第19話

 カフェを出て砂浜に戻ると寒さが増しているような気がした。陽が沈み始めているせいだろう。


「……寒くない?」

「めちゃくちゃ寒いです」


 食い気味に言ってきたシグに弥生は笑う。


「遊ぼうって言ったのはシグの方じゃん」

「それはそうですけど、さっきよりも寒くないですか」

「まあ、もう夕方だし」


 弥生は言いながら波打ち際まで歩いていく。あの日もこうして波打ち際を歩いた。前をユズ。後ろに弥生。

 目の前を歩くユズは何か話をするでもなく、ただ無言で波の音が響く砂浜をゆっくりと歩いた。ギュッ、ギュッと少し湿った砂が足を踏み出すたびに鳴る。たまに海水が靴を濡らしていっても無言で彼女はずっと前を歩いてくれた。まるで弥生の気持ちを冷たい水の中から探し出してくれるかのように、逃げることもなく。

 そのとき一際大きな波が打ち寄せて弥生の靴を完全に呑み込んでしまった。凍るような冷たい海水に思わず足を止めて後ろを振り返る。ちょうど同じように波打ち際ギリギリを歩いていたのだろう。シグは泣きそうな表情で足元を見ていた。彼女の靴もまた波に呑まれてしまったようだ。


「……なにやってんの?」

「濡れました」

「見たらわかる。逃げれば良かったのに」

「だってパピさんがギリギリを歩くから!」

「えー。わたしのせいなの?」


 おどけてみせるとシグはため息を吐いて眉を寄せた。


「冷たくないんですか?」

「え、それ聞く?」

「だって平気そうだし……」

「ああ、まあ。めっちゃ冷たいけどさ、でも――」


 それでもこうして笑えているのはユズのおかげで、そして今ここに一緒にいてくれるシグのおかげなのだろう。もし今日ここに来たのが自分一人だけだったら、きっとこの海に全身が呑まれていただろうから。


「パピさん?」


 シグが眉を寄せたまま首を傾げる。弥生は「なんでもない」と首を横に振って波打ち際から距離を取った。


「帰ろっか」


 靴の中に入ってしまった海水は重くて気持ち悪い。シグも同じようで嫌そうな顔で足を進めながら「帰りましょう……」と力なく頷いた。

 しかし、駅に着いてみると少し様子がおかしい。無人改札だったはずだが駅員が一人立っているのだ。彼は弥生たちを見ると少し驚いたような表情を浮かべて「今からお帰りですか?」と言った。


「そうですけど、何かあったんですか?」


 弥生が訊ねると駅員は「この路線の踏切で事故がありまして、しばらく電車が動きそうにないんですよ」と申し訳なさそうに言った。


「え……。マジですか」

「はい。今のところ復旧の見込みも立っておらず……」


 弥生は思わずシグと顔を見合わせる。しかしシグは困った顔をするだけだ。弥生は少し考えてから「ちなみに振替輸送みたいなものは?」と聞いてみる。


「ないですね。この辺りの駅は今の時期、利用客も少ないですから」

「ですよねー」

「もしかすると今日中の復旧は無理かもしれません」


 そうは言われてもどうしろと言うのだろう。家に連絡して迎えに来てもらえとでも言うのだろうか。家には誰もいないというのに。かといってタクシーを使うとなると代金が心配だ。いくらかかるのか計算もできない。


「ちなみにここからバスって……」

「今日の最終バス、もう行ってしまってるんです。すみません」


 なぜか駅員に謝られてしまった。弥生は返す言葉もなく、ただ力なく笑うと「とりあえず向こうで考えようか」とシグを促して砂浜の方へ戻った。


「……どうしよっか」

「どうしましょう」


 シグは寒そうに両腕を抱え込みながら言った。このままここにいては確実に風邪を引いてしまう。思ってから弥生は微笑んだ。


 ――まさか、ここまで似たようなことになるなんて。


 目の前で寒そうにしているシグの姿がユズと重なる。


「パピさん?」

「ああ、ごめん。ちょっと思い出し笑い」

「この状況で……?」


 さすがに少し苛立たせてしまっただろうか。思ったが、シグは「変なの」と笑っただけだった。弥生も笑ってから「さて、それじゃあ最善の策を提案します」と人差し指を立てた。


「最善の策? 野宿ですか?」

「なんでよ。死ぬでしょ。凍死するって」


 思わぬ答えについツッコんでから弥生は「近くに良い宿があるんだよねー」とカフェとは反対方向となる砂浜の先を指差した。その先にある岬には小さな旅館が建っている。客室は少なく、どの部屋からも海を見渡すことができるので夏場は予約の取れない人気宿だ。しかし冬のこの時期であれば間違いなく部屋は空いているはず。


「たぶん予約なくても部屋取れると思うからさ」

「え、でもわたしそんなお金」

「大丈夫大丈夫。前にも泊まったことあるんだけどシーズンオフ時期の相部屋、めちゃ安だったから。わたしが出すよ」

「いやいや。それはさすがに。次に会ったとき返しますから」


 その言葉に弥生は嬉しくなって「そっかそっか」とにやけてしまう。しかしシグは不思議そうな顔で首を傾げた。


「なんで嬉しそうなんですか」

「いや別に? それより早く行こ」

「はい……」


 釈然としない雰囲気で頷きながらもシグは大人しく隣を歩いてくれる。

 伝わるわけがないだろう。『次に会ったとき』という言葉が弥生にとってどれだけ嬉しい言葉なのか。同時に、もしその口約束が守られなかったときの辛さも彼女に伝わることもない。


「制服だけど泊めてもらえますかね」

「わたしがあんたのお姉さんって設定でいけるっしょ。コートのボタン閉めとけば私服に見えなくもないし」

「――お姉さん?」


 シグがじっと横目で見てくる。弥生はここぞとばかりに胸を張った。


「見えるっしょ?」

「まあ、はい。えっと、たしかパピさんって高一でしたっけ」

「そ。あんたは?」

「二年です」

「年上かー。でもまあ、身長はわたしのが高いし雰囲気もあんたよりは大人っぽいからいけるいける」


 しまった、と思う。もしかするとシグを不愉快にさせるようなことを言ってしまったかもしれない。しかし彼女は気にした様子もなく、むしろ納得したように「たしかにいけそうな気はしますけど」と頷いていた。

 こういうところがユズとよく似ている。こういうところが居心地が良い。こんな人間になりたい。

 この海でユズと話して、そう思ったはずなのに、あれから何ひとつ変わっていない自分が情けなくなる。

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