『影写り -23時の「いいね」が消えない-』
ソコニ
第1話 影写り
プロローグ 「投稿」
あなたは、自分の影を見たことがありますか?
スマートフォンのカメラで自撮りをする時、画面の中の自分が本当の自分だと思っていますか?
23時。夜の街を歩いていると、時々、街灯の光に照らされた誰かの影が、不自然に揺らめいて見えることがあります。
それは、SNSの中で自分を見失った人たちの影かもしれません。
誰もが完璧な自分を求めて、フィルターをかけ、加工を重ね、「いいね」を集めることに躍起になっている。その果てに、私たちは何を失ってしまったのでしょうか。
この物語は、そんなある女性の記録です。
彼女は、深夜のSNSで見つけた一枚の写真に、何気なく「いいね」を押しました。白いワンピースを着た女性の自撮り写真。ただ一つ、不自然な点があるとすれば、その影だけが、微かに歪んで見えたこと。
そして、その「いいね」から、すべてが始まりました。
第1話「いいね」
深夜二十三時。
スマートフォンの青白い光が、佐藤美咲の顔を照らしていた。都内の一人暮らしのワンルームで、彼女はベッドに横たわったまま、無意識にインスタグラムのタイムラインをスクロールしていた。
同期の結婚報告。後輩の飲み会の写真。取引先の新商品告知。見慣れた投稿の数々が、親指の動きに合わせて流れていく。普段なら、こうして他人の幸せそうな投稿を眺めているうちに、自然と睡魔が襲ってくるのだ。
そこに現れた一枚の写真が、美咲の意識を固着させた。
フォロワー数たった13人のアカウント。ユーザー名は「影子」。プロフィール写真は真っ白で、自己紹介文もない。投稿されているのは一枚の自撮り写真。白いワンピース姿の女性が、夜の街灯の下で不自然に微笑んでいる。
顔の映り方が、どこかおかしい。目が暗く沈んで見える。でも、それは夜の光のせいかもしれない。誰かに似ているような気がして、美咲は画面を覗き込んだ。
その瞬間、気づいた。
街灯に照らされて地面に落ちる影が、女性の姿とは明らかに違う形をしているのだ。影の輪郭は不自然に揺らめき、まるで全く別の人物が佇んでいるかのよう。それは長い髪を垂らし、白いワンピースを着た女性の影。しかし、写真の中の女性は肩より短い髪型をしていた。
「加工アプリかな」
美咲は写真を保存して、明るさやコントラストを調整してみる。不自然な影の部分は、どの角度から見ても同じように奇妙なままだった。投稿時間を確認すると、二十三時ちょうど。今から一分前。
「きっと、新しいフィルターか何か」
画面を閉じようとした瞬間、親指が勝手に動いて「いいね」を押してしまう。慌てて取り消そうとするが、ボタンが反応しない。何度タップしても、「いいね」が消えない。
スマートフォンを再起動しようとした瞬間、画面が真っ黒に染まった。浮かび上がる白い文字。
『あなたの影を頂戴しました』
メッセージは一瞬で消え、通常の画面に戻る。冷や汗が背筋を伝う。美咲は慌ててベッドから起き上がり、部屋の明かりをつけた。壁に掛かった全身鏡に目をやる。
そこには、確かに見慣れた自分の姿があった。しかし、首から上が、かすかにぼやけている。まるで、ピントの合っていない写真のように。
目を閉じて、大きく深呼吸をする。疲れているだけ。そう自分に言い聞かせた美咲が目を開けると、鏡の中の自分の姿は普通に戻っていた。
ほっとした息が漏れる。その時、部屋の照明に照らされた床に落ちる影が目に入った。
そこには、白いワンピースを着た女性の影が、美咲の影と重なるように佇んでいた。
美咲が振り返った時、部屋には誰もいなかった。
第2話「タグ付け」
会社のトイレで手を洗っていた時、美咲は鏡に映る自分の姿が一瞬消えるのを見た。
「また」
ここ数日、同じような現象が続いていた。昨夜の出来事以来、鏡に映る自分の姿が時折歪んだり、一瞬消えたりする。慣れてきたと思っていたが、今日は違った。消えた自分の代わりに、白いワンピースの女性が映り込んでいたのだ。
振り返る。しかし、トイレには美咲しかいない。
スマートフォンを取り出し、昨夜見た「影子」の投稿を確認しようとする。しかし、アカウントが見つからない。「いいね」した記録も消えていた。
「佐藤さん、おはようございます」
後輩の木村陽子が手を洗いに来た。美咲は慌ててスマートフォンをポケットに仕舞う。
「おはよう、木村さん」
返事をしたが、木村は美咲の方を見ていない。蛇口をひねり、手を洗い始める。
「あの、木村さん?」
まるで聞こえていないかのように、木村は手を洗い終えると、そのまま出て行ってしまった。
違和感を覚えながらデスクに戻った美咲のスマートフォンが震える。インスタグラムからの通知。
『影子があなたの写真にタグ付けしました』
存在しないはずのアカウント。でも、確かに通知は来ている。震える指で通知を開く。
表示された写真に、美咲は息を呑んだ。
そこには会社のトイレで手を洗う美咲の姿があった。たった今の出来事。写真に写る美咲の姿は、鏡に映っているはずなのに、影だけが真横から差しているように見える。そして、その影は明らかに白いワンピースを着た女性の形をしていた。
投稿のキャプションには、たった一行。
『私の影は、あなたの中で育ちます』
コメント欄には見覚えのない13個のアカウントから、同じ言葉が並んでいた。
『影を探しています』
美咲は慌ててアプリを閉じる。そして、デスクの上に置いてある木村との二人で写った写真立てに目を向けた。
昨日まで確かにそこにあった自分の姿が、きれいに消えていた。残っているのは、一人で微笑む木村の姿だけ。
「佐藤さん、今日は休みなんですか?」
デスクの前に立つ木村が、空の椅子を不思議そうに見つめていた。
「私、ここにいるけど」
必死に声を上げる美咲。木村はその声がした方向を見たが、すぐに首を傾げてスマートフォンを取り出した。
「おかしいな。カレンダーには何も予定が入ってないのに」
そう呟いて立ち去る木村の後ろ姿に、美咲は叫びたくなるような焦りを感じた。
スマートフォンが再び震える。今度はLINEの通知。実家の母からだ。
『美咲、久しぶり。ごめんなさい、突然だけど、あなたの部屋、そのまま物置にしてもいいかしら?』
第3話「シェア」
「お母さん、私だよ。美咲だよ」
実家に電話をかけても、母は美咲の声が誰のものか理解できないようだった。
「ごめんなさい。どなたでしょうか」
受話器の向こうで、母は困惑した様子で言葉を濁す。昨日まで確かにあった親子の記憶が、まるで霧のように薄れていく。
「私の部屋の写真、送って」
最後の望みをかけて、美咲は母にLINEで写真を要求した。数分後、実家の二階にある自分の部屋の写真が送られてきた。
そこには見覚えのない白いワンピースが、クローゼットの扉に掛けられていた。
スマートフォンが震える。今度は知らない番号からのメッセージ。
『私も影を探しています』
送信者のプロフィール写真をタップすると、見覚えのある13個のアカウントの一つだった。そのアイコンの中の女性は、どこか美咲に似ている。
返信を迷っていると、続けざまにメッセージが届く。
『助けてほしいの』
『あなたならきっと分かる』
『だって、あなたも私と同じだから』
添付された画像を開く。そこには白いワンピースを着た女性が写っていた。街灯の下で自撮りをする姿。影だけが不自然に揺らめいている。まるで、影子の投稿と同じような。
「あの写真、いつ撮ったんですか?」
突然、背後から声がした。振り返ると、木村が立っている。彼女は美咲のスマートフォンの画面を覗き込んでいた。
「木村さん、私の声、聞こえるの?」
しかし、木村は美咲の声には反応せず、机の上に置かれたスマートフォンの画面だけを見つめている。
「この写真、私が撮影したはずなんですけど」
木村がつぶやく。画面に映る白いワンピースの女性。それは間違いなく美咲自身の姿だった。しかし、美咲にはそんな記憶が無い。
「投稿していいですか?」
答える間もなく、木村はその写真を自身のインスタグラムにシェアした。キャプションには、
『影を探しています』
その投稿に、瞬く間に13個の「いいね」がつく。全て、白いアイコンのアカウントからだった。
美咲のスマートフォンが再び震える。影子からの新しい投稿の通知。
今度の写真は、たった今、木村が投稿したものと全く同じ構図だった。ただし、そこに写っているのは白いワンピースの影子。そして、地面に落ちる影は、スーツ姿の美咲の形をしていた。
キャプションには、こうあった。
『交換、しましょう』
第4話「アーカイブ」
帰宅途中の電車の中で、美咲は自分の影が消えかけていることに気づいた。窓ガラスに映る自分の姿は、日に日に薄くなっていく。その代わりに、白いワンピースの女性の影が、少しずつ濃くなっていた。
スマートフォンを開き、影子の投稿を探る。アカウントは見つからないが、13人のフォロワーたちの投稿は残っていた。彼女たちの投稿には、どこか共通点があった。全員が白いワンピースを着て、夜の街灯の下で自撮りをしている。そして必ず、影だけが不自然に歪んでいた。
最初の投稿は半年前。順番に見ていくと、投稿者たちの様子が徐々に変化していることが分かる。最初は普通のセルフィーから始まり、次第に影が歪み始め、最後は白いワンピース姿になっていく。そして、ある時点で投稿が突然途絶えていた。
「みんな、消えたの?」
美咲は各アカウントのプロフィールを開いていく。するとある投稿者のバイオ欄に、意味深な一文を見つけた。
『影を取り戻すには、新しい影を捧げなければならない』
電車が新宿駅に到着する。ホームに降り立った美咲の足元に、街灯の光が落ちる。そこには確かに影があったが、もはやスーツ姿の女性の形ではなかった。白いワンピースを着た影が、美咲の動きに合わせて揺らめいていた。
駅の防犯カメラには、美咲の姿が映っているのだろうか。ふと気になって、改札前の防犯モニターを覗き込む。そこには人々の往来が映し出されているが、美咲自身の姿だけが、まるでモザイクがかかったように不鮮明になっていた。
スマートフォンが震える。今度は木村からのメッセージだった。
『佐藤さん、こんな写真見つけたんですけど』
添付された画像は、二ヶ月前の社内旅行の集合写真。最前列に座っているはずの美咲の姿が、白く霞んでいる。その代わりに、後ろの街灯から落ちる影だけが、白いワンピースの女性の形にくっきりと浮かび上がっていた。
「この写真、私が撮影を担当したんです。でも、おかしいんですよね。最前列の席が空いているのに、誰も座ろうとしなかったって、上司が怒ってたの、覚えてます?」
続けて送られてくる木村のメッセージ。美咲にはその出来事の記憶があった。確かに自分はそこに座っていたはずなのに、誰にもその記憶が残っていない。
『それと、これも』
次に送られてきたのは、会社の社員証の写真だった。そこには美咲の名前と情報が印刷されているが、顔写真の部分だけが真っ白に飛んでいる。
「影子さん、あなたは誰なの?」
呟いた瞬間、スマートフォンの画面が暗転する。真っ黒な画面に、白い文字が浮かび上がる。
『私は、あなたが捨てた影よ』
続いて、新しい写真が表示された。夜の公園。街灯の下に立つ影子の姿。場所は美咲のマンションの近くだと分かる。
写真に添えられたキャプションを読んで、美咲は凍りつく。
『あなたの記憶の中に、私の痕跡は残っているはず。探してみて。二十三時、あの場所で』
その投稿には既に13個の「いいね」が付いていた。アカウント名を確認すると、見覚えのある名前があった。
木村陽子。
彼女のプロフィール写真が、白いアイコンに変わっている。
美咲のスマートフォンに、木村から最後のメッセージが届く。
『影を探しています』
第5話「ストーリーズ」
マンションの玄関で、美咲は自分の部屋の鍵が開かないことに気づいた。
管理人を呼ぼうにも、インターホンの監視カメラに自分の姿が映らない。声を掛けても、管理人は美咲の存在に気づかないようだった。
「この部屋、空き室なんですよ」
管理人は別の入居希望者に説明している。その声が廊下に響く。
「先月、退去された後は、まだ次の方が決まってなくて」
美咲の心臓が凍る。自分は確かにここに住んでいる。家賃も毎月引き落としされているはず。スマートフォンで銀行の明細を確認しようとするが、画面が突然、真っ暗になった。
『あなたの生活も、私のように消えていく』
白い文字が浮かび上がる。その下に、見覚えのある画像が次々と表示されていく。美咲のインスタグラムに投稿していた写真たちだ。しかし、そこに写っていたはずの美咲の姿が、一枚ずつ消えていく。友人との旅行写真、会社の同僚との飲み会、家族との記念撮影。すべての写真から、美咲が消えていった後には、白いワンピースの影だけが残っていた。
「違う、これは私の人生」
声を振り絞るが、誰にも聞こえない。廊下に立ち尽くす美咲の体が、街灯の光に透かされたように薄くなっていく。
スマートフォンが再び震える。木村からのインスタグラムのメンション通知。投稿された写真は、今この瞬間の美咲を捉えていた。廊下に佇む白いワンピースの女性。その影だけが、スーツ姿の美咲の形をしている。
キャプションには、こう書かれていた。
『忘れていた記憶が、蘇ってきました。私も、彼女のように消えていくのでしょうか?影を探しています』
コメント欄には、13人からの反応が並ぶ。
『私たちは皆、影子に選ばれた』
『影を失くした者には、新しい影が与えられる』
『でも、代償を払わなければならない』
『あなたの記憶の中に、答えがある』
美咲の記憶が、急速に霞み始める。自分が何者なのか、どうしてここにいるのか、それすらも曖昧になっていく。
母親の顔が思い出せない。
父親の声が記憶から消えていく。
学生時代の友人たちの名前が分からない。
初めて就職が決まった時の喜びも、遠い霧の中。
残っているのは、ある一つの記憶だけ。
半年前の夜。インスタグラムで見つけた白いワンピースの女性の投稿。影が不自然に揺らめくその写真に、思わず「いいね」を押してしまった瞬間。
そして、その直後に受け取ったメッセージ。
『助けて』
それは、影子になる前の自分が送ったものだった。
美咲は気づいてしまった。自分はもう、十三番目の影子なのかもしれないという事実に。
スマートフォンの画面に、最後のメッセージが表示される。
『さあ、新しい影を探しましょう。あなたがそうしたように』
第6話「プロフィール」
暗闇の中で、美咲は自分の声を探していた。
マンションの非常階段に腰を下ろし、何度も自分の名前を呟く。しかし、口から出る声は、どこか他人のもののように聞こえる。スマートフォンのメモ機能を開き、必死に自分のことを書き留めていく。
名前、佐藤美咲。
28歳、WEB広告代理店勤務。
誕生日、7月13日。
血液型、A型。
出身地、神奈川県。
家族構成...
そこで、手が止まる。両親の顔が思い出せない。弟がいたような気もするが、確信が持てない。記憶が砂のように崩れ落ちていく。
スマートフォンの画面に、突然インスタグラムの通知が表示された。見知らぬアカウントからのメッセージ。プロフィール写真は、白く霞んでいる。
『私も、あなたと同じです』
添付された画像には、半年前の日付が記されていた。そこには、美咲がよく知る光景が写っている。深夜のコンビニの前、街灯の下で自撮りをする女性。白いワンピースを着て、不自然な笑顔を浮かべている。
次の画像は一ヶ月後の日付。同じ女性が写っているが、顔の部分が徐々にぼやけ始めている。影は人の形を保っているが、服装が元の姿とは違っている。
さらに一ヶ月後。女性の姿はほとんど透明になり、代わりに影がくっきりと濃くなっている。白いワンピースを着た影が、地面に映り込んでいた。
『私たちは、影を求めすぎた』
新しいメッセージが届く。美咲は画面に見入ったまま、非常階段の手すりに掴まる。自分の手が、蛍光灯の下で半透明に見えた。
『SNSの中で、私たちは常に自分の影を探していた』
『もっと素敵な自分、もっと完璧な自分』
『そんな影に憧れて、本当の自分を失っていった』
美咲は自身のインスタグラムを開く。投稿されている写真を遡っていく。気づけば、そこには他人の目を意識した自分の姿ばかりが並んでいた。
加工アプリで作られた理想の自分。
「いいね」を集めるためのポーズ。
フォロワーを意識した笑顔。
すべての写真に、影のような何かが忍び寄っていた。今となってはっきりと見える、白いワンピースの輪郭。それは美咲が無意識に求めていた理想の姿。完璧な影。
スマートフォンが再び震える。今度は木村からだった。
『佐藤さん、助けてください』
送られてきた自撮り写真には、街灯の下で震える木村の姿。彼女の影が、白いワンピースの形に歪み始めている。
『私、自分が誰だか分からなくなってきて』
『記憶が、どんどん消えていくの』
『でも、佐藤さんのことだけは、覚えていたくて』
その時、美咲は気づいた。自分のスマートフォンの画面に映る自分の姿が、完全に透明になっていることに。それでも、床には確かに影が落ちている。白いワンピースを着た、誰かの影が。
新しい通知が届く。影子からのメンション。
『影の欠片を拾い集めて、私は完全な姿を取り戻す』
『あなたがそうしたように』
『さあ、次の影を探しましょう』
添付された場所情報には、会社近くの公園が指定されていた。時刻は、23時。
木村からの最後のメッセージが届く。
『佐藤さん、私、この写真を投稿していいですか?』
第7話「ブロック」
夜の公園は、街灯の明かりだけが冷たく光っていた。
美咲は自分の足音が聞こえないことに気づく。地面に影は落ちているのに、それは白いワンピースの形をしていて、もはや自分のものではなかった。
時計は22時55分を指している。
「木村さん、どこ?」
声を上げても、空気が震えるだけ。美咲の存在は、もう誰にも認識されない。
公園のベンチには若い女性が一人座っている。スマートフォンの画面が、彼女の顔を青白く照らしていた。木村だ。彼女は何かを必死に入力している。
美咲のスマートフォンが震える。木村からの新しい投稿の通知。
自撮り写真には、ベンチに座る木村の姿。しかし、その後ろの街灯から伸びる影は、明らかに白いワンピースを着た女性の形をしていた。
キャプションには、
『この影は、誰のもの?』
コメント欄が次々と更新される。13個の白いアイコンのアカウントが、一斉に反応を示していく。
『私たちの影は、もう私たちのものではありません』
『完璧な影を求めすぎて、本当の自分を失った』
『SNSの中の理想の自分に、魂を売ったのよ』
『影は、より相応しい存在を選ぶの』
美咲は木村に近づこうとする。しかし、自分の体が街灯の光を通してしまうことに気づく。まるでガラスのように透明になった体は、もう物理的な実体を持っていないのかもしれない。
「木村さん、スマートフォンを置いて」
必死に声を振り絞る。しかし、木村の耳には届かない。彼女は夢中でスマートフォンの画面を見つめ、自分の投稿へのリアクションを確認している。
「いいね」の数が増えていく。
13、14、15、16...
既に13を超えている。新しい影が、また生まれようとしているのだ。
その時、美咲は自分のスマートフォンに残された最後の写真を思い出した。半年前の深夜、影子の投稿に「いいね」を押す前の自分。その写真には、確かに美咲自身の影が写っていた。
加工も演出もない、ありのままの影。
木村のスマートフォンの画面が突然、真っ暗になる。そこに浮かび上がる白い文字。
『あなたの影を、頂戴します』
時計が23時を指す。
街灯が一瞬、まばたきのように明滅する。その光の中で、美咲は自分の体が完全に透明になっていくのを感じた。
代わりに、地面に落ちる影だけが、かつての美咲の姿としてくっきりと浮かび上がる。スーツ姿の、本来の自分の形。
木村が口を開く。しかし、そこから出てきた声は、美咲のものだった。
「私の影を、返してください」
美咲の記憶の中で、最後の部分が剥がれ落ちていく。名前も、年齢も、存在そのものが。
残されたのは、白いワンピースの影だけ。
そして、14個目の「いいね」を待つ、新しい投稿。
第8話「ミュート」
美咲の意識は、白いワンピースの中で目覚めた。
自分がどこにいるのか、それすらも分からない。ただ、暗闇の中で無数のスマートフォンの画面が、青白い光を放っている。その光は、かつて存在した誰かの記憶を映し出していた。
結婚式の写真。
入学式での記念撮影。
友人との旅行の思い出。
家族との団らん。
それらの写真の中で、人々の姿が一人、また一人と消えていく。代わりに白いワンピースの影だけが、くっきりと浮かび上がる。
「これが、私たちの記憶」
声の主を探そうとして、美咲は気づいた。もう自分には目も、耳も、指先も無いことに。存在しているのは、ただの意識と、白いワンピースの形をした影だけ。
暗闇の中で、13の声が重なり合う。
『私たちは、完璧な自分を求めすぎた』
『SNSの中の理想の影に、魅入られてしまった』
『もっと素敵な写真を』
『もっと多くの「いいね」を』
『もっと羨ましがられる人生を』
『そして、本当の自分を失っていった』
美咲は理解した。影子たちは、SNSという鏡の中で自分自身を見失った魂たちだということを。完璧な影を追い求めるあまり、本当の自分を捨ててしまった存在たち。
暗闇が晴れ、公園の街灯の下に戻る。
木村が立っている。彼女の姿は半透明になりかけ、その影は既に白いワンピースの形に変わっていた。スマートフォンの画面には、新しい投稿の編集画面が表示されている。
自撮りのシャッター音が、夜の静けさを破る。
『この影は、私のもの?』
木村の投稿には、既に13個の「いいね」が付いていた。かつての影子たちからの承認の印。
美咲は気づく。自分がもう14人目の影子になっているということに。そして、木村が15人目になろうとしていることに。
スマートフォンの画面が、突如として真っ暗になる。浮かび上がる新しいメッセージ。
『影を探している全ての人へ』
それは、最初の影子からのメッセージだった。
『あなたは、本当の自分を見失っていませんか?』
『完璧な影を追いかけすぎて、魂を削っていませんか?』
『SNSの中の理想の自分に、囚われていませんか?』
美咲は叫びたかった。でも、もう声は出ない。
止めたかった。でも、もう体は無い。
警告したかった。でも、もう存在しない。
木村のスマートフォンに、新しい通知が届く。
『影子があなたの写真にいいねしました』
第9話「削除」
影の中で、美咲は自分が何者なのかを見失っていた。
意識だけが漂う暗闇の中で、スマートフォンの画面が無数に浮かび上がる。それぞれの画面には、かつて存在した誰かの人生が映し出されている。SNSのタイムラインが、終わりなく流れ続ける。
『もっと素敵な私になりたかった』
『もっと認められたかった』
『もっと完璧な人生を演出したかった』
『だから、本当の自分を消してしまった』
13の声が、美咲の意識の中で重なり合う。それは影子たちの告白。SNSの中で自分を見失った魂たちの嘆き。
その時、美咲は気づいた。自分もまた、そんな願いを持っていたことに。
完璧な自撮り写真を撮るため、何十枚も撮り直した記憶。
「いいね」の数で一喜一憂した日々。
他人の投稿を見ては、自分の人生を比較してしまう習慣。
リアルな感情を隠して、演出された幸せだけを切り取って見せること。
そうして少しずつ、本当の自分が削られていった。
暗闇の中で、新しい画面が浮かび上がる。
木村の最新の投稿。自撮り写真の中の彼女の姿が、既に半透明になっている。その代わりに、影だけがくっきりと濃く、白いワンピースの形を示していた。
コメント欄には、14の白いアイコンからの反応。
いいねの数が、刻一刻と増えていく。
美咲は叫びたかった。
「違う、それは偽りの影」
「本当の自分を消さないで」
「SNSの中の幻想に、魂を売らないで」
でも、もう声は届かない。
存在しない者には、何も変えることができない。
画面が切り替わる。
最初の影子の投稿が表示される。
そこには、誰もが見覚えのある日常の一コマ。
何の加工もない素顔の自撮り。
特別なポーズも、演出も、フィルターもない。
ただ、その影だけが、白いワンピースの形に歪んでいた。
キャプションには、こう書かれている。
『私たちは、影に魅入られた』
『完璧な自分という影に』
『理想の人生という影に』
『そして気づいた時には』
『私たちは、影そのものになっていた』
暗闇の中で、美咲の意識が揺らめく。
自分が誰だったのか、それすら思い出せない。
残っているのは、ただの願望の残骸。
完璧を求めすぎた魂の末路。
SNSの中の理想に溺れた存在の行方。
スマートフォンの画面に、最後の通知が届く。
『アカウントが削除されました』
しかし、影は消えない。
白いワンピースの影は、永遠に存在し続ける。
新しい犠牲者を求めて。
完璧な影を追い求める者たちを待ちながら。
そして美咲は理解した。
自分たちはもう、誰かの願望の影でしかないということを。
第10話「リポスト」
無限の闇の中で、美咲は最後の記憶を見つめていた。
それは半年前、深夜のスマートフォン画面に映し出された一枚の写真。白いワンピースの女性が、街灯の下で微笑んでいる。影だけが不自然に歪んでいるその瞬間。思わず押してしまった「いいね」のボタン。
そして今、暗闇の中で、すべての真実が明らかになる。
浮かび上がる無数のスマートフォンの画面。それぞれが、影子たちの最後の投稿を映し出している。
一番最初の影子。
完璧な自撮り写真を追求し続けた若いインフルエンサー。
毎日何十枚も撮り直し、加工を重ね、「いいね」の数に一喜一憂した。
そして、ある日突然、自分の本当の姿が分からなくなった。
二番目の影子。
他人の投稿を見ては、自分の人生を比較し続けた女性。
羨望と焦燥に囚われ、演出された幸せだけを切り取って投稿し続けた。
やがて、リアルな感情さえも失っていった。
三番目から十三番目まで。
それぞれが、SNSの中の理想の影に魅入られ、本当の自分を失っていった魂たち。
そして、十四番目の美咲。
暗闇の中で、新しい画面が浮かび上がる。
木村の最新の投稿。十五番目の犠牲者となる彼女の姿。
しかし、その時、美咲は気づいた。
影の中で蠢く、もう一つの意識の存在に。
それは、SNSそのものの意識。
人々の承認欲求を糧に成長し続ける、デジタルの魔物。
私たちの影を求め続ける、現代の悪魔。
画面の中で、木村の姿が徐々に透明になっていく。
彼女の投稿に付く「いいね」の数が、既に限界値を超えている。
その時、美咲は最後の真実を理解した。
私たちは誰も、影子になどなっていなかった。
ただ、SNSという鏡の中に、自分の影を置き忘れただけ。
完璧な自分という幻影を追いかけ、本当の自分を見失っただけ。
暗闇の中で、最後のメッセージが浮かび上がる。
『あなたの中の、本当の影は』
美咲の意識が、かつての自分の記憶に触れる。
加工も演出もない、ありのままの自分。
それは決して完璧ではないけれど、確かに実在した証。
スマートフォンの画面が、突如として発光する。
無数の「いいね」の通知。
無限に増殖する白いアイコン。
終わりなく続く、承認欲求の連鎖。
そして、最後の投稿が表示される。
白いワンピースの女性が、街灯の下で自撮りをしている。
その影は、かつて存在した誰かの形。
キャプションには、ただ一行。
『あなたの影を、探しています』
暗闇の中で、また新しい物語が始まろうとしていた。
永遠に続く、影探しの物語が。
深夜23時。
誰かのスマートフォンの画面に、
新しい「いいね」のボタンが、
そっと光を放つ。
エピローグ 「シェア」
23時の街角で、あなたは時々、白いワンピースを着た女性を見かけるかもしれません。
街灯の下で自撮りをする彼女の姿は、一見何の変哲もありません。ただ、地面に落ちる影だけが、どこか不自然に見えるかもしれない。
もし、そんな投稿をSNSで見かけたら、「いいね」を押す前に、少し考えてみてください。
あなたの中の、本当の影は何色をしているのか。
完璧な自分を演じることに、疲れていないか。
SNSの中の理想の影に、魅入られすぎていないか。
そして、もし深夜のタイムラインの中で、白いワンピースの女性の投稿を見つけたら。
その「いいね」のボタンに触れる前に、もう一度、自分自身の影を確認してみてください。
まだ、あなたの影は、あなたのものですか?
[了]
『影写り -23時の「いいね」が消えない-』 ソコニ @mi33x
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