第20話
「どうかしました?」
黙り込んだ弥生を不思議に思ったのだろう。歩きながらシグが弥生に顔を向ける。弥生は微笑んで「なんでない」と首を横に振る。
「でも、ご飯は期待できないかもなぁ」
「たしかにいきなり行っても食事の仕込みとかしてないでしょうし……。素泊まりですか」
「だねぇ」
「コンビニってどこかありましたっけ」
「ないねぇ」
「……え、ご飯は」
「たしか売店みたいな感じでパンとか売ってた気がするから大丈夫じゃない?」
「だったらいいですけど」
「いいんだ?」
思わず笑うと彼女は「え、ダメなんですか?」と戸惑ったように目を見開いた。
「いや、いいならいいけど」
普通は嫌だろう。訳も分からずこんな場所に連れて来られて、挙げ句の果てには海水に濡れて帰れないなんて。
「さっきからパピさん、何か変ですよ?」
「何でもないよ。よーし。到着!」
宿の駐車場には車が数台停まっている。もしかすると冬期休業になっているのではないか。そんな心配もあったのだが大丈夫そうだ。
「綺麗な旅館ですね」
「そりゃ人気宿だからね」
言いながら弥生は宿の戸を開けて中に入る。ふわりと温かな空気に包まれて思わず息を吐き、そしてフロントに視線を向けた。戸が開く音を聞きつけたのだろう。奥からスタッフの男性が出てくると「いらっしゃいませ」と愛想のよい笑顔を浮かべて二人を見た。
「すみません。予約はしていないのですが部屋は空いてますか? 二人で泊まりたいのですが」
カウンターの前まで行くべきか一瞬悩んだが、とりあえずその場からスタッフに声をかけてみる。するとスタッフは予約表を確認することもなく「大丈夫ですよ。どうぞ、お上がりください。靴はそちらの下駄箱にどうぞ」と玄関の端にある下駄箱に向かって手を伸ばした。
「ありがとうございます」
礼を言って宿に上がると下駄箱に靴を入れる。その様子をなぜかシグが真面目な顔で見ていた。
「え、なに」
思わず眉を寄せると彼女は「いや、意外と礼儀正しかったので……」と呟くように言った。弥生は笑って「そりゃ、こう見えてもちゃんと躾けられてるからね。ほら、シグっちも早く上がりなって」と彼女を促した。そしてカウンターに向かうとチェックインシートに記入していく。
年齢は誤魔化した方がいいだろうか。住所なども適当に書いておこう。そんなことを思っていると「失礼ですが、高校生の方ですか?」とスタッフが聞いてきた。弥生は隣に立つシグを横目で見てから「あー、そうですね」と頷いた。
さすがに誤魔化すのは無理がありそうだ。それに何かやましいことをしているわけでもない。正直に事情を説明することにした。するとスタッフは「それは大変でしたね。たしかに電車の運行が止まってるとさっきニュースで見ましたし」と同情するように頷いた。
「では、お家の方に連絡はもう?」
「はい、泊まることは連絡してあります」
弥生の言葉にスタッフは「そうですか。じゃあ、大丈夫ですね」と頷いた。意外にもあっさりと承知してくれたようだ。
「この辺り、夏場はバスも電車も本数増えるんですけど冬場は絶望的に交通の便悪くなるんですよね。夕方に電車が止まると大変なんですよ」
スタッフは苦笑しながら言う。
「もしかしてわたしたちみたいな人、たまに来るんですか?」
「そうですね。お若い方は勢いでここまで来られる方も多いようで」
「あー、その通りですね」
弥生は笑って答えながらシートを書き終えるとスタッフに渡す。
「では、こちらお部屋の鍵になります。申し訳ありませんが、お食事につきましてはご予約分のものしか用意しておりませんで……」
「大丈夫です。そこの売店のもので済ませようと思ってるので」
「承知しました。お部屋の料金は先払いとなっております」
弥生は二人分の宿泊料を支払う。財布の中身にはまだ少しだけ余裕がある。帰りの電車代くらいは大丈夫そうだ。年末年始のバイト料をすべて持ってきて正解だったと密かに心の中で安堵する。
「では、そちらの階段からお部屋へどうぞ。チェックアウトは明日の朝十時となっております」
「わかりました。ありがとうございます」
「ごゆっくりお過ごしください」
弥生は会釈してから売店を横目に階段を上がっていく。後ろからシグもついてきながら「思ってたより良い品揃えでしたね。売店」と言った。
「だね。カップ麺とかもあったからラッキー」
「夕飯の代金くらいはわたしが出しますから」
「えー、いいよ。こうなったのもわたしのせいなんだし」
「よくないです。宿泊代も電車代もちゃんと返しますから」
「いいって言ってんのに……。と、ここだ」
部屋は十二畳ほどの和室だった。畳の良い香りがする。テーブルの上にはお茶のセットと和菓子が置かれていた。まるで温泉宿のようだ。
「とりあえずお茶入れよ。寒かったしさ」
「ですね」
シグは頷くと上着を脱いでハンガーにかけ、ケトルに水を入れて戻って来た。時刻はすでに十八時を過ぎた頃。
「けっこう疲れたなー」
弥生はため息を吐きながら座布団の上に座ってテーブルに頬杖をつく。そうしながら「そういえば」とシグに視線を向けた。
「あんた、まだ家に連絡してなくない?」
するとシグは「そうなんですよ」と沈んだ表情を浮かべた。なにか不都合なことでもあるのだろうかと一瞬思ったが、考えてみれば不都合なことだらけだ。学校をサボり、遠く離れた海に遊びに来た挙げ句、帰れなくなって外泊するのだから。それもすべては弥生が原因だ。
「電話しなよ」
「まあ、そうなんですけど」
「大丈夫。わたしが怒られるからさ」
「え……」
シグは目を丸くして弥生を見てきた。
「だってそうじゃん。悪いのは全部わたしなんだから。娘さんを連れ回してすみませんって謝るよ。だから早く電話しなって」
「いや、その謝り方はなんかちょっと意味が……」
シグは軽く笑って言いながらコートのポケットからスマホを取り出した。そしてしばらく画面を見つめていたかと思うと「ちょっと電話してきます」と部屋を出て行ってしまった。
「……ここですればいいのに」
グツグツとケトルの中でお湯が沸き始めている。その音によって廊下から聞こえる声は掻き消されてしまう。消してしまおうかとスイッチに手をかけたが、そうまでして盗み聞きするようなものでもない。
「お茶、いれとくか」
呟きながら弥生は茶葉を急須に入れた。
シグが戻って来たのは五分ほど経ってからのことだった。彼女は疲れた顔で「なんとか納得してもらえました」と笑う。
「なんでわたしに変わってくれなかったの」
「だって、別にパピさんが悪いわけじゃないし」
弥生は眉を寄せる。
「悪いのはわたしでしょ」
「違いますよ。帰れなくなったのは事故です」
「……学校サボったのもバレたんじゃないの?」
「それはわたしが悪いですから」
「え、なんで」
「ちゃんと断らなかったわけだし」
「断る間を与えなかったのはわたしだけど?」
「途中で帰ることもできましたから。わたしのせいでパピさんが怒られるようなことはないですよ」
――別にあんたは悪くないじゃん。
この部屋で聞いたユズの言葉が蘇る。弥生はつい嬉しくなって笑みを浮かべ「そっかそっか」と頷きながら湯飲みに茶を入れた。
「何ですか」
「いやいや、何でも。さ、お茶どうぞ」
「……どうも」
シグは釈然としないといった様子だったが素直にお茶を飲み始めた。
それからはこれといって盛り上がるようなこともなく、売店でカップ麺を買って食べて大人しく風呂に入って就寝。ダラダラとテレビを見るでもなく、お喋りを楽しむでもない。ただ静かで心地良く、穏やかな時間が過ぎていった。
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