ると、どうやら医学書のようだ。

 その本棚の前で、ヒトデは何やら熱心に読書をしているようだった。

 「何してるんだ?」

 「あ? 見てわからねぇのか。心臓に関する最新の論文を読んでんだよ。この教授は最先端の人だからな。」

 俺は拍子抜けした。普段のヒトデからは到底想像がつかない。それに、医学の専門用語の知識などが無ければ読むのは困難だろう。

 「読めるのか?」

 ヒトデは頭をがりがりと掻いた。

 「あー、まあな」

 本を片手に持ったままのヒトデが、本棚の横にあるクローゼットの扉を開く。

 「すまねぇが、あと少し時間がかかりそうだからオレのカワイ子ちゃんたちでも見といてくれ」

 俺は中を覗き込み、すぐに後悔した。中には木製の棚があり、そこには様々な大きさの心臓のホルマリン漬けが丁寧に並べられていた。造りにもいくつかの種類があり、人間以外の心臓もコレクションされているようだ。

 部屋には埃が溜まっていたりとあまり手入れされている様子がないのに、このクローゼットの中はとても綺麗だ。ヒトデの心臓に対する愛着が一目でわかる。

 「うっ」

 何かこみ上げてくるものを感じ、俺は顔を背けた。

 しばらくして、ヒトデが本を閉じる音が聞こえた。

 「悪ぃな。待たせちまった詫びに、特別にオレのハニーたちの紹介でもしてやろうか? ちなみに今日の晩酌の相手は」

 「いや、いい」

 ヒトデの機嫌がなぜ良いのかはわからないが、俺はヒトデが言い終わらないうちに断った。人の好きなものを悪く言うことは駄目だと知ってはいるが、それとこれとは違う。

 「そうか。まあ、俺はまだ用意に少しだけ時間がかかるから、下行ってトンボに次の標的についての話でも聞いてろ」

 ヒトデが言い終わると同時に俺は部屋から出た。あの数の心臓と、部屋中に充満していた薬品に匂いに胸やけがする。少し屋上に出て外の空気を吸ってから下りることにした。

 綺麗とは言えない外の空気を吸ってから戻ってくると、トンボの先ほどまでの不穏な空気は跡形もなく消え去っていた。相変わらず魚の眼球をむしゃむしゃと食べているが、それはもう見慣れてしまった。

 トンボは、首にかけているヘッドフォンのマイクだけを口元にやった。

 「ありがとね、翔太朗くん。ヒトデが一緒にいないってことは、どうせヒトデに用意している間に説明でも聞いとけって言われたんだろうから、さらっと説明するね」

 今までのトンボの話しぶりからも、今のこの発言からも、ヒトデとトンボは付き合いが長いのだろうことが伺える。

 「まず、今回の標的である吸血鬼は二類だよ。大量の血を必要とする代わりに、身体とは関係無い能力を使うやつのことね。そんで能力についての詳細は、今のところ不明。わかってるのは、空間に関するものだっていうことと、その能力の効果は日にあたると解除されるってこと。ここまでおっけー?」

 俺は頷いた。昨日ナビゲートしてくれたときの説明にしろ、トンボは子供に何かを説明するのが慣れているのだろう。アルバイトで塾の講師などをしていそうだ。

 「じゃあ、次は見た目について。確か理系の大学院に通っていたはずだから、おれたちとそう年齢は変わらないね。黒髪の長身で眼鏡をかけているはずだ。髪はヒトデと同じぐらにの長さ、体系は中肉中背でややがっしりしてる。まあ、一番わかりやすいものとしてはやっぱり目だね。成功体の吸血鬼だから、亜種とは違い暗くなった時点で真っ赤に光る。わかってるのはこんな感じかな」

 「それだけわかりゃ十分だぜ」

 声がした方を向くと、いつの間にか下りてきていたヒトデが、銀の十字架のネックレスを首にかけようとしていた。今日も全身真っ黒な格好をしている。

 「待たせたな。おら、行くぞ」

 首根っこを掴まれ、トンボに視線を送る。トンボはのほほんとした笑顔で「いってらっしゃーい」と言ってきた。絶対にわざとだ。

 結局俺は玄関まで引きずられていった。


 ◆

 「お前の分だ」

 ヒトデに右耳のイヤホンを渡され、しぶしぶと耳につける。もう少しトンボの説明を聞いていたかった。ヒトデは吸血鬼に匹敵する身体能力を持っているのかもしれないが、俺のこの体は人間なのだ。力で勝てないところは他で補わなければならないのに、それをわかっているのだろうか。

 「じゃあ行くぜ。引力操作、心ノ臓」

 またもやヒトデに負ぶられる。公共交通機関を使うという考えはないのだろうか。俺の考えを見透かしたかのように、耳元からトンボの声が聞こえた。

 『公共交通機関はこの時間は動いてないよ。動いてたとしても深夜バスぐらいだね』

 「それに、一般人がいたら戦闘の邪魔だ」

 ヒトデがそう付け加える。

 『戦闘狂は黙ってて。じゃ、今から視界共有始めるよ。I want to know everything』

 またも、視界にマップが表示された。つくづく便利な能力だ。

 一歩踏み出したヒトデががくんと体勢を崩す。

 「どうしたんだ?」

 「何もねぇよ。ただ石ころに気づかなかっただけだ」

 そのヒトデの口ぶりに違和感を覚えるが、何がおかしいのかはわからない。

 『ちょっと、ヒト』

 「うるせぇ」

 何か言いかけたトンボに被せるようにそう言うと、ヒトデは今度こそ走り出した。能力で引き寄せられている自分の心臓越しに、ヒトデの心臓がドクドクと拍動しているのを感じる。その拍動はやはり強く速く、普通のものではなかった。

 そういえば、心臓の生涯に拍動できる回数は決まっていて、その回数が終わると心臓の活動は止まり生物は死に至ると聞くが、ヒトデの場合はどうなのだろう。他の生物のように死ぬのだろうか。それとも、人口の心臓ならいくらでも交換することができるのだろうか。後者であるならば、キサラギの技術が世に残り続ける限り、ヒトデは不死だという考え方もできる。

 俺が不死に対してあれこれと思いを巡らせている間に、目的の場所に着いたようだった。

 「今回は、成功体の吸血鬼が相手だからお前の誘導はいらない。適当に歩き回って吸血鬼をおびき寄せ、オレがしとめるまで注意を引き付けろ。言うなれば、制限時間まで生き残りさえすれば良い」

 俺はふと疑問に思った。心臓と心臓の間に引力を発生させることができるのなら、おとりに俺を使ったりなどという面倒なことはせずに、最初から相手の体を引き寄せるなりして心臓を刺したら良いのではないか。

 「わかったけど、ヒトデが最初から相手の心臓との間に能力を使って仕留めることはできないのか?」

 背を向けていたヒトデが、背後からでもわかるほどにわざとらしくため息をつく。

 「馬鹿かお前。そんなことしたら、相手は俺の腕の長さプラス銀ナイフの長さより長い武器を持って突っ立ってるだけで俺を殺せる。長い武器が無くとも、俺に向かって何か尖っているものを構えているだけで相打ちだ」 

 もっと違う能力の使い方があるかもしれないと思ったのだが張本人が言うのだからそうなのだろう。俺が「そうか」とだけ言うと、「じゃあオレはかくれんぼの準備をしてくるぜ」と返しヒトデの姿は闇に溶けた。恐らく、いつも全身真っ黒な服装をしているのは、闇に溶け込みやすくするためなのだろう。

 一人残された俺は、辺りを見まわした。周囲にあるマンションはどれも高く、たくさんの人が住んでいるであろうことが容易に伺える。また、そのほとんどは平凡な形をしていて、コピーアンドペーストで建てられているようだ。

 俺が立っている道路は、白線がところどころかすれていたり、道の隅にティッシュが捨てられていたりと綺麗とは言いきれない。また、直線的な形をしているが、左右いたるところに角があるため、直線を走り切るスピード勝負になることはなさそうだ。

 「なあ、さっき一緒におったやつ何なん?」

 後ろから関西弁で声をかけられ、俺は後ろを振り向きながら反射的に声の主から距離を取る。

 声の主の男は、よれよれの白衣のポケットに両手を突っ込み、俺に顔が見えないように俯いていた。ほんのりとコーヒーの匂いがする。

 「楽しそうやし、ボクも混ぜてくれへん?」

 男がゆっくりと顔を上げる。

 「コンストラクション」

 思った通り、その目は燃えるような赤色をしていた。

 俺は弾かれたかのように走り出した。

 ドン。

 しかし、すぐに何かにぶつかる。まるで、何か透明な板に阻まれているようだ。

 「あれ、ボクの能力教えてもろてないん? ボクの能力はなぁ、空気を固定して一時的に個体にする能力やで。リアルなパントマイムみたいなもんやなぁ」

 つまり、さっき俺が思い切りぶつかったのはこの吸血鬼の能力によって作り出された物体だったということか。

 『不味い! ヒトデ、今すぐ翔太朗くんを!』

 珍しくトンボの焦った声が聞こえると同時に、俺の体が真上に引き上げられる。

 宙に浮いているヒトデの背中と、俺の背中がぴたりとくっついた。恐らく、ヒトデは両端のマンションの同じ階にいる人二人と自分の心臓の間に引力を発生させることで空中に浮いているのだろう。

 「何してるんだよ? 俺がおとりになっている間にヒトデが倒すんじゃないのかよ?」

 俺がそう詰めると、ヒトデは何故か上を見上げた。

 「うるせぇ、話が変わったんだよ」

 そして、両手で糸を引っ張るような仕草をし、さらに上昇する。マンションの最上階付近まで上がると、今度は片手で何かを押すような仕草をした。俺たちの体が斜め上に上がり、すぐ下にはマンションの屋上が見える。

 両手で何かを払うような仕草をしたヒトデの体が、床にふわりと下りる。

 そして、腰の小さなバッグから、銀ナイフを二本取り出した。口で鞘を外し、背中越しに一本俺に渡す。

 「おら、持っとけ」

 右手で受け取り、あちこち眺める。綺麗に研がれているそれは、月光を反射して危険に光った。

 「それで自分の身は自分で守れ」

 「だから、どうして話が変わったんだ」

 ヒトデが舌打ちをする。

 「相性最悪なんだよ。それに、あいつの能力だと逃げられずに死ぬぞ、お前」

 「どういうことなんだ」

 俺の問いに答えることなく、ヒトデは黙り込んだ。背中を通して伝わる心臓の鼓動がどんどん強く速くなる。それに合わせて、ヒトデは何度も深い深呼吸を繰り返した。

 最後にフッと短く息を吐き出し、「集中しろよ」と言って足に力を込める。そして、助走をつけマンションの屋上から飛び出した。

 重力に従って俺たちの体が落ちる。大きかった月がどんどん小さくなる。一定のところまで落ちると、今度は振り子のように弧を描く。本当に、心臓と心臓の間に糸が発生しているようだ。家電量販店のテレビで見た海外のヒーローを思い出す。彼も糸を使って空中を移動していた。

 それにしても、後ろ向きだと昔一度だけ乗ったジェットコースターのようだ。まだ父さんがいたときに弟と二人で行ったんだっけか。

 『ちょっと、翔太朗くん! ぼんやりしてたら危ないよ』

 俺ははっと我に返った。そうだ、弟との思い出に浸っている場合ではない。弟を助けるためにも、目の前のことに集中しなければ。

 「ヒトデとあの吸血鬼の相性が悪いってどういうことなんだ?」

 『翔太朗くんは、ヒトデの強さって何だと思う?』

 体ががくんと揺れ、左に動く。右わき腹のすぐ横を何かがものすごい速さで飛んで行った。間一髪のところでヒトデがよけていなかったら、今頃俺の腹には風穴が開いていただろう。

 「心臓との間に引力を発生させられるから、人さえいればある程度自由に空中を移動できうところか?」

 『まあそうだね。一言で表すと機動性。普通の人間は三次元の世界に生きていながらも移動できるのは平面のみだけど、ヒトデはそれを無視できる。己の力のみで立体を移動できるんだよ。つまり、他人と比べて行動可能範囲が段違いなんだ』

 「だからって、どうしてあの吸血鬼との相性が悪いって言えるんだ」

 「心臓の無い人でなしのヒトデ。よく噂に聞いてたしめっちゃ楽しみにしててんけど、何や思ってたよりも雑魚そうで残念やわ」

 視界にいきなり現れた吸血鬼が、白衣をなびかせてこちらへと走ってきていた。空中の空気を固め、足場にしているのだろう。

 『きみも今見ているでしょ。その吸血鬼は空気を固められて足場を自由に作れるから、空中も自由自在に行動できる。この時点で、ヒトデのアドバンテージはほとんどない。そして、いくらヒトデの身体能力が高いと言っても、吸血鬼に勝るわけではない。つまり、五分五分だ』

 またしてもヒトデの体勢が急に変わる。俺の手足が大きく揺れた。振り子のように揺れる動きと急に振り回される動きが組み合わさって酔いそうだ。起きたときに食事の準備がされていなかった理由はこういうことか。

 『それに加え、空気を固められるってことは空中にギミックを作り出せるということだ。しかも、透明だから気づきにくい。実際、翔太朗くんも目の前に壁があるのにも関わらず、ぶつかるまで気づかなかった。今こうしてヒトデが相手の能力によるギミックを避けられているのは、監視カメラを通して見える違和感をおれが視界共有でヒトデに送っているからだよ。要するに、アドバンテージを封じられた上相手に行動を誘導されているヒトデの方が不利ってこと』

 そういうことか。さっきから急に方向を変えたり体勢が不安定になったりしているのは、空気を固めてできた壁のようなものをヒトデが避けているからなのか。

 『監視カメラ、翔太朗くんの視界、心臓の拍動促進。この三つを使ってようやく死なずにいれてるってわけ。まあ、押されてることは確かなんだけどね』

 「黙れ」

 ヒトデが低く唸る。先ほどからずっと心臓がドクドクと脈打ってるのが聞こえるが、大丈夫なのだろうか。

 「なぁなぁ、鬼ごっこはそろそろやめにしてもうそろそろ殺し合いでもせーへん? ボク走るのそんな好きちゃうねんけど。普段ずっと研究室にこもってるし、運動自体あんまり得意ちゃうし」

 吸血鬼との距離が徐々に縮まってきているのだろう。吸血鬼の声が少しずつ大きくなっている。

 俺は不思議に思った。動きたくないのなら、なぜこの吸血鬼は俺たちを閉じ込めないのだろうか。空中に、俺たちとこの吸血鬼のみが存在する部屋を作り上げたら良いのではないのだろうか。

 恐らく、それができない理由があるのだろう。その理由さえわかれば、突破口が見つかりそうなのだが。

 『ヒトデ』

 「何だよ」

 『ウサギがちょうど今そっちいるらしくて、今から増援に向かうって』

 「そうか。落ち合う場所を教えろ」

 『今視界共有で送ったから、十分後に目的地に着くようにして』

 「おう」

 俺はイヤホンを抑えた。 

 「ちょっと、二人とも何を言っているんだ。ウサギは身体能力は吸血鬼に遠く及ばないんだろ? それに、まだ子供じゃないか」

 「あ? オレらは基本的に本人の意思は尊重してんだよ。それに、ウサギも半人間だから、お前よりもよっぽど戦いなれてる」

 「そういう問題じゃないだろ!」

 ウサギは俺の弟よりも幼い。そのような小さい子をこのような死ぬ危険がある場所に来させるのは正気の沙汰じゃないように思えた。

 「ウサギはオレらを信用しているから、今から増援に来る。そのウサギを信用しねぇでどうすんだよ。それにウサギはただのガキじゃねぇ。オレの仲間だ」

 『そういうことだから安心して。翔太朗くんはウサギが来たら、ヒトデに負ぶられる役割を変わって。あの子、聡明だし度胸もあるけど、足は遅いから』

 何を言っても無駄だということがわかり、俺はしぶしぶ頷く。

 「わかった」

 「あと十分。気合入れなおせ」

 ヒトデにそう言われ、俺は手にある銀ナイフをぐっと強く握った。


 ◆

 俺が常に銀ナイフをかまえているからなのもあるのだろう、吸血鬼はあまり俺たちに近づきすぎることはなかった。絶妙な距離を保ちつつ空中でチェイスを繰り広げる。

 「時間だ。一気に動く」

 そう言い終わらないうちに、いきなり体が急降下した。普通に落ちるのよりも何倍も速い。口を開けていると、臓器が出ていきそうだ。

 降下速度がゆっくりになり、ヒトデが地面に着地する。能力を解除され俺の背中がヒトデの背中から離れる。頭がくらくらするのを感じた。

 「乗れ、ウサギ」

 ヒトデがウサギに背を向ける。全体的に色素が薄いウサギの明るい銀髪が闇に映えている。

 ウサギは、タートルネックの襟越しに喉に手をやった。

 「声を喰らい、音に沈む」

 そして、俺に向かって敬礼をする。

 「翔太朗さん、お疲れ様だっちゃ。今からぼくも加わるっちゃ」

 「ウサギ! 後ろだ!」

 俺はウサギの背後を指さす。横に立っていたヒトデが俺の耳に耳栓を突っ込んだ。

 向かってきた吸血鬼に対し、首にかけていたヘッドフォンとそのマイクを装着したウサギが大きく口を開く。

 「  」

 何かを言いながら、吸血鬼が耳をふさいだ。その隙をついてヒトデが俺とウサギを両肩にかつぎ、反対方向に逃げる。

 俺は耳栓を取る。

 「さっきのは一体何なんだ?」

 「超音波だっちゃ。ぼくは、人の声だけでなく低音波や超音波などの聞き取れない音も出せるっちゃ。さっき出したのは、吸血鬼が一番嫌がる二十万ヘルツの音っちゃ。普通の人間が聞き取れる音は二万ヘルツっちゃから、その十倍、大体コウモリやイルカじゃないと聞き取れない音ちゃね。あとは、ある音波と全く逆の形の音波を出すことで元の音を消すこともできるっちゃ」

 「すごいな……」

 俺の感嘆の声に、なぜかヒトデが自慢気な顔をする。

 「オレの仲間はすげぇっつったろ」

 ヒトデの頭をはさんで隣のウサギがふわりと笑った。

 少し距離を取ったところで、ヒトデは俺とウサギを地面に下ろした。

 ヒトデが細い道を顎で示す。

 「オレとウサギは、今からあいつの注意を引きつつ隙を見つけて殺す。お前は極力吸血鬼に見つからないように隠れつつ、動きを観察しろ。そんで、その情報をトンボに視界共有でオレらに送らせる」

 「わかった」

 俺が頷くと、ヒトデはウサギの背中と自分の背中をくっつけた。

 足をぶらぶらとさせながら、ウサギが笑顔で俺に手を振る。

 「では、敵はぼくたちが片付けてくるので、翔太朗さんも気を付けてっちゃ」

 面倒そうに片手を挙げたあと、ヒトデは吸血鬼のいた方に向かって走り出した。

 残された俺も、いつでも逃げられるように全神経を集中させながら後を追う。

 ほの暗く光る自動販売機の横を通り、小さな公園を突っ切る。

 客が誰もいないコンビニを過ぎて角を曲がろうとした時だった。

 ゴッ。

 後頭部に鈍い衝撃を感じ、俺は意識を失った。



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