第2章: 闇に沈む声

 ――冷たい。固い。狭い。


 意識が戻った瞬間、全身がざらつく感触に包まれた。

 冷たいコンクリートの床。まとわりつく湿気。鼻を刺す土の匂い。


 まるで、地面に埋められたみたい。


 恐る恐る目を開けた。


 …………何も見えない。


 ただの暗闇じゃない。完全な、闇。

 手をかざしてみても、輪郭すら分からない。自分の指が本当にそこにあるのかすら、確信が持てない。


 「……え?」


 胸の奥がざわつく。


 手を動かそうとした、その瞬間――


 「っ……!!」


 ガチャン。


 両手首に食い込む冷たい感触。冷たい金属の重み。

 力を込めても、びくともしない。


 手錠……?


 「嘘……」


 恐怖が、骨の髄まで染み込んでいく。


 足を動かそうとしても、何かに絡め取られたように重い。

 足首にも、鎖の冷たさがまとわりついていた。


 ――逃げられない。


 「誰かっ!! 誰かいるの!? 助けて!!!」


 叫んだ。暗闇に向かって声を振り絞った。


 「助けて!!!」


 静寂だけがそこにある。


 「お願い……誰か……」


 耳鳴りがするほどの静けさ。


 喉がこわばった。胸が痛い。瞼が熱くなる。


 ――ここは、どこ? 私、どうなったの?


 「誰かっ!!」


 再び叫んだ、その瞬間――


 カタン……。


 扉の向こうから、何かが動く音がした。


***


「そんなに叫んだら、喉が潰れちゃうよ。」


 扉越しに囁いた。


 メイの息が止まる。


「無駄だよ。この部屋は防音だからね。」


 のぞき窓から彼女を見下ろす。闇に沈む彼女の輪郭が、かすかに震えているのが分かる。


「怖がらないで。君のためなんだから。」


「何が『君のため』よ! 頭おかしいんじゃないの!?」


 怒気に満ちた声。でも、その奥に滲むのは恐怖。


「おかしい……? 僕はね、メイ。君のことを守りたいだけなんだ。」


 メイは息を呑む。


「なに言って……」


「ここなら、誰も君を傷つけない。誰も君を奪わない。君は、僕だけのものだから。」


 メイが、静かに唇を噛みしめるのが分かった。


「ふざけないで……!!」


 震えながらも睨むその瞳。


 ——かわいい。


 メイは荒い息を吐きながら、鎖を引きちぎろうと必死にもがく。


「そんなに暴れたら、痛い思いをするのは君なんだよ?」


 優しく諭すように言う。


「やだ……っ……!!」


 ガチャリ、ガチャリ。鎖が鳴る。


「……ここから……出して……」


 涙声になっていた。


「ねえ、知ってる? 人間ってね、暗闇に閉じ込められると、簡単に壊れちゃうんだって。」


 囁くように言った。


「パニックになったり……幻覚を見たり……自分が誰なのかすら、分からなくなっちゃうんだってさ。」


「やだ……やだ……っ」


 メイが首を振る。


「君はいつまで、狂わないでいられるかな?」


 暗闇の中、メイのすすり泣く声が響く。


 マサシは扉にそっと手を添え、静かに微笑んだ。


***


  ――どれくらい、経ったの?


 時間がわからない。

 暗闇に囚われて、眠ったのか、目を覚ましたのかも判断できない。


 体が重い。関節がきしむように痛い。

 お腹が空いているはずなのに、それすらも鈍い。

 ただ、喉がひどく乾いていた。


「……ぁ……」


 唇がひび割れている。舌でなぞると、鉄の味がした。

 喉を潤そうと唾を飲み込もうとしても、ほとんど出てこない。


 目を開けても、何も見えない。

 何度も瞬きをしてみる。

 でも、変わらない。


 手を伸ばしてみる。

 何もない空間をかきむしるように、指先を動かす。

 自分の体が、世界に溶けてしまったような感覚がする。


――私、ここにいるよね?

――私、生きてる?


「……っ……誰か……」


 声がかすれる。


「……誰か……」


 喉を痛めても、叫ぶしかなかった。


「お願い……助けて……っ」


 そのとき——


 ギィィ……


 扉が開く音がした。


***


「メイ。」


 扉を開けると、彼女がかすかに動いた。

 膝を抱えていた体が、ゆっくりと顔を上げる。


 「……」


 光にさらされたメイの顔は、やつれていた。

 目の下には影が落ち、唇は乾き、ひび割れている。

 かつて透き通るようだった肌も、今は血の気がない。


 「お待たせ。」


 メイの前にしゃがみ、優しく微笑む。


 「ごはん、持ってきたよ。」


 食事を用意すると、メイの体がかすかに震えた。


 「あ……」


 彼女の喉が、乾いた音を立てる。


 「……食べる?」


 「……っ」


 メイはゆっくりと頷いた。


 「よしよし。」


 頬を撫でる。


 「いい子だね。」


 拘束を外す。


 「ほら、あーん。」


 スプーンを差し出すと、メイはほんの少し躊躇して——

 それでも、口を開けた。


 温かいスープが舌を満たす。

 メイの喉が、ごくりと鳴る。


 「おいしい?」


 彼女は答えない。

 でも、震える手が、スプーンを求めるように動いた。


 「ふふ……」


 「やっぱり、食べないとダメだよね。」


 喉を潤すように、スープを飲み込むメイを見つめる。


 目の前で、彼女が生きている。

 この手の中で、僕に従い、命を繋いでいる。


 「かわいいなあ……」


 思わず、囁く。


 「ねえ、キスしたくなっちゃった。」


 メイの体が強張る。

 手を握ると、冷たかった。


 「いい?」


 ——嫌だと言っても、無駄だ。


 彼女は、それを知っている。


 ゆっくりと、唇を奪う。

 かさついた唇に、舌を這わせる。


 「ん……っ……」


 メイはわずかに震えた。


 「……好き。」


 喉の奥で囁く。


 「君も僕のこと、好き?」


 メイは答えない。


 「ねえ、好き?」


 そっと、頬に手を添える。


 「……好き……」


 彼女は、震える声で答えた。


 「ほんと? うれしいなあ。」


 頭を優しく撫でて、立ち上がる。


 「じゃあ、また明日。」


 「っ!!」


 突然、メイの手が伸び、僕の袖を掴んだ。


 「お願い!!」


 涙声だった。


 「お願い……ここから出して……っ!!」


 その声には、必死の願いが込められていた。


 「ひとりはいやなの……!!」

 「置いていかないで……!!」


 しがみつくメイを見下ろす。

 肩は震え、目には涙が溜まっていた。


 ——こんなに泣いちゃって。


 「かわいそうに……」


 指先で、メイの涙を拭う。


 「そんなに、暗闇が怖いんだね。」


 「……っ」


 メイは、懇願するように僕を見つめる。


 「ねえ……お願い……」


 震える声。


 僕は、微笑んだ。


 「でも、ダメだよ。」


 メイの瞳が、絶望に染まる。


 「まだまだ……足りない。」


 手を優しく振り払う。


 「君が僕をちゃんと見てくれるまで……僕を受け入れてくれるまで……君には、僕しかいないってわかるまで……」


 メイの涙が、頬を伝う。


 「徹底的にやるって決めたの。」


 「や……だ……っ……!!」


 声にならない悲鳴が漏れる。


 僕は立ち上がり、扉に手をかけた。


 「じゃあね。」


 最後に、囁くように言う。


 「おやすみ。」


 ——ギィィ……


 扉が閉じる音が響いた。


 闇が、再びメイを飲み込んだ。





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