第2話
「板倉さん?」
どこにいても、なにをしていても、その声だけは耳が拾ってしまう。聞こえなくても、無意識のうちに探してしまう。
今日だって人混みの中で、その声を聞いてしまった。振り返らずにはいられなかった。自分が今、どんな格好をしているのかも忘れていた。
だって、仕方がない。彼が発する私の名前は、とても特別なものであるように思えるのだ。
「細田先輩。」
咄嗟に振り返って、一瞬の間も置かずに自分の行動を後悔する。私は今、どんな格好をしていたっけ。
「やっぱり、板倉さんだ。こんにちは。」
「こんにちは。」
すっぴん同然の顔面と、特徴のなさすぎる服装。今の私は先輩が望む女性像とはかけ離れている。
先輩のまっすぐな目を見れずに、逸らしてしまう。
「すいません、休日なのに声かけちゃって。板倉さんだ、って思ったので。」
「そう、ですか。」
嬉しいです、とここで素直に言えたら、先輩は私の気持ちに気が付いてくれるだろうか。
教育係として、半人前にもなれなかった私の傍にずっとついてくれていた先輩。気付いた頃には恋をしていた。それから、なんとなくそっけない態度を取ってしまったから、先輩も距離を取った対応をするようになった。人生最高の後悔だ。
「どこか行くんですか?」
駅のお土産コーナーは騒がしい。子どものはしゃぐ声が響き渡る。相手に自分の声を届けようと、みんながみんな、声を張り上げる。そんな中でも、先輩の声は私にまっすぐ届く。
「祖母に会いに行くんです。・・・・・・先輩は?」
「僕は、帰省です。実家は岡山にあるんですけど、長旅になるから、ここでおいしいものでも買おうと思って。」
笑うとできる先輩のえくぼが私は大好きだ。先輩は三十歳だと思えないほど、ほんわかとした雰囲気を纏っている。近くにいると心を落ち着けることができる人で、けれど、仕事はしっかりとこなす。そこの切り替えが格好よくて惹かれている。
「先輩、岡山出身なんですか?知らなかったです。」
「ええ。きびだんご、お土産に渡しますね。」
「ありがとうございます!」
自分がいつもと全く違う装いをしていることをすっかり忘れて、声が弾む。家を出る前との沈んだ気分とは大違いだ。おばあちゃんにもお母さんにも感謝したその瞬間、甘い声が先輩と私の間に割り込んだ。
「陸人くん、お待たせ。」
ひらひらと動くたびに舞う花柄のワンピースがよく似合う、女性だ。ピンク色の唇がぷるんと潤っている。小柄だけれど豊満な身体で先輩の腕に絡みつく。
「この人、だーれ?」
その声は変わらず甘かったけれど、棘を含んでいた。私を見る目が笑っていなかった。
後ずさりしたくなる。
先輩が女性を愛おしそうな目で見ている。腕に抱きつく彼女を振り払おうとはしない。私の存在を一瞬忘れていたらしい。
恥ずかしさが全身を駆け巡って、熱が溜まっていく。
「奈子さん。こちら、僕の後輩の板倉さん。板倉さん。こちら、僕の恋人の奈子さんです。」
「こんにちは。陸人くんがいつもお世話になってます。」
恋人。こいびと。脳が受け入れることを拒むその言葉を反芻する。
数秒して、泣きたくなった。失恋した。先輩は先ほど実家に帰ると言っていた。ナコさんは先輩のご家族に会いに行くのだろう。私はさっき先輩が岡山出身であることを知ったばかりなのに。この恋は始まる前から終わっていたのだ。
二人の甘い雰囲気に、逃げ出したくなる。出そうとする言葉が喉に引っかかる。
私、なにを勘違いしていたのだろう。先輩の好みに合わせれば、先輩の特別になれると思っていた。けれど、先輩が酔った時にしか漏らさない理想の女性像は、ナコさんにピッタリと当てはまっていた。
私とナコさんじゃ、勝敗は始まる前から分かっている。二人が並べば、みんな迷わずナコさんを選ぶだろう。恥ずかしい。なによりも、恥ずかしい。
「細田先輩、私、電車の時間がそろそろですので。失礼します。」
嘘を吐いた。細田先輩、と言ってから、また恥ずかしくなる。私は先輩の名前を呼んだことがない。けれど、ナコさんは当たり前のように、先輩を陸人と呼んで、先輩は当たり前のように、ナコさんと呼んだ。恋人にも敬称をつける先輩が好きだ。そう思って、また苦しくなる。
「そうですか。では、また会社で。」
先輩は最後まで私の気持ちを知ることはなかった。心の海の深いところに、この気持ちは沈めなければいけない。誰にも知られてはいけない。知られてしまったら、きっと恥ずかしさで溺れてしまう。
電車は二十分後に来る。おばあちゃんの家は県境を越えないところにある。けれど、こことは雰囲気がかなり違うことに変わりない。だから、お土産を渡そうと思ったけれど、先輩と会ってしまった。普段の私がどれほど飾っているか、知られてしまった。そのこともとても恥ずかしい。
人が行き交うホームで、泣きたくなる。悲しさよりも恥ずかしさが勝る。こんな恋の終わりは初めてだ。
家に帰りたい。一時間も経たないうちに、気持ちがころころと変わる。
薄いピンク色に彩られた爪が目に入る。剥いでしまいたくなった。全部、取り除きたくなった。クローゼットの中身も、化粧ポーチの中身も、全部捨てたくなる。髪の毛も、上司に怒られない程度に、明るい茶色にしてしまうおうか。
視界がじわじわと歪んでいく。涙が頬を伝うことがないように、一生懸命手の甲をつねった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます