燃え殻と恋情(下)
彼女を損なう。
そこに仄暗い喜びを覚えたのはいつだったのだろう。おれは、生来誰かを傷つけど傷つけられたくないと宣う気質があった。されど、そこに喜びが伴ったことはなかったはずだった。めぐちゃんは、はっきりと物事を口にするタイプだった。嫌なものは嫌だと言うし、好きなものは好きだという。表情に出やすく、隠す気もない。野生の動物のような気高さが好きだった。柳のような堂々としたピンと伸びた背筋が好きだった。同じベッドで眠る時、丸くなる彼女の背骨のくぼみがいっとう愛おしかった。おれしか、きっとこの柳がしなる瞬間を知らぬのだという優越が胸にあった。
それが変質したのは、いつだったのかはっきりとはわからない。けれど、おれがやめて欲しいと言った煙草をあっさりと辞めてしまえる彼女の、執着のなさとでもいうものに怖気を覚えたあたりだったような気がする。
捨ててしまえる、というのは身軽であることの証明でもあった。いつか、おれのようなどうしようもなくつまらない人間に彼女が愛想をつかしてしまう時が来るのではないかという不安が、日常に纏わりつくようになった。
おれたちが初めて身体を重ねた時も、籍を入れた時も、ましてや告白したのもおれからだった。彼女が望んで、何かを求めたことがあったろうか。指輪を買った時だけは「石のついていないやつがいい、手が洗いにくいから」という希望を口にしていたような気がする。愛を確認し合う絵空事じみた歯の浮く言葉は、おれも彼女もそうそう口にしなかった。
五年、十年、そうしてもっと年月を重ねていけばおれたちも本物になれたのだろうか。
いつだったか、職場の付き合いで同僚たちと飲むと言った時も「行ってらっしゃい」とだけメッセージを送ってそれきり。おれ以外の同僚の中には、何人かの若い女が居た。でも彼女は行かないでと言わなかった。信頼されているんだよ、とへらへら笑うばかりの無能に言われたがそんなもん糞食らえだった。お前の言葉など信じるものか。その日おれはしこたま酒を飲み、前後不覚になるほど酔っ払った。大口を開けて笑い、道にゲロを吐き、同僚たちに支えられ、タクシーに押し込まれ帰宅した。
「酒くさ……」とだけ呟いためぐちゃんの、冷めた表情をよく覚えてる。あれは、どうにも好かない。おれの親父もよくああいう目をしたから。こんなんじゃなけりゃ、と熱を出したおれに言ったあいつの、どうしようもない顔。こんなんって、なんだ。どうなんだ、はっきり言ってみろよ。かけっこで一番になれなくて、頭がそこそこで、お前の好きな音楽に共感できなくて、お前の嫌いなものが好き。なあ。おやじ……熱で汗ばんだからだに張り付いた衣服。汗を拭く親父の横顔、ぼんやりした意識。喉を焼く胃酸の、苦みと鼻を抜けていく不快な吐瀉物の匂い。おれの体、昨日食ったものがマーブルになって、まざって、からあげ、枝豆、わさびが効いたたこわさ、菜の花の白和え。あと、アイスクリームと、誰も食いやしないから残った冷えたポテト。残飯処理のあと。真っ暗な部屋の隅、震えるおれの手を握る彼女の横顔、さすられる背中のくすぐったさ。ザッピングされた記憶の濁流、おれの過去と、過去と、もっと遠い過去が混ざる。なあ、親父。おれ、それでもいいっていって欲しかったよ。
目が覚めたとき、おれの瞼は薄く濡れていた。身体からはすえた汗と油の匂いがした。皮脂で肌が軋む。おれはいま、多分ひどく汚らしい。隣には、髪も乾かさず寝たのであろうぼさぼさの髪のめぐちゃんがいた。
おれはソファベッドに倒れ込んでいて、彼女はおれを覗き込むようにソファに身体を預け、床に座り込んでいた。窓からはうすく朝日が差し込んでいて、時計は朝の五時を示していた。頭が酷く痛んだ。土曜日の朝、でも確か午後からどうしても出なきゃいけない会議がある。
「めぐちゃん、起きて」
おれは彼女の肩を揺さぶった。たぶん、おれは彼女を担げないし寝室まで運んでやることもできない。おれはなよっちくて小さかったし、めぐちゃんはおれとそう体格も変わらなかった。彼女の指には、おれとそろいの指輪が光っている。
「ん……」
彼女の瞼がわずかに開いた。ぎょろりとした大きな黒目がおれを捉えている。それはなんだか蛇のようだった。鎖骨あたりまである髪の、不自然についたくせ。おれによって損なわれた彼女のかたち。
「おはよう、気分は」
彼女が言った。
「だいぶ良いよ、ごめんね。介抱してくれてありがとう」
起き上がった瞬間、おれがかけていたブランケットが床にずるりと落ちた。
「……べつに、いいよ。ただ」
彼女は言いかけてやめる。
「ただ?」
おれはそれを反芻する。きっと良くないことだと思う。
「なんでもない」
「言ってよ」
彼女が苦虫を噛み潰したような顔をした。ほらまた、損なう。そうやっておれのせいで歪む。
「吐くくらいなら飲まないほうがいいんじゃないの。勿体無いよ、たべもの」
はあ、と彼女はため息をついた。自分の言葉が適切でないと感じているのだろう。
めぐちゃんは、こういう奴だ。夫が前後不覚になって帰ってきても、心配するより先に食べ物の行先を案じる。彼女の中でおれは食い物以下なのか、と思うとおかしくなる。
十年。
そう聞くと途方もない年月のように感じられる。おれたちが結婚して十年は経つ。
おれたちは繋がり合うために、身体を重ねた。隔てるもののないまま、過ごすこともあった。なのに子どもがいないのは、授からないのはきっとどちらかに何らかの原因がある。おれたちは、それを詳しく調べようとはしなかった。というより、おれは恐ろしくてそこから動けなくなった。どちらに原因があっても、めぐちゃんに咎を背負わせてしまう、おれは自らの至らなさを突きつけられてしまう。それが何よりも恐ろしかった。彼女は何も言わなかったけれど、本当に子供を望んでいるからわからなかった。めぐちゃんは、おれの提案をほとんど断らない。おれたちは同じものを見ているだろうか。薄らぼんやりと、描いた未来に靄がかかると、それは際限がなくなっていく。
無論、おれは彼女をきわめて大切にしようと心がけていたし、無茶な要求(たとえば誰かを殺してこいとか、縁を切れとか、コントロールするような言動)をしないよう細心の注意を払った。でないと、親父のようになってしまいそうな気がしたから。俗物の根源、嫌悪の最たるもの。おれは絶対にああはならない。そう決めて生きていた。でも、もしも。
彼女の凪いだ湖畔のような心に、ほんの少しでも軌跡を描くことができたなら。
「……めぐちゃん」
「なに」
いつもと変わらない、でもうっすら歪むくちびる。おれを愛おしむような、可哀想なものを見る目。君はいつもそうだ。
「離婚しようか」
言葉は、思ったよりもすんなりと口にできた。そして、彼女は、ぱちぱちと二回瞬きをして五秒押し黙った。
「……それは、桂一の望み?」
彼女が目を伏せる。床の、スリッパを見ているのだろうか。それともフローリングについた傷を、見てるのだろうか。そんなのはどっちでもいいことだった。おれは変な体勢で寝たせいで、腫れぼったくなった目を擦る。
「うん、そうだよ」
「……わかった」
彼女は、やっぱりじっとおれの方を見ていた。ぎょろりとした大きな目が嫌とは言わなかった。それが答えだった。きみの指に光るそれがもう直ぐガラクタになる。
おれたちは、そうして他人になった。
「おれの苗字になって欲しかった」
最後に、悪あがきするみたいにそう言った。嘘ばっかりだ。どっちだってよかった。おれはおれの名前が嫌いだし、親父と揃いの苗字も嫌いだった。そう言うと、めぐちゃんはぽつりと「言ってくれたらよかった」とつぶやいた。
おれは、誰かに傷つけられぬよう傷つけるばかりを選んで生きて、そのうち偽るようになって、自分の本当を見失った。めぐちゃんを愛している、愛していた。多分。愛がなんだ。ぴったりと一つになった時、ふたつにしかなれぬこの身を呪った。おれは、どうしておれなんだ。俺の望みはきみを損なう。大切なきみの人生に、おれのようなどうしようもないやつがついて回る。それが災いでなくてなんだ。
おれは、きみひとりまんぞくに愛せない。昔っからそうだ。親父、お前は母を愛して、愛し抜いた末に生まれた俺をひどく憎んだ。母の命と引き換えに生まれた、俺を。だからおれも、あんたを愛せなかったよ。ほんとうは、あんたの自慢の息子になりたかった。なにひとつろくにできないおれを、それでもいいと言って欲しかったよ。
……おれはろくでなしです。
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