武藤家の食卓(1ー1)
新興住宅地にある自宅――緑ヶ沼マンションのリビングで武藤大樹(むとうだいじゅ)は娘と共に妻と息子の帰りを待っていた。
「お母さんと航大遅いね」
テレビを見ながら娘の悠(ゆう)が言う。その口調はただ事実として「遅い」と言っているだけで心配をしているわけではなさそうだった。
中学生になった悠は幼い頃から老成した子供で、あまり感情を表に出すタイプではなかったが、最近はよりいっそう感情が読めなくなって、大樹は彼女との距離を測りかねていた。
「事故にでも遭ってたら大変だな」
「そうだね」
大樹の言うことに素直に同意はするし、反抗期というわけでもないのだが、あまりにも手がかからないというのも寂しいものだった。
一方で息子の航大は気弱で小学三年生になってもまだ甘えが抜けず、頼りないことにやや不満がある。
大樹は双方の性格が逆であったら何か違っていただろうかと思うことが時々あった。
「雨降ってきたね。お母さんも航大も傘持ってないよね」
「二人が帰ってきた時、すぐにお風呂に入れるように、悠は先に入っちゃいなさい」
「わかった」
彼女は一瞬だけ歌番組を放送するテレビに名残惜しそうな視線を送ったが、反抗することなく風呂場へと向かった。
これが航大であれば「この番組が終わるまで待って」だとか駄々をこねて、なかなか風呂に入らず、大樹が声を荒げることになる。
窓ガラスを叩く雨の音が強くなってきた。
まるで蜂だかトンボだかの大群が衝突しているような激しい打撃音だ。雨戸が付いていないため、音が直接部屋の中に響いてくる。
わざわざ窓の外を見なくても、相当に雨脚が強いことがわかるが、大樹は立ち上がると分厚いカーテンを捲った。
しかし予想以上に大きな雨粒がガラスを埋めており、外の様子はよく見えない。
「まだ帰ってきてないんだ?」
風呂上りの娘が言う。今度は明らかに心配そうな口ぶりだった。
すでに時間は八時を過ぎており、門限も過ぎているし、妻もパート帰りに買い物をしているにしても遅すぎる。
――雨宿りしてるのかもしれないな。
「まだだな。お母さんの携帯には何回かかけてるんだけど出ないし」
「いくらなんでも遅いね」
「あぁ。迎えに行ってみるか。悠は入れ違いにならないように留守番してなさい」
「うん」
大樹が車の鍵をポケットに入れて、玄関で靴を履こうとしたところでドアが開いた。
「ただいま」
立っていたのは、妻の美知留だった。一度服を着たままプールに浸かったかのように、濡れていない箇所が残っていない。
「ずぶ濡れじゃないか」
「雨すごくて」
「電話くれれば車で迎えに行ったのに」
「うん、迎えに来てもらえばよかったなって、歩いてる途中で気づいた。でももう濡れちゃってたから。結局歩いて帰ってきた」
「とにかくすぐ風呂入りなさい。もう湧いてるから」
美知留が玄関で靴と一緒に靴下を脱いでいるところに、娘がタオルを持ってやってくる。
「はい、これ」
「ありがとね」
「ねぇ、お母さん。航大がまだ帰ってないんだけど」
「え? まだ帰ってないの?」
三人の表情が一気に曇る。
大樹は美知留が迎えに行っているのだと思っていたし、美知留は美知留で息子はとっくに帰宅していると思っていたようだ。
「航大はどこに行っているんだ?」
大樹は妻と娘のどちらにというわけでもなく尋ねるが反応はない。
二人は顔を見合わせて、小さく首を振る。
「学校と友達の家に電話をしてみて、わからなかったら警察に連絡しよう」
「えぇ」
自分自身はどこの電話番号もわからないので、濡れ鼠の妻には申し訳ないと思いながらも電話を任せる。
「俺はちょっと車で航大が行きそうなところを回ってくるから」
「わかった」
「悠は心配だろうけど、明日も学校あるんだから早めに寝なさい」
「うん」
大樹は豪雨の中、最近買い替えたばかりのワゴン車を走らせる。夏休みにはこの車でキャンプに行こうとつい先日航大と話したばかりだ。
ゆっくりと近所の道から学校方面、塾の前をまわっていくが、息子どころか人っ子一人見当たらない。
息子はどこへ消えてしまったのだろうか。
――こんな雨の中、どこかで怪我でもしてたら大変だ。
結局、日付が変わる頃まで探し回ったが航大を見つけることはできず、一回帰宅することにした。
もちろん自宅に帰っても息子の姿はなかった。
美知留が学校と心当たりがある息子の友人の家庭にも連絡を入れたそうが、手掛かりになるような情報はなく、今晩は一旦帰りを待つということになったらしい。
「また明日探そう。寝られないかもしれないが、目を閉じて少し休んだ方がいい。流石に小学生が一晩帰ってこないとなったら警察にも連絡を入れよう」
すっかり憔悴して、一気に五歳十歳老け込んだようにも見える妻と、逆に落ち着き払った人形のように表情が変わらない娘を寝室に行くよう促すと、食卓テーブルに突っ伏した。
大樹は毎日ビールを一本空けてから寝るのだが、この日はとても酒を飲む気になれなかった。
少し休んだらまた捜しに出るつもりだった。息子が行方不明になった不安やストレスを酒で誤魔化している場合ではない。いつでもすぐに車に乗れるようにはしておかなければならない。
――明日は仕事休むか。
そして立ち上がろうとしたところ――。
寝室のドアが音もなく開き、妻の美知留が青白い顔をしてリビングに出てくる。頬には涙の跡がくっきりと残る。
神経質な彼女だ。眠れないだろうとは思っていた。
「寝られないのか?」
「うん」
「寝られなくても横になって目を閉じているだけで疲れは多少マシになるって、こないだテレビで観た」
「航大はきっと悪魔に攫われたんだと思う」
――またか。
妻の突拍子もない発言に対しては、常々家族全員が忍耐を強いられてきた。
彼女は霊感があるのだという。そこに関しては一切信じていない。かといって、今の不安を悪魔だか悪霊だかのせいにしたいという気持ちもわからないではない。
「そうか」
バカなことを言ってないで寝ろ、と怒鳴りつけることもできたが、彼女は今とても傷ついているだろう。
それに自分が彼女の話を真面目に聞かないことで、妄想だけでなく怒りや不満の矛先が娘に向かうのは避けたい。
肯定も否定もしなかった。
「信じてないでしょ?」
――あぁ、信じようがない。
「君と違って、僕にオカルト趣味はないんだよ」
これも常々言ってきたことだ。
やれお祓いだの風水だのと妻が言う度にそう言ってあしらってきた。
「信じなくてもいいけど、本当なの」
「そうか。じゃあ、君は航大は神隠しとかそういうものに遭ったって言いたいわけだ」
「神隠しじゃない。悪魔に攫われたの」
――何が違うんだ。そんなのどっちでもいい。
大樹は辛抱して彼女の妄言に付き合うべきかどうか迷っていたところで、彼女がこう言った。
「航大はもう帰ってこないかもしれない」
「うるさい、もう寝ろ」
大樹は喉を限界まで絞り、美知留にだけ聞こえるように言った。
寝ている娘がいなければ、テーブルや壁を殴りつけ、二軒隣まで聞こえる声で怒鳴りつけていただろう。
「航大はただの家出で、すぐに見つかる」
美知留は何も言わず、大樹の目を虚ろな目で覗き込んでくる。
化粧を落とした彼女は生気が感じられず、長年一緒に暮らしてきた大樹にも不気味で、どこか幽霊じみて見えた。
彼女はそのまま踵を返し、寝室へと戻っていく。
ふと視線を子供部屋の方に向けると引き戸の隙間からじっとこちらを見つめる娘の瞳があった。
声を潜めていたつもりだが起こしてしまったのかもしれない。
あるいは肝が据わっていると思っていたが、弟を心配して寝られなかったのかも。大樹にはいつからか娘の考えていることがまったくわからなくなっていた。
「寝なさい」
溜息交じりに言うと、扉は音も立てずに閉じた。
航大を捜さなければ。大樹は再び夜の町で車を走らせることにした。
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