water man

@yujiyok

第1話

僕は水が怖い。

幼い頃からずっとそう思っていた。

でも、川やプールで溺れた記憶もないし、親に聞いてもそういった事はなかったと言う。

お風呂に入るのも顔を洗うのも、手を洗うことすら嫌で、一瞬で済ませてしまう。バレると親に怒られるので、気付かれないようにごまかしてきた。

プールの授業は極力仮病を使い、どうしても泳がなければいけない時は、こっそり泣いて必死に我慢した。

雨の日は常に憂鬱だ。レインコートに長靴に傘という重装備で外に出る。

だが、水を飲むのは平気だ。

とにかく水が肌に触れるのが怖いのである。

なぜ怖いのか。高校生になって、夏休みの暇な時間を持て余していたある日、自分の問題に向き合ってみた。

洗面器に水をため床に置いて眺めてみる。水そのものが怖いわけではない。

顔を近付けても平気だ。手を入れようとしたら直前で止まった。むむ。足を入れてみた。平気だ。ひじも平気。手のひらを水面に合わせようとする。止まった。手の甲。平気。指。ストップ。むむ。どうやら指先を水につけようとすると動きが止まる。

理由はわからない。でもこれが全ての根源に思えた。

指先以外は平気らしい。

洗面器は片付け、コップに水を入れて机に置いた。

人差し指を中に突っ込む。つける瞬間、抵抗があったが無理やり中に入れる。

冷たい水に指が入っている。それだけだ。これの何がダメなんだろう。しばらく入れながら考えた。わからない。

そのまま何もせずにいると、あることに気付いた。コップの水の水位が上がっているのだ。

そのまま見ていると水は徐々に増えてきた。水が溢れてこぼれる寸前に指を抜いた。

水が増えている。

匂いを嗅ぐ。が、異常は感じられない。恐る恐る飲んでみる。普通の水だ。

今度は親指、薬指と左右で順に試してみた。全ての指先に反応する。

指先を水につけると、水が増えるのだ。

不思議だった。こんな話は聞いたことがない。でも、水を避けていた理由はわかった。

指先だけにせよ、他の人とは違う変な力を作動させまいと、本能が拒否していたに違いない。

洗面器に少量の水を入れて再び持ってきた。

両手を入れる。1本の指の10倍の速さで水は増えていく。半分程の所で手をはずした。

そして慌てて手を拭く。水滴でも指先についていたらだんだん増えていくのだ。

今までのことを考える。頑張ってプールで泳いだ時、急いでお風呂を済ませる日々、慌てて顔を洗う朝。全ては指先を水につけたくなかったのだ。

つまり、指先さえ水に触れなければ怖くはないに違いない。

家に誰もいないのを見計らって、両手にゴム手袋をしてシャワーを浴びてみた。全く何の抵抗もなく、長い時間お湯をかぶることができた。

少し生きやすくなった気がした。

指先に水をつけなければあとは普通なのだ。しかし指をつけずに水を使うことができるのか。常に手袋は難しい。素早く手を拭くのが最良だろう。何にせよ理由がわかって少し落ち着いた。

人に迷惑さえ掛けなければ、普通に生活はできる。

ヒマを見付けては色々実験してみたが、ジュースやコーヒーを増やして得しようという目論見は外れた。ゼリー状のものや醤油、酢などは全然ダメで、炭酸水、塩水、砂糖水などは増えるスピードが遅かった。


高校時代は遊びと勉強部活で生活がほぼ埋まっている。恋やアイドルへの憧れや周りの人間関係も、自分自身に対する意識ほど大きくはなかった。自分がどう見られていて、どんな顔をしていて、これからどう進んで行くのか、自分のことを考えるだけで精一杯だった。


なんとか大学に入り、一人暮らしを始めた。水が怖いと逃げていた僕はもういない。

僕の指から水が出ていたって誰も気付かないし、誰も気にしない。

手袋もいらない。雨の日だって何も怖くない。なんならレインコートも傘もいらないくらいだ。

なんとかこの力が生活に役立たないかと思ったが、水の中に手をつけて待っているより、圧倒的に蛇口をひねった方が早い。

日常生活で、どうしても水が必要で手に入れようがないという状況が僕にはないのだ。

大抵はコンビニに行けば事足りる。


講義の合間に駅前を歩いていたら、急に雨が降ってきた。昔のようには焦らない。コンビニで傘を買うのも悔しいし、どこかで雨宿りすることにした。

少し先にカフェがある。コーヒーでも飲もう。長いソファーが壁沿いにあり、テーブルと椅子がその前に並んでいる席の一番端に座った。

コーヒーと水をトレーに乗せ、テーブルに置く。一息ついて外を見ると雨はだんだん強くなってきていた。

しばらくゆっくりしていよう。コーヒーを飲みながら、水の入ったグラスに人差し指を入れた。

徐々に水が増えていく。ある程度たまったらひと口飲む。

密かな楽しみだ。堂々とやっていても誰にも気付かれない。こういったカフェでは他の客がどんな人かとりあえず雰囲気をつかむが、あえて無関心を装い、特に目立ちさえしなければ周りの人間のことなど誰も気にしない。

濡れた指をテーブルに置く。ゆっくりと動かして水で文字や絵を描く。

くだらない遊びだ。

しばらく動かさずに置いておくと、水はどんどん広がり描いた文字や絵を浸食し、一面小さな水たまりになる。あまり長くそうしていると、水は床に落ち水浸しになってしまう。

このまま溢れさせ、どんどん水を流してしまえという衝動に駆られる。ずーっと増やし続けて全てを水に浸してしまいたい。増えろ。どんどん増えろ。

はっと我にかえる。

急いで指を離しナプキンで拭く。テーブルの水もナプキンで吸い上げ、また外を見る。雨。

なんて僕は無力なんだろう。指先の水では火事さえも消せない。何の役にも立たない。

少し面倒な体質なだけだ。

水遊びにも飽きて、ぼんやりとコーヒーを飲む。気付いたら客は増えていた。席も徐々に埋まってきて空席を探す人もいたので、僕はコーヒーを飲み干しトレーを持って立ち上がった。


雨はまだ降り続けていたが、僕は濡れて歩く。このまま家に帰ろう。ああ今となってはこうして濡れている方が楽だ。何も考えずにいられる。

空から落ちてくる水だろうが、僕が増やした水だろうが、傘を持ってすれ違う人々にとっては何の関係もない。

びしょ濡れになって歩きながら、何故か涙が出てきた。悲しいわけでもないのに。

ああこれも自分が生み出している水だ。

雨だろうが涙だろうがどこの誰にも関係ない。誰も僕の抱えるものに気付きもしない。

濡れながら歩く。水を増やしながら歩く。

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