第1章: きれいに隠してあげる

 それからの僕は、彼女のことを徹底的に調べた。

 住んでいる場所、通う店、交友関係、趣味、好きな本、嫌いな食べ物——。

 どこで笑い、どこでため息をつくのか。

 彼女のすべてを知り尽くしたかった。


 名前は「メイ」か。

 口に出してみる。


 「メイ」——その響きが、僕の中で心地よく反響する。

 甘やかな音が舌の上で転がり、何度も何度も舌先でその音を味わった。


 不思議だ。名前すら、こんなに甘く感じるなんて。


 ——メイ、メイ。

 まるでキャンディのように甘く溶ける音の粒。


 でも、この音をひとり占めできないことが、たまらなく苦しい。

 僕だけのものにしなければ。


 彼女が僕の世界に触れたように、今度は僕が彼女を、僕だけの世界へ連れていく。


 もう、決めた。


 ***


 メイの後ろ姿を見つめるだけで、僕の心は騒いだ。

 今日も、彼女は変わらない。薄手のカーディガンを羽織り、肩にはトートバッグを掛けている。歩調は少し早めだが、どこか浮ついている。おそらく目的地は、いつものカフェだろう。


 僕は数メートル後ろを静かに歩く。耳に届く彼女のヒールの音すら愛おしい。あと少しだ。すべてが変わるのは、今日。


 

 「あの、すみません。」


 路地に差しかかるところで、僕は声をかけた。


 メイが振り向く。初めて目が合った。大きな瞳が少し戸惑いながらも、柔らかい笑みを浮かべる。


 「あ、はい。」


 その声は、想像以上だった。ほんのり甘く、柔らかな響き。胸の奥を刺すような衝動が走る。


 「これ……落とし物ですか?」


 僕はハンカチを差し出した。それは、何日も前に彼女がカフェで置き忘れたもの。今日まで届けずに、待っていた。


 「あっ、本当だ!ありがとうございます。気づかなかったです。」


 メイの声が弾む。ハンカチを受け取る瞬間、わずかに触れた指先の温かさ。


 「いえ、たいしたことでは……」


 言葉が詰まる。息が上手くできない。


 メイがふと笑った。

 「すごく助かりました。あの、すみません、お名前は?」


 「マサシと言います。いや、大したことじゃないので……お気になさらず。」


 それだけ言って、僕は軽く頭を下げた。


 メイが再び歩き出す。その背中を、僕は見送る。口元が自然にほころぶ。


 これでいい。今は、まだ。


 だが、次は違う。次は――。


 ***


 夕暮れ。

 人気のない薄暗い通り。


 メイは路地裏を抜け、家路に着くところだった。


 ふたつの靴音が近づく。その瞬間だった。

 背後から、何かが覆いかぶさるように襲いかかってきた。


 「えっ、何――!」


 声を上げようとしたが、すぐに口が押さえられる。甘い香りが鼻をつき、体が力を失っていく。


 「大丈夫、大丈夫だから。」


 背後から聞こえる低い声。初めて聞く声のはずなのに、どこか聞き覚えがある気がした。

 けれど、その声には奇妙なほどの優しさが滲んでいた。


 メイはそのまま崩れ落ちる。意識が遠のいていく中、微かに感じたのは、自分を抱きかかえる腕の安定感だった。


 「これで、僕たちは一緒だ。」


 暗闇の中で響いたその言葉は、恐ろしくも、甘美だった。


 ***


 静まり返った別荘地。


 汗ばんだマサシの額が、冷たい風にさらされる。


 彼は慎重に、車の後部座席を開けた。


 そこには、眠るメイの姿があった。


 彼女の肩がわずかに上下する。かすかな呼吸音が、彼の耳を満たす。


 「触れられるなんて……夢みたいだ。」


 マサシの声は震えていた。


 メイを抱き上げるその腕は、彼女を傷つけまいとするように柔らかかった。だが、指先には執着が滲む。


 まるで陶器の人形を扱うように、慎重に彼女を持ち上げた。


 「軽い……こんなに小さかったんだ。」


 その囁きには、愛情と狂気が入り混じっていた。


 ***


 ふと、小さなうめき声が聞こえた。


 マサシは息を飲む。


 「目が覚めたんだね……」


 メイのまぶたが、ゆっくりと開く。


 その瞳にはまだ混濁があったが、徐々に状況を理解するにつれ、恐怖の色が浮かんでいく。


 「……誰……? ここ、どこ……?」


 彼女の声はかすれている。それでも、わずかに震えるその響きが、マサシの心を揺さぶった。


 「僕だよ。マサシ。覚えてる?」


 彼は穏やかに微笑みかける。


 しかし、メイの表情が険しくなる。


 「マサシ……? 何? あなた……私を……!」


 メイは勢いよく起き上がろうとするが、手足の感覚が鈍い。


 薬の効果がまだ残っているのだ。


 それでも、彼女の目には鋭い意志が宿る。


 「ふざけないで! 私をここから出して!」


 マサシの目が細められる。


 怒りではない。むしろ、彼女のその反抗的な姿勢に、陶酔していた。


 「そんな顔もするんだね……かわいいよ、メイ。」


 彼は歩み寄り、彼女の手首をそっと掴む。


 だが、メイは力を振り絞り、その手を振り払った。


 「触らないで!」


 その瞬間、マサシの胸に新たな感情が芽生えた。


 彼女の拒絶――それすらも、彼には愛おしかった。


 ***


 「落ち着いて、メイ。」


 彼は低い声で囁くように言った。


 だが、メイの視線は鋭いままだ。


 彼女は力の限り叫び続ける。


 「誰か! 助けて――!」


 マサシの手が、彼女の肩に伸びる。


 その瞬間、彼は抑えきれない衝動に駆られた。


 彼女を守るためには――。


 「そんなに叫んだら、さすがに誰かに気づかれてしまうよ。」


 彼の声は優しい。


 けれど、その響きにはどこか脅しのような響きが滲んでいた。


 「地下室に閉じ込めるなんて、本当はしたくない。君のことをただ可愛がりたいのに……でも、しょうがないだろ? 君が大事だから。」


 そう言いながら、彼の手はどこか愛おしげに彼女の頬を撫でた。


 「ごめんね。でも、これが君のためなんだ。」


 彼女を抱きかかえ、そのまま地下室へと運び込む。


 メイは必死に抵抗するが、薬の影響で思うように力が入らない。


 地下室に到着した瞬間、彼女は再び叫ぶ。


 「お願い、出して!」


 その叫びに、マサシは微笑んだ。


 「怖がらないで。君が僕をちゃんと受け入れてくれたら、ここから出してあげる。」


 彼はゆっくりと扉を閉じた。


 その瞬間、彼の心は安堵に包まれた。


 メイはもう、どこにも行けない。










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