第2話

 そおっと屋敷に戻ったはずだ。誰にも会わなかったし、音も立てなかった。


「姫さま」

 

 背後でいきなり呼ばれると、頭が天井に着くくらい驚く。それは、ベリーだけではないだろう。そして、この場合、100パーセント怒られるのが分かっているだけに、驚く以上に「やばい」とい感情が押し寄せる。


「あああああ。わかってまーす」

 

 両手を耳にあてて声を出す。教育係のアンだ。彼女の前では、感情を隠す練習をしなければならなかったが、小言を食らうのがイヤだったので、焦っていた。一刻も早くこの場から立ち去りたい気持ちが優先していた。だから、動作も表情も声も、すべてがなってなかった。


「姫さま。皇女という立場をお忘れですか? 嫌なことでも笑顔でかわすくらいの度量を身につけなければなりません。ましてや、一人で外を出歩くなどということは、断じて許すわけにはまいりません」


「うううう」

 

 姿勢の良すぎるアンは、ベリーにも同じことを要求する。ため息をひとつつき、背筋を伸ばす。


「ごめんなさい。わたくしが間違っておりました」

 スカートのすそを、フワッとさせて膝を軽く折る。


「謝るという行為は大事なことですが、皇女たるもの軽々しく謝ってはいけません」

 どっちなのよ、と心の中でベリーが思ったことは内緒だ。


「さらに、言葉だけではなく実行をしていただきたいですわ」

 

 お辞儀には合格点をもらえたらしい。けれど、それで喜んではいられない。町に行かないと言えるはずはないから。それは明らかな嘘になってしまう。


「努力します」

 

納得させたとは思っていないが、とりあえずアンからは解放された。まぁ、それは、勉強の時間が迫っていたからにすぎなかっただけなんだけど。


 勉強部屋で一人教師を待っていると、折り目正しい黒服に身を包んだ同じような髪色の長身の男が入って来た。


「ベアトリス様。少しよろしいでしょうか?」

「なぁに? お小言はやぁよ」

 

 丁寧な言葉遣いで声をかけて来たのは、この家の執事なのに、たまにしか来ないクラウドだった。


「雇ったばかりのメイドが一人、暇を望んでいます。身内が亡くなったそうです。よろしいでしょうか?」

「この家の事はあなたに任せてあるわ。好きにしてちょうだい」

 

 クラウドは頭を下げて踵を返した。この屋敷の主人はベリーなのだからと、いつも報告をしに来る。そのたびに、「好きにしてくれ」と言うのだけど。無口な男で、碧い瞳でジッと見られると自分が悪いことをしているように思えてくる。


「……身内が亡くなったというメイドは、若いのかな?」


 教師のレインは、細身の男性で、薄茶色の髪を肩下まで垂らしている。同色で切れ長の目は、もっとキツイ感じを出しても良さそうなのだが、いつも笑みをたたえているので穏和な雰囲気が表面化している。

 

 そのレイン指導の下、国の歴史について学んでいたベリーは、ふとこぼした言葉が自分を悩ませるとは思っていなかった。


「歴史を学んでも、この国の事はわからないわ。だって、わたしはここに閉じ込められているのよ。あーあ、同じ年頃の子たちと遊びたい。なんで平等じゃないのかしら?」


「平等、ですか。そうですね……では、私と姫は平等なので、私が姫の宿題を半分手伝います。姫は私の本を半分読んでください」

 

 手渡された本は、パンの何倍も厚く、開いた中身は、見たこともない形が並んだ目がチカチカするようなものだった。


「……読めないわ。だってこんなの習ってないもの」

「私は読めます」

「あたりまえじゃない。先生なんだもの」

「はい。私は先生で、姫は生徒です。平等な世界だったとしたら、私は姫にお教えできることは無かったでしょう」

「そうだけど……」


「平等がいいと言ったのは姫ですよ。私と姫は、性別も生きて来た年数も違います。性格や好みも違うでしょう? 環境や友人も。人はそれぞれ違うからいいのです」

 

 ベリーは、それが正しいことだと思いながらも、釈然としない気持ちでレインを見た。


「町ではみんなが楽しそうに生活しているわ。忙しいって言いながらも、笑顔で迎えてくれるもの。わたしもあんな生活がしたいと思うのは、いけないことかしら?」


「人にはそれぞれすべきことがあります。馬の世話をする者、小麦を作る者、お店で食事を提供する者、外で働く夫を家事しながら待つ者、教えを職とする者、生きるために必要なことです」


「だから、わたしもそういうことがしたいの」

 強気で言ったが、教師は同じ口調で続ける。


「姫は、銀の道をご存知ですか?」


「……もちろんよ。それくらい知ってるわ。山を切り開いて作った、東側、隣の国……えっと、レビュンへの道のことでしょう?」


  一瞬、悩んだベリーだが、思い出した時には胸を張って答えていた。


「そうです。たとえば、その道が閉ざされたらどうなると思いますか?」

「道が無くなるんだったら、元のようになるだけでしょう? 山になるのよ」


 レインは、ため息をついた。


「大変なことなのですよ。銀の道はこの国にとって、とても大切なものです。この国の主な産業をご存知ですね?」

「小麦と馬ね。それくらい知ってるってば」

「では、その育てた小麦や馬は、どうなるかわかりますか?」


 ベリーは困った。内緒で外に出ている時に、畑や牧場を見たことはある。乗馬は練習をしているから、馬というものはわかる。けれど、小麦は何に使われて、どこへ行くのだろう?


「馬は乗るのよ。うちにもいるもの」

 だんだん声が小さくなっていく。


「小麦はわからないんですね」

 嫌味だわ、とベリーは思う。


「姫が召し上がられているパンやお菓子に使われていますよ。さて、銀の道が出来たことによって、輸出量が倍以上に増えました。つまり他の国に買ってもらうことで、この国は潤い、産業も発展しているのです。わかりますか? では、もし銀の道を使えなくなってしまったら、さぁ、どうなりますか?」


「……お金が無くなって、生活が苦しくなる」


「はい。育てても買ってもらえない。すると、今度は育てることも出来なくなります。需要と供給は、とても大事なことなのです。ですが、それだけではありません。

 銀の道で通じているレビュンのさらに向こうのタイシュバイン王国が、彼の国の隣国アルドニアと争いごとを起こし、タイシュバイン王国が無くなったとしましょう。あんな大国がなくなるのです。攻め込まれれば、レビュンも耐える事は出来ないでしょう。そうすると、銀の道を通じ、この国に争いごとが流れ込みます。

 わかりますか姫。世界は広く、今こうしているときも、どこかで何かが起こっているのです。プラスだけではなくマイナスも考えなくてはいけません」

 

一息ついて、レインは続ける。


「姫の御父上や御母上は、この国の、生きる人々の平和を守れるように努力なさっておいでです。国が傾くことは、御二方の責任です。立場が上になるほど責任も重くなるのですよ。それはこの国だけの話ではなく、レビュンも、またタイシュバイン王国も、です。

 姫は、この国の皇女です。差しのべられた手のために、何が出来ますか?」


「…………」


 レインは「特別に十日間の宿題にします。もちろん、その間は別の授業がありますからね。きちんと頭を切り替えてください」といって授業を終えた。ベリーは、少し身体が重くなった気がした。

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