第21話

 弥生は真っ暗な天井を見つめながら密かに息を吐く。明日になったらまた日常に戻るのだろう。あの賑やかで楽しくて何もない日常へ。そんな日常を変えたいと思っていたのに、ただシグに迷惑をかけただけで終わってしまった。


「――パピさん、まだ起きてますか」


 ふいに囁くようなシグの声が聞こえた。


「起きてるよー」


 弥生が答えるとシグは「聞いてもいいですか」とどこか真面目な声で言った。


「なに、改まって」

「何かあったんですか?」

「何かって?」

「今日のパピさん何か変でしたし。わたしとここに来た理由もわからなくて」


 実際のところ弥生にだってわからない。どうしてシグを選んだのか。別に知砂やミユでも良かったのだ。彼女たちだってユズと仲が良かった。ユズの友達と言えただろう。それなのに、どうして自分と一番接点のないシグを選んだのか。


 ――知らない相手だったからか。


 自分の疑問にすぐに答えが出てしまった。シグはあのメンバーの中で一番弥生のことを知らない子だったのだ。だからきっと先入観なく自分のことを見てくれる。そう思ったから。じゃあ、どうして先入観なく見てくれる相手が必要だったのだろう。しばらく考えてから弥生は「――時々さ」と天井を見つめたまま口を開いた。


「何もかもが面倒になること、ない?」

「何もかも?」

「うん。誰かと会うのも話すのも、外に出るのも声を出すことすら面倒になること」

「……ないです」


 弥生はフッと笑う。


「だよね。でもわたしはあるんだ。時々、本当にどうしようもなく全てがどうでも良くなる。それがここ最近ずっと続いててさ」

「だからタイムラインにもいなかったんですね」

「なんだ。わたしのことチェックしてたの?」

「そりゃ、普段からいつ寝てるんだろうってくらいずっとタイムラインにいたのに急にいなくなったら心配にもなりますよ」

「心配してくれたんだ?」

「悪いですか」

「ぜんぜん。だからついてきてくれたの? 今日」


 シグは答えない。だが、おそらくはそうなのだろう。でなければこんな強引な誘いについてきてくれるわけがない。弥生は「たぶんね、疲れるんだよね」と続けた。


「友達と一緒に明るく楽しく生きてるふりをしてる自分にさ」

「生きてるふり……?」

「そ。わたしね、家ではずっと一人なの。両親は仕事にしか興味がないし、お手伝いさんは仕事以上のことはしてくれない。小さい頃からずっと一人。それが嫌でさ、誰でもいいから友達をたくさんつくれば寂しくない。そう思ったんだけど素のわたしは根暗で真面目でつまらなくて」


 素の自分では周りが求めるような反応ができない。素の自分では友達なんてできない。だから演じたのだ。素の自分ではなく、周りから求められるような人格を。


「――でも結局さ、人気者を演じてると素の自分と違いすぎてどこかでおかしくなっちゃうんだよ。それで時々すごく疲れて、もう消えてもいいかなってなる」

「そんな――」


 弥生は笑う。


「もちろん本当に死のうとかするわけじゃないけどね。だけど、そんなときは周りから離れて何もしたくなくなる。ユズとここに来たときも、ちょうどそんな時だったんだ」

「ユズと……」

「うん。そのときはユズがいきなりわたしの前に現れてね。学校行こうとしてたわたしを無理矢理ここに連れてきたの」


 ――遊びに行こうよ。


 朝のラッシュで混み合う駅の改札前でそう言ったユズの笑顔が忘れられない。有無を言わさず腕を引っ張られ、しかしその表情は柔らかくて優しくて。


「ユズも、わたしがタイムラインにいなくなったから気にしてくれてたみたいで」

「ユズらしいですね」


 そう言ったシグの声は少し柔らかい。弥生は笑う。


「ね。でも何も聞かないの。あのときのわたし、めちゃくちゃ態度悪かったのに笑って『誰もいない海はいいね』なんて言ってさ、ただ砂浜を歩いたりしてた。帰るのがダルいって言うとこの宿を探してきてくれて――」

「泊まったんですか? ここに」

「そ。今日みたいに飛び込みで、こんな風に」


 ずっとそばにいてくれた。


 ――別にあんたは悪くないじゃん。もっと楽に生きようよ。


 二人で布団を並べて眠りにつこうとしたとき、ユズは何もかもを察したかのようにそんなことを言ってくれた。それが嬉しくて、彼女との時間が心地良くて彼女の求めるような自分を演じれば友達になれるかもしれないと思った。彼女が何を求めているのか知りたいと思った。だけど彼女は何も言わない。何も弥生に求めない。何もわからない。


「わたしはユズのこと知りたかったんだよね。ユズの求めるような友達になりたかった」

「なれたんですか? ユズの求める友達に」

「ううん。そもそもユズは何も求めてなかったんじゃないかな。わたしには何も求めてないのに、ずっと一緒にいてくれた。初めてだったんだよね、そういう相手。だから本気で友達になりたいって思った。本当のわたしで、本当の友達に」


 でも彼女はいなくなってしまった。何も求めず何も言わず、弥生の前から消えてしまった。


「シグはユズに似てる」

「わたしが……?」

「うん。シグもわたしには何も求めない。何も言わずについてきてくれて、何も言わずにこうして今も一緒にいてくれる。親に怒られてまで」


 弥生が軽く笑うとシグも笑ったような息遣いが聞こえた。


「それは、だってわたしはパピさんのことよく知ってるわけじゃないし」

「だったら普通は一緒にいてくれないよ。タイムラインにいないってだけで心配なんてしてくれない。あいつ今日はいないなぁって、ただそう思うだけだよ。多分、知砂とかそうだったんじゃない?」


 シグは答えなかった。きっとそうだったのだろう。弥生は笑う。


「それが普通。で、あんたは普通じゃない」

「そんなことは――」

「あんたは普通じゃないし、わたしのこともよく知らない。だからここに誘ったんだと思う。あんたなら本当のわたしを見ても引いたりしない。そう思ったから」


 暗闇の中に沈黙が広がる。微かに聞こえてくるのは波の音。外は風が強いのかもしれない。ぼんやりと天井を見つめていると「パピさんは――」とシグの声がした。


「友達になりたかったんですね。ユズと」


 弥生は少し考えてから頷く。


「そうだね。でも。あんたとも友達になりたいって思ってるよ」

「……それはわたしがパピさんのことを知らないから?」

「そ。あと、こうして何も言わずに付き合ってくれるお人好しだから」

「なんですか、それ。友達の条件おかしいですよ」

「そんなことないでしょ」


 弥生は笑う。シグも笑う。そして二人で同時に息を吐いた。


「友達って何なんでしょうね」

「わたしが知りたいわ、それ」

「……知砂ちゃんとは友達になれないんですか?」

「あいつにはもうわたしのイメージ植え付けられてるでしょ。ウザい奴って」

「そんなことは」

「いいんだよ。わたしはそういう奴なの。ただ、そういう奴じゃないってことを知ってくれてる人がいると楽になれる気がするから」

「それがわたし?」

「そ。たまにこうして唐突な行動を取るけどよろしくね。友達」

「なんか謎のプレッシャーが……」


 弥生は笑ってから「もう寝よう。シグ」と布団をかけ直す。


「……時雨、です」


 返ってきた返事は予想とは違う。弥生は身体を彼女の方に向けた。


「時雨?」

「そう。わたしの名前。友達なら本名くらい知っておくべきなのかなって」

「ふうん。わりと積極的」

「そうですか?」

「そうでしょ。ちょっとドキッとしたわ」

「だって、タイミング逃すといつまでも名前言えない気がして」

「わかる。マジでそれな」


 弥生は笑いながら「わたしは弥生」と続けた。


「弥生ちゃん……」

「ちゃん付けは照れる」

「じゃあ、そう呼びます」

「なんでよ」

「だって、その方が本当のパピさんでいられるんじゃないですか?」


 まるですべてを見透かしているかのような言葉に弥生は苦笑する。


「時雨って本当にユズによく似てる気がするよ。だからユズとも気が合ってたんだろうね」

「……わたしとユズは別に友達だったわけじゃないですよ」


 シグの声は低い。何かを思い出しているかのような沈黙に弥生は「ま、少なくともわたしよりは仲が良かったと思うよ」と言った。


「そうでしょうか……」

「わからんけど」

「適当……」


 弥生は笑って「さ、もう寝よう。明日はさっさと帰らないとね。早く着替えたいし」と布団をかけ直した。


「ですね」


 モゾモゾと隣でも布団をかけ直している音が聞こえる。


「おやすみ、時雨」

「おやすみなさい、弥生ちゃん」


 そんな呼ばれ方をするのは幼い頃以来でむず痒い。それでも居心地の良さを感じるのは、ようやく自然体の自分でいてもいい相手を見つけられたからだろうか。彼女の前でなら自分を演じなくてもいい。それだけで、こんなにも気持ちが楽になるものなのか。


「……また遊ぼうね。時雨」


 もう寝ているかもしれないシグに小さく声をかけてみる。すると少しの間を置いて「事前にちゃんと行き先教えてくださいね」と囁くような声が帰ってきた。弥生は微笑む。


「了解」


 そして目を閉じる。こんなにも穏やかな気持ちで眠れるのはきっとあのとき以来。


 ――ここにユズもいれば良かったのに。 


 目を閉じ、そんなことを思いながら意識は心地良い睡魔に誘われて眠りに落ちていった。

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