第18話

 ロッカーに入っているのは、その時のポロシャツだ。

 後日、ありがとうございました、と洗濯したものを返そうとしたら断られた。そして、それあげるから、と言われたのだ。予備ならきちんと持ってきたので、と言ったが、広瀬は「もう一着あっても困らないよ」と笑って、ポロシャツを受け取ることはしなかった。

 そして、それからずっと、このポロシャツは碧のロッカーの中にある。それ以来一度も袖を通されることなく、お守りのように――。

 はっきりと広瀬への感情を自覚したのはもう少し後だが、きっとその頃には、もう広瀬に対して特別な感情を持っていたのだと、今になって思う。

 自分に対する行動が、たとえただのバイトの高校生に対する社員としての親切心であろうと、ちょとだけ特別扱いされているような気がして嬉しかった。

 恋愛なんて正直わからなくて、誰かを好きになるということがどういうものなのか、他人の話を聞いてもピンとこなかった。けれど、広瀬の事が好きなのだと自覚してからは、日々その感情に振り回されて、戸惑うばかりだ。

 けれど、それがまったく煩わしくないのだから、本当に恋というものは……困る。

 碧は、もう一度広瀬のポロシャツに触れてから、ロッカーを閉めた。

 そして帰りに事務所に立ち寄ると、パソコンに向かって仕事をしていた店長に「お疲れ様です」と声を掛けた。

 この先の選択のために。


 そこからの日々は、慌ただしさと共にあった。

 昨年同様、お盆の期間のめまぐるしさといったら…である。

 お盆期間に関しては、人手はいくらあっても困らない。いつもの業務に加えて、プラスアルファが山のようにあるからだ。

 その中でも、大変なのがレジ業務。客数がぐぐっと増えると、レジに長蛇の列ができる。通常のレジ担当者だけでは到底さばききれず、レジの開設数を増して応援が要請される。そこに、広瀬たちが応援として入る、という事になる。

 碧は最初からレジには入らないという契約になっているが、広瀬や吉永、暁人たちはレジ応援がある。この夏から入った二人もそうなのだが、まだレジの研修を終えたばかりという事もあり、この夏は免除という流れになった。

 というわけで、碧たちが補充やメンテナンスに集中する傍ら、広瀬たちは売り場とレジを行ったり来たり。やっと休憩スペースで一緒になったかと思えば、内線で呼ばれて走って行ったり。すれ違って交わすのも、お疲れさま、暑いね、忙しいね、頑張ろう、なんていうひと言で、到底会話なんていえるものではない。

 同じ飲料メンバーではほぼ無いが、よく会う他の部門担当の人とも全く顔を合わせない事もあって、今日は休みかなと思ったら夕方に一度だけすれ違う…なんていう特殊なことも起こったりする。

 そんな状態だったから、碧が広瀬とゆっくり話をすることができたのは、お盆が開けてからだった。

 ちょっといいかな、と呼び止められ、休憩スペースではなく、わざわざ会議室に連れて行かれた。呼び止められた時から、何の話かは想像がついたが、碧は何も言わずに広瀬についていく。

 会議室の扉を開けて入ると、涼しい空気が心地よく肌をなでた。あらかじめ冷房を入れていてくれたのだろう。

 中に入って扉を閉めると、廊下の音がシャットアウトされて、急に静かになった。何の話か分かっていても、その静けさにわずかな緊張が走る。

「本当はもう少し早く話がしたかったんだけど」

 広瀬はそう言いながら、椅子に座る。碧は「仕方ないですよ」と答えて、広瀬とテーブルを挟んで向かい合う椅子に座った。

 少しだけ間があって、広瀬が口を開く。

「店長から聞いてるよ」

「はい」

 何をですか、とは聞かない。

 そんな事は、口に出さずともお互いに分かっている。

「店長からもいろいろ提案してくれて、助かりました。年内いっぱいは、お世話になります」

 ぺこり、と頭を下げた碧に、広瀬が短く「うん」と言った。

 顔を上げれば、広瀬は少しだけ困ったような表情をしていた。

 ……バイトを、年内いっぱい続けることにした。

 その碧の決断に対して、考えるところがたくさんあるのだろう。何から話せばいいのか、という戸惑いの雰囲気が見て取れる。

「無理はしてない?」

「してません」

 きっぱりと、迷いも無く返事をした碧に、広瀬がわずかに目を見張った。

「バイトと受験勉強、どれだけ両立できるかは分からないですけど。でも、後悔はしたくなくて」

「うん」

「バイト辞めた方が、多分……絶対、後悔する気がしたから」

「……そう」

 その後悔というのは、貴方の事です、とは、口が裂けても言えない。

 けれどそれが本心であることは、疑いようのない事実だ。夏休みが始まる前にバイトをどうするか迷った時よりも、明確な意志で決めた。

「バイトの所為で受験失敗した、とだけは言われないようにします。絶対合格する」

 きっぱりと、真正面を…広瀬の目を見て言った碧に対して、広瀬がひゅっと小さく息を呑むのが分かった。

「はは、凄い、な…」

 そこまではっきり言われると、俺はもう何も言えないな、と苦笑する。

「本当は、もう一回だけでも考えてみないかって、聞こうと思ってたんだ」

「……」 

 そうだろうな、とは想像していた。

 高校三年の受験生が、夏休みが終わって本格的な受験シーズンになっても尚バイトを続けるという事に対して、諸手を挙げて喜ぶ人間は少ないだろう。

 先だって両親に告げたときも、怒りを通り越して呆れたような表情をされた。けれど、その時も、真っ直ぐに二人を見て、広瀬に言ったのと同じ決意を口にした。

 母親はそれでも何か言いたそうだったが、父親の方が先に分かった、と言ったのには碧も少し驚いた。一瞬、父親はこんなに理解ある人だっただろうか…と思ったが、三人目だし一年ぐらい浪人したって…と続けられた時に力が抜けた。理解があるのではなく、速攻で諦められただけだった。

 だからこそ、そんな父親に対しても目に物見せてやる、という意志も強い。

「いや、本当。凄いなぁと思うよ」

 広瀬の表情からすっと力が抜けた。

「俺が牧野くんの立場だったら、そんな決断できたかな」

 いやはや、と広瀬は目を細め、碧を見た。

「強いなぁ」

 そう言った広瀬の言葉に、今度は碧がふうっと短く息を吐いた。

「……強くなんかないです。むしろ、弱いな、って思います」

「え?そう?」

「はい」

 そう、強くなんか無い。弱いのだ。

 碧はテーブルの下で、ぐっと拳を握りしめた。

 もしここでバイトを辞めたら、広瀬と会う機会がぐっと減るのは目に見えている。たとえ買い物に来たところで、シフトを把握していなければ、広瀬が出勤しているかどうかも分からない。出勤していたとして、確実にいつも同じ場所にいるわけでもない。

 会えない時間を耐えられる自信が無かった。

 広瀬のことが気になって、勉強に集中できるか不安だった。

 まだはじまってもいないことを気にして、胸が締め付けられるような心地にさえなった。

 だったら、一週間に二回、いや、一回でも構わない。会って、少しでも会話をしたいと思った。

 本当にそれだけの、不純な動機。

(――……弱いんだ、俺は)

 たかが半年を耐えられる心の強さを、持ち得ていなかった。

 受験する大学についてもそうだ。

 夏休みに入ってから、親や兄姉に相談したり、ネットで情報を集めたり。日程が合えば、友人たちと一緒にオープンキャンパスなどにも足を運んだ。

 特別な目標や、やりたいことがあるわけではない。関東方面に出るのは流石に躊躇したが、大阪や兵庫も楽しそうだと思った。地元を離れた街で一人暮らしをするのは、わくわくするとも思った。

 けれど、最終決めたのは京都の大学だ。

 理由は、電車で通えるから。

 大学に通いながら、ここでまたバイトを続けることができるから。

 これまた不純すぎる動機ではあるが、いま自分が一番大事にしているものは何かを考えたときに、それ以上が浮かばなかったのだ。

 恋が人を強くするなんて話もあるらしいが、自分に関しては真逆で、どんどん自分の弱さが曝け出されているような気さえする。

「弱いです、俺は」

 もう一度絞り出すように言った碧に、広瀬は少し戸惑ったように瞳を揺らした。

 何と言葉を掛けたら良いのか分からないといった空気が伝わってくる。

 碧はひとつ深呼吸をしてから、まっすぐに広瀬を見据えた。

「でも、強くなろうと思います。この山を越えられる強さを、持ちたい」

 だから頑張ります。

 言った碧に、広瀬は小さく「うん」と頷いた。

「分かった。頑張れ、牧野くん」

 そう言って優しく微笑んだ広瀬の柔らかい視線に、碧は心臓がぎゅっとなるのを感じた。

 碧の本心が広瀬に伝わったわけではない。

 けれど今は、これでいい。

 広瀬と碧は、互いにふふっと笑うと、そろそろ戻ろうかと席を立ち、会議室を出た。

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