第3話
「久しぶりね、文ちゃん。」
一人で住むには広すぎるだろう二階建ての家に、おばあちゃんは住んでいる。おばあちゃんが生まれた時より前に建てられたらしいから、所々少し動いただけで不快な音を立てる。しかもここだけではなく、離れや倉庫もある。今日中にどれほど終わらせられるのだろうか。考えただけで頭がくらくらする。
今時なかなか目にしないちゃぶ台に、おばあちゃんが湯呑を置く。すっかり丸まり、小さくなった背中から目を逸らした。
「せっかくのお休みなのにごめんなさいね。春のうちに片づけておこうと思ったんだけど、一人じゃなかなか難しいものね。」
私が小さい頃は、おばあちゃんは家庭菜園を趣味としていた。野菜や果物を作って、よく私の家にも送ってくれた。その量はとても多く、母子二人では食べきれずに腐らせてしまったこともあった。
けれど、今、庭には好き放題に伸びた雑草しかなかった。
「今日は暑いから、意識的に休憩を入れるようにしましょう。ほら、早くお茶飲んで。」
穏やかで柔らかい物腰のおばあちゃんと、いつも生き急いでいるお母さんは似ていないと思う。私は強い、といつだって自分に言い聞かせていた。父が浮気して家を出て行った直後に、お母さんは私に笑いかけた。大丈夫よ、と。けれど、おばあちゃんは、おじいちゃんが亡くなった時、人目もはばからずに泣いたんだろうな、と容易に想像できる。
よく冷えたお茶を飲んでいると、どこからか猫の鳴き声が聞こえる。
「おばあちゃん。猫を飼ってるの?」
「いいえ。でも、数年前から庭によくいるようになってね。たまに餌をあげてるわ。真っ黒な猫よ。もし見かけても、追い払わないであげてね。」
「でも、それってあんまりよくないんじゃない?」
口を挟むと、おばあちゃんは分かりやすく口角を下げる。
「いいじゃない。もう長くないんだから、好きにさせて。」
ずるい、と思った。そんなことを言われると、なにも言えなくなる。そして、そのことを、おばあちゃんはきっとよく分かっている。だから、ずるい。
みゃお、と猫がどこかで鳴いた。
よっこらしょ、とおばあちゃんがその動作だけでも疲れると言いたげに立ち上がる。
「文ちゃんは倉庫の片づけをしてほしいの。片づけって言っても、全部捨ててくれて構わないわ。分別だけはしっかりね。最近、厳しくなったのよ。この日は燃えるゴミ、この日は燃えないゴミ、って。昔はそんなことなかったのにねえ。」
三枚ほど大きなビニール袋を受け取る。
「よろしくね。」
「うん。分かった。」
「ちゃんと休憩するのよ。」
小さな子どもに言い聞かせるような柔らかい声でおばあちゃんが言う。おばあちゃんの中で、私はまだ青臭い子どもなのだろうか。もう二十六歳になったけれど、おばあちゃんにとって私は永遠に五歳とか六歳の子どものままなのかもしれない。
開けたままの玄関から出て、倉庫へ向かう。倉庫は離れの奥にあって、母屋から倉庫の様子を見ることも、倉庫から母屋の様子を見ることもできない。こまめに戻らないと大変なことになるかもしれない。最悪な想像が頭によぎる。
そばに大きな桜の木が立っている。小さい頃はよくこの木に登った。咲き誇る桜がとても綺麗であることを覚えている。この木は家が建つ前からここにあったらしい。塀の高さも簡単に超えて、今は緑色の葉っぱを揺らしている。たまに車の音が塀の向こう側から聞こえるけれど、それ以外はなにも音がしない。本当に静かな場所だ。誰も彼もが足早に動く都会とは大違い。今日ほど日差しが強くない日に、落ち着きたい時に来るなら最高の場所だろう。けど、今日は太陽が自分の存在をいつもより主張している。駅を出る前にトイレで日焼け止めクリームを塗り直したけれど、大して意味を成さないかもしれない。まあ、もう、いいか。
ギギギと耳を塞ぎたくなるような音を立てながら、扉を開く。倉庫はまだ手付かずなのか、中は埃っぽくなっていた。積まれた大量の段ボールの傍にたくさんの物が乱雑に置かれている。ごほごほと咳を繰り返して、家から持参していた軍手をはめる。
倉庫には扉以外の空気の通り道がないため、熱気のこもった暑さを感じる。ずっといたら、倒れてしまうかもしれない。そうなったら、おばあちゃんは気付いてくれるだろうか。見に行きたくても、体力が追い付かなくて、来てくれないかもしれない。ああ、そうなったらどうしよう。杞憂で済むことを祈りながら、作業を開始する。
灯りがなにもないので、日が落ちる前に終わらせなければいけない。昼前の今だって、倉庫の奥へ進むと物が光を遮って、一瞬で闇に包みこまれてしまう。できるかぎり、急ごう。
とりあえず、物を光が届くところに移動させていく。もう何十年以上もここに眠っていたのであろう、埃を被った物がどんどん出てくる。ネズミや虫の死骸などもあって、鳥肌が立つ。軍手を持ってきて本当によかった。けれど、マスクを忘れたのは反省点だ。
大きなゴミ箱と化している倉庫から取り出したものを、次々にビニール袋に放り込んでいく。
一つの袋が満杯になった頃、喉が渇いたあまり、声が掠れていることに気が付いた。重たいビニール袋を片手に、母屋へ戻る。動物の死骸は燃えるゴミでいいのだろうか、なんて考えながら、縁側から居間に入る。台所は綺麗に整理されていて、足元にはキャットフードが置かれていた。
飼い猫じゃないのに、餌を与えるのは無責任じゃないかと思う。猫がここに来れば餌をもらえると知ってしまうと、野生動物としての本能を失ってしまうのではないだろうか。おばあちゃんがいなくなっても、猫はきっと生きなければいけない。けれど、おばあちゃんがいなくなったら、猫はここで餌をもらえなくなる。そうなった時、猫はまた狩りをできるのだろうか。
そんなことを言っても、今のおばあちゃんには通用しないだろう。なにも知らない私が、突然やって来て好き放題に口を挟むのも、きっと不快に感じるはずだ。
小さい頃は小難しいことなんて考えずに、色々と言っていた。けれど、今の私はもうそんなに幼くないし、子どもでもないのだ。口を噤むことの大切さも知っている。知りすぎて、一歩を踏み出せないまま後悔することも多くなったけれど。
「あら、文ちゃん。進み具合はどう?」
「おばあちゃん。こっちは結構捗ってるよ。段ボール箱も開けていいんだよね?」
隣に並んだおばあちゃんに湯呑に入れた麦茶を渡す。氷がぷかぷかと浮いて、なにも悩み事なんてないと言うように、茶色の海を泳いでいる。
「ええ、お願い。けれど、どれか一つに、たくさんの手紙が入った段ボール箱があるはずだから、それはこっちに運んでちょうだい。大切な手紙なのよ。その箱以外は全部、処理してくれて構わないから。」
「なんでそんなに大切なものをあんなところに置いたの?」
呆れ笑いが零れる。わざわざ倉庫に運ばなくたっていいじゃないか、と思った。
「おじいちゃんが恥ずかしがったのよ。それで、知らないうちに運ばれちゃってね。死ぬ前にようやく場所を教えてもらったの。結局、時間がないから、取りに行けなかったんだけど。」
「なにそれ。手紙はおじいちゃんからのラブレターかなにか?」
冗談で言ったつもりだったのに、おばあちゃんはかすかに頬を赤らめた。いつものおばあちゃんの表情ではなかった。恋をする可愛らしい女の子の雰囲気を纏っていた。
少しの気まずさと気恥ずかしさを感じながら、私も数時間前までこんな顔をして日々を過ごしていたんだろうな、と思う。甘い声が脳内で繰り返される前に、私は声を出す。
「分かった。ちゃんと探すね。」
「お願いね。」
おばあちゃんが羨ましくなった。一つの段ボール箱を埋めてしまうほどのラブレターをもらえるなんて、しかもたった一人の人から。ロマンを感じるそんなもの、私は誰からも一枚ももらったことがない。
私はおじいちゃんと会ったことがない。私が生まれる数年前に、おじいちゃんはこの世を去ってしまった。写真でしか見たことがないおじいちゃんは、とても堅そうな人だと思った。お母さんとよくぶつかって、喧嘩していたらしいけれど、それにも納得できる表情をしていた。想像することしかできない私の中のおじいちゃんは、少し怖い人。だけど、今、そのおじいちゃん像が覆されそうになっている。一人の女の人に手紙を送り続けるなんて、相当の愛がないと無理だろう。もう、狂気の沙汰とも思えるほどだ。
淡々とした作業が、突然宝探しになったように感じる。もし見つけたら、手紙を読んでしまおう。それぐらい、許されるはずだ。自分がおばあちゃんの立場になって、孫にそんなことをされた場合のことなんて考えない。
「じゃあ、行くね。おばあちゃんも頑張って。」
「こまめに休憩に戻ってきなさいね。」
鼻歌を唄いながら、スキップできそうな気分だ。人が恥ずかしがったり隠したがったりするものを覗き見する背徳感は麻薬と変わらないと思う。後ろめたいのに、止められないのだ。
薄暗い倉庫の中に入り、段ボール箱の封を一つずつ丁寧に切っていく。
五つほど開けたが、まだお宝は入っていない。その上、どの箱も見たことのないような古びたガラクタがたくさん入っている。分別にも迷うほどだ。
ぐるる、とお腹が盛大な音を立てる。そういえば、お昼ごはんを食べていない。ちゃんと記憶を辿ってみると、今日は朝ごはんもなかった。
駅のお土産コーナーの隣にあるコンビニで軽食を買う予定だったけれど、先輩と会ってしまい、逃げたことを思い出す。
ああ、本当に、いやだ。せめて告白ぐらいすればよかった。いや、でも、断られて気まずくなるぐらいなら、黙っておいたままでよかった。叶うなんてことは最初からありえなかった恋だ。一方的な好意を押し付けたって、優しい先輩を困らせるだけだ。
ああ、本当に。先輩の笑顔は脳裏にこびりついていて、まぶたを下ろすと、すぐに浮かび上がってしまう。
私も、おばあちゃんみたいに、誰かに愛されたい。
はあ、と今日一番大きなため息を吐き、心がどんどん沈んでいく。
忘れるな、と怒るように、お腹がまた鳴った。とりあえず、ごはんを食べないといけない。失恋しても、絶望しても、死にたくなっても、お腹は空くものなのだ。
視界の隅で風に吹かれて揺れる前髪を指でいじる。
とんでもない派手な色の髪にしてやろうか、と誰に向けたわけでもない虚勢を張りながら、母屋に戻る。蛍光色とか目が痛くなるような明るい金髪とか、面白いかもしれない。
居間にて座布団の上でくつろいでいたおばあちゃんに声をかける。そうめんでいい、と聞かれて、首を縦に振った。こんなに熱い日は、そうめんのようなシンプルで冷たいものが一番だ。床の上に虫が這っていたので、庭まで飛んでいくように手で払う。
やっぱり田舎だ。虫は多い。倉庫で大量の死骸が見つかるぐらいには虫だらけの世界だ。私が大の虫嫌いなら、今頃泡を吹きながら倒れているだろう。虫は好きでもないけれど、拒絶反応が出るほど嫌いなわけでもない。ただ、いない方がいいことは確かだ。だって、なんか、気持ち悪い。
そんなことを思っている間にも、部屋の中を何匹か虫が飛んでいる。田舎だから玄関も襖も開いたままになって、悪い人ではなく虫がたくさん入ってくる。それはいいことなのか、悪いことなのか。
けれど、必要以上の音が聞こえないような澄んだ空気は田舎特有のもので、嫌いではない。
目を閉じると、風鈴が軽やかな音を立てる。
そうこうしている間におばあちゃんがさっと用意してくれたそうめんを胃に流し込む。ずるずる、と麺を勢いよく吸い込む音だけが、ここにはある。都会なら、こうはいかない。垂れ流したテレビの声や、車やバイクの走行音、夜になれば酔っ払いの騒ぎ声が響く。
先輩に告白して、フラれて、こっちに引っ越すのもアリかもしれない、なんて落ち着いて考えることができるほどに、心は余裕を取り戻していた。
食器洗いを終えて、おばあちゃんは座布団を枕にして横になる。
食後はいつもこうして眠っているらしい。夜は眠たくても長くは眠れないから、昼の間に調整をしていると言っていた。そのせいで夜に眠れないのではないか、なんて野暮なことは言わない。
目を閉じたおばあちゃんを見て、お互い年を取ったな、なんて思う。こんなに身体が小さい人だと知らなかった。
まだ幼い頃、週末は毎週のようにここへ預けられていた。お絵描きをしたり、家庭菜園を手伝ったり、一緒にお昼寝をしたりもした。その頃はおばあちゃんのことを、ステキなオトナだと思っていた。今もその思いは変わらない。けれど、今日はとても脆い人に見えてしまう。
終活、という言葉がずっと引っかかっている。いなくならないで、なんて言ってもしょうがない。おばあちゃんも死んで、お母さんも死んで、私もいつかは死ぬ。年齢の順で人は死んでいく、なんて思っているけれど、それは確かなことではない。明日、私が車にはねられて死ぬかもしれない。お母さんが一時間にいなくなってしまうかもしれない。死ぬ時なんて、当人にも分からないのだ。そのことは分かっているのに、どうしてこんなにもお腹の奥底でなにかが渦巻いて、気持ち悪くなるのだろう。
ああ、大切な人だからだろうか。
おばあちゃんの口元に耳を近付ける。かすかな吐息が聞こえて、安心する。
作業を再開しよう。まだお宝を見つけていない。
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