パピとユズ
第18話
田口弥生の家は裕福だった。それは幼い頃から自覚していた。近所の家と比べて弥生の家は大きくてお手伝いさんもいる。両親はそれぞれ会社を経営しているので忙しく、弥生の面倒を見てくれていたのはお手伝いさんだった。
両親と顔を合わせれば愛情を注がれるわけでもなく礼儀作法をたたき込まれた。外に出ても恥ずかしくない品格を身につけろ。それが両親の口癖だ。両親の関心は自分の会社を大きくすることだけ。弥生はそんな家庭で育った。
お手伝いさんは優しかったが所詮は他人だった。幼い頃から家ではずっと一人ぼっち。だからせめて家の外では人に囲まれていたい。たくさん友達を作ってたくさん遊んで、たくさん楽しいことをして。
そう思い始めたのはいつからだっただろう。保育園の頃か、小学生の頃か。気がつけば無理して明るく振る舞い、できる限り色んな人と関わるようになっていた。そのおかげで友達もたくさんできた。家の外で一人でいることはなくなった。
それでも家に帰ると一人ぼっちのまま。
それがひどく寂しく、ついには耐えられなくなって衝動的にSNSを始めた。SNSでも友達がたくさんできた。顔も名前も知らない友達がたくさん。
ネットでもリアルでもたくさんの友達に囲まれ、楽しくお喋りをして楽しく遊んで、そんな賑やかな生活の中でもやはり一人ぼっちであることはいつまでも変わらない。どんなに人に囲まれても心が満たされることはない。むしろ孤独は増し、周りに求められる自分を演じることが苦しくなって苛立ちが増していく、
その寂しさや苛立ちが限界に達するタイミングでもあるのか、時々すべてがどうでもよくなるときがあった。
二年前、この海に来たときもそんな時期だった。
「誰もいない海って、なんかいいね」
雪がちらつく浜辺でそう言って彼女は笑った。寒さのせいだろう。鼻を真っ赤にしながらダウンジャケットのポケットに手を入れて。
「……バカじゃない?」
弥生はそんな彼女の横顔を見ながら吐き捨てるように言う。すると彼女は「まあ、バカだからなぁ」と笑った。そして白い息を吐いてキラキラと光る穏やかな海を見つめる。
「似たもの同士じゃん? わたしたち」
「どこが。全然違うっしょ」
「そうかな。似てると思うけど」
「だから、どこが」
「消えたくなるよね、時々。不安に潰されそうになる」
静かに、何も感情のこもらない声で彼女はそう呟いた。遠い目で海を見つめたまま。弥生は思わず息を呑む。だがすぐに彼女は薄く笑みを浮かべて「なんてね」と首を傾げ、砂浜を歩き始めた。
「……なに言ってんの。マジでバカじゃん」
「だからそう言ってんじゃん」
前を歩く彼女は振り向きもせずに言う。その言葉はどこか柔らかくて優しい。
変なやつだと思った。最初は他のフォロワーと同じように上辺だけのやりとりをしていた。話を合わせて楽しそうな振りをして。それから少し仲良くなったくらいにリアルで会って遊ぶ。
他の人たちと何も変わらない。変わらないはずだった。それなのにどうしてだろう。リアルで会った彼女に対してだけ、いつもの自分でいられなかったのは。
彼女と初めて会ったのは他のフォロワーと一緒にカラオケに行ったときだっただろうか。そのときのユズの印象はバカみたいに明るくて場の空気を読む奴。そんな感じだったように思う。
それから少しずつ一緒に遊ぶ機会が増え、彼女と会う度に少しずつ彼女に対する自分の態度が変わっていくことを自覚していた。それはきっと彼女がちゃんと弥生と関わろうとしていたからだ。そのせいで自分の本心に近づかれるのが怖かったのかもしれない。だから彼女と距離を取ろうとしていた。この海に彼女と一緒に来たときだってそうだ。
いや、別に彼女と一緒にこの海に来たかったわけじゃない。そもそもあの日は彼女と遊ぶ予定なんてなかった。あの日は普通の平日で、ちゃんと学校に行こうとしていたのだ。今日のシグのように。
弥生は困ったような顔でサンドイッチを食べているシグを見て思わず微笑んだ。おそらく、あのときの自分もこんな顔をしていたのだろう。別にお腹も減っていなかったのに、ちゃんと食べないとダメだとユズは強引にケーキセットを注文した。自分が奢るから、と。
「……なんでユズってああなんだろうね」
つい呟いた言葉にシグは「え?」と不思議そうに首を傾げた。弥生は笑う。
「いや、あいつってなんか勘がいいっていうかさ。こっちが何も言ってないのに何かを察してるときあるじゃん?」
「そうですかね」
「そうだよ」
そういう点ではシグとユズは真反対なのだろう。シグは人と積極的に関わるタイプではない。リアルではきっと友達になんてなれないタイプ。それでも一緒にいることが苦でないのは彼女が上手に相手との距離を測っているからだろう。ユズとは違うのにユズと同じような居心地の良さを感じてしまう。
――だから二人は仲良くなれたのかな。
ユズとアカウントが繋がったタイミングもユズとリアルで会った時期も彼女より早かったし、一緒に遊んだ回数だってシグより弥生の方が多い。それでも弥生がユズと友達になれなかったのは、きっと友達の作り方を知らなかったからだ。いつだって弥生の友達は友達ごっこをしている相手だったから。
「……ユズと仲良かったんですね」
ぼんやりとそんなことを呟いたシグに弥生は目を丸くする。そして軽く笑った。
「ま、仲良くなりたいとは思ってたね」
その答えにシグは怪訝そうに首を傾げた。何を言っているのだ、とでも言いたそうな顔。それはこっちの台詞だと思う。
ユズがシグと繋がった時期を弥生が知っているのは彼女がシグの話を頻繁にしていたからだ。まだリアルで会ったことはないと言っていたのに、なぜか嬉しそうにシグの話をしていた。よほど気の合う相手なのだろう。そう思うと興味が湧き、シグのことをフォローして二人のやりとりを観察していた。しかしこれといって話が盛り上がっているわけでもなく、弥生には二人の関係は淡々としているように見えた。
もしかするとDMでのやりとりが盛り上がっているのかもしれない。そう思っていたが、みんなで遊びに行った日のシグとユズの様子はタイムラインで見ているそれと変わらないように見えた。
タイムラインで見るような会話、距離感。緊張しているようには見えず、無理に空気を盛り上げようとしているわけでもない。どこまでも自然体な空気が二人の間にだけは流れていた。
「あの……?」
シグのことを見ながらそんなことを思い出していると彼女は居心地悪そうに身体をモゾモゾと動かした。弥生は笑みを浮かべると「ケーキ、来たよ」と視線を彼女の向こうに向ける。食事を終えた頃合いを見計らっていたのだろう。店員が絶妙なタイミングでケーキセットを運んできた。
運ばれてきたケーキは以前来たときとは違う。日替わりなのか、それとも季節によって変わるのか。いずれにしてもここのケーキはサイズが大きい。シグの胃袋の大きさを良く知らないが食べられるだろうか。
少し心配になってシグの表情を窺っていたが、どうやら大丈夫のようだ。シグは「チーズケーキだ」と嬉しそうにフォークを手に取っていた。
「好きなの? チーズケーキ」
「大好きです」
「そりゃ良かった」
弥生は笑いながらフォークの先でケーキをつついた。正直なところ、あまりチーズケーキは好きではない。
「パピさん?」
「前はイチジクのケーキだったんだよね」
「イチジク」
「そ。それが食べたかったけど……」
「嫌いなんですか? チーズケーキ」
「いや、苦手なだけ。食べるよ。ちゃんと」
「そうですか……」
それでも心配そうな表情をシグが浮かべるので弥生は笑ってチーズケーキを頬張った。濃厚なチーズの舌触り。しかし思ったほど重くはないし甘さも程よい。少し意外に思っているとシグは心配そうな表情のまま「食べた感じ、ここのチーズケーキは市販のものよりも美味しいと思うんですけど」と小さな声で呟くように言った。
――美味しいから食べてみ? イチジクのケーキとか市販でもあんまり見ないし。
ふいに耳の奥でユズの声が蘇って弥生は思わず笑ってしまう。
「パピさん?」
「や、なんか前に来たときに似たようなことユズも言ってたから」
「そうですか」
途端にシグの表情が沈んでしまった。どうやらまた何か悪いことを言ってしまったようだ。何が相手にとって不快な言葉なのか考えることは今までなかった。相手を怒らせて関係が切れたらそれでおしまい。それで良かった。表面上の友達ならいくらでもいたのだから。
――でも。
そんな自分を変えたくてシグを誘ったのだ。ユズと似ているシグとなら、もしかしたら友達になれるかもしれない。そう思ったから。
もっとも彼女を強引にここへ連れてきてしまった時点ですでに嫌われているかもしれないが。
「――この後はどうしますか? 海で遊びます?」
黙々とケーキを食べていたシグがふいに口を開いた。その言葉に弥生は思わず「へ?」と変な声を出してしまう。するとシグは大きく目を見開いた。
「あ! やっぱ無理ですよね。寒いですもんね。あの、ごめんなさい」
すぐに彼女が萎縮してしまうのは弥生の態度が悪いからだろうか。どうしたらいいのだろう。考えながら弥生は「いや、遊ぼうよ」と言った。
「砂浜歩くだけでも楽しそうだし」
「……さっきも歩いてきましたけど」
「たしかに」
弥生は笑う。つられるようにシグも笑う。
――そうだ。こんな感じだった。
ユズとシグの間にあった空気はちょうどこんな感じ。シグが自然体で笑ってくれている。この空気を続かせたらいいのだろうか。
でも、と弥生はケーキに視線を向けた。
――これじゃ、わたしがわたしじゃない気がする。
自然体の自分ではいられない。そもそも自然体の自分とはどんな自分なのか、よくわからない。
弥生はため息を吐くと残っていたケーキを一気に口に放り込んだ。
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