【ワンライ】今週の1時間【短編集】
篠崎亜猫
お題:鶏 「鳥頭」
腕のくすぐったさで目が覚める。ベッドから投げ出された男の右腕を取って、女がサインペンで何かを書いていた。頭痛がした。女は男が薄く目を開いているのに気が付いて、「おはよう」と言った。拗ねたような声だった。
「おはよう」
挨拶を返しても、右腕は解放されない。男は顔に力を入れたり、反対に緩めたりして眠気を逃がそうとしながら「もしかして君は、機嫌が悪い?」と女に聞いた。「それって、俺のせいかな」
「どうして?」
「だって……ここは君の家だろう」
「なんでそう思うの」
「ここが俺の家じゃないからさ」
「そもそも、機嫌が悪いように見える相手に、直接、機嫌が悪いかどうか聞くのは、最大の悪手だと思うのだけれど」
「ああ……じゃあ、俺はどうすればいい。この場合、なにをするのが最善だろうか」
「そうね、一般論だけれど、プレゼントを贈ってみてはどうかしら」
「なるほど……」
何かをプレゼントすれば、女の機嫌は直るらしい。男は女に右腕をあずけたまま、部屋を見回した。シックなインテリアで統一された、男にとっては少し寒々しい部屋だ。男が考えるような、女性が喜ぶようなプレゼント――つまり、ふわふわとか、きらきらとか、もちもちとか――は存在しそうにない。薄ピンクのバラが十二本、花瓶に刺さっているのだけが唯一の色彩だった。それも、埃をかぶった造花ではあったけれど。
男は諦めて小さく息を吐き、女の方へ頭を向け直した。
「どうも、君が腕を解放してくれないと、俺は君に何も与えられないらしい」
「そう」
「返してくれないかな」
「どうぞ」
「おっとっと」
女は雑な手つきで、男の腹に、男の右腕を乗せた。腕が落ちそうになって、男は思わず、両手で己の右腕を受け止めようとする。しかし、動いたのはあたりまえに左腕だけで、右腕のモーターは接続先が見つからなくて空回りした。
「変な感じだ」
男は呻いた。「やっぱり身体置換技術は悪だ。二〇二〇年代に社会問題になった美容整形並みに、悪い風だよ」
「じゃああなた、なんで腕を施術なさったの。コンプレックスでもおありなの」
「確かに腕力にコンプレックスはあった。クラスメイトに腕相撲で勝ったことがなかったんだ。でも施術なんてした覚えは、さっぱりだ」
「そう。やっぱり」
女は面倒そうにため息をついて、男の寝るベッドへ腰かけた。そして男の右腕を、優しい手つきで肩口のモーターに接続する。甲高い空回りの音を立てていたモーターは、押さえつけられて不満げだったが、徐々に落ち着きを取り戻し、腕と肩のつなぎ目を隠すタンパク性シリコンの下で静かになった。
「右腕をごらんになって」
女はコンパクト・ミラーを取り出して、リップを直しながら言った。男は右腕を持ち上げて見た。その腕の内側には細い字で、誰かの略歴が書かれてあった。「これは誰の履歴書だ」と男は呻いた。「悪趣味なタトゥーを入れやがって」
「あなたのものよ、ミスター」
落ち着き払って女は言う。「若いくせに爺みたいな価値観をぶら下げて、ヤンチャ時代の悪ノリで右腕を置換して以来どこもいじっていないせいで、身体の老化にリソースを取られて脳みその回転が追い付かなくなったおばかさんの人生と、最近の選択がメモしてあるの」
「じゃあ君は」
「フィアンセになるんじゃないかしら。そのメモの内容と、私の記憶に食い違いがなければの話だけれど」
「……まさか。西尾維新みたいだ」
「古典がお好きなのね」
「古典は太宰だろ。西尾維新なんてまだまだ……」
「第一、あなた、言葉遊びなんて柄じゃないでしょう」
「俺にだって韻くらい刻める」
「あなたが出来るのはせいぜい、炭酸水用のライムをスライスする程度のことじゃない」
「おお、俺は料理が出来たのか」
「そうね。とりあえず、自己肯定感は高かったわ」
「なるほど。ありがとう」
「褒めてないわよ」
男が思わず微笑めば、呆れたようなジェスチャーをして、女はため息をついた。
「じゃあ私は帰るけれど……」
「えっ!?」
男は思わず大きな声を出した。「ここは君の家じゃないのかい!?」
「ええ。ここはあなたの家よ。ねえ、必要なことは説明したし、もう大丈夫よね。私も仕事があるのよ。大丈夫、細かいことは動いているうちに思い出せるわ。ケトルの使用方法も、キーホログラムの打ち込み方も」
「わ、わかった。もしかして、俺も今日は仕事なのかな」
「多分ね……出社もいいけれどその前に、腕に書いてあること、全部読みなさいね」
「わかったよ……」
女がヒールを鳴らして出て行ったのを見届けて、男はようやく身体をベッドから起こした。腕を持ち上げて、神経質そうな文字をゆっくり追う。
「歯ブラシは左の棚の上から三段目、コーヒーはシンクの上の棚……」
文字自体から漂ってくるのはピリピリした緊張や焦りだが、書いてある事柄は実際、愛に満ちていた。細かいことは動いているうちに思い出せると言いつつ、いざ動く段になって困ることがないように、最低限ではあるが、それでも必要なことが上手にピックアップされている。
「以上、I LOVE YOU……」
男は思わず口元を緩めた。黒のペン一色で書かれていた文章の最後にだけ、赤いハートが加えられている。「可愛いことするじゃないか」。ふと、男は親指の付け根にある不自然なインクの擦れを見つけた。文章は手首から肘へ横書きされているのだから、そんなところへインクが付くわけもない。
男は手の甲を見る。そこに書かれた文章を読む。
「なお、Cタイプがこの文字を認識した時点で実験の成功を宣言」
甲高いブザーの音がして、腕を持ち上げるのに起動していたモーターが急に停止する。その事実に驚く前に、男は再び意識を失った。
【ワンライ】今週の1時間【短編集】 篠崎亜猫 @Abyo_Shinozaki
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