猫が鳴く
青井優空
第1話
カーテンの隙間から差し込む真っすぐな光に心底うんざりする。
ピピピと永遠に鬱陶しい音をかき鳴らすスマホを手に取って、ストップボタンを押す。
午前八時。せっかくの休日に、なんでこんなに早く起きなきゃいけないんだとため息を吐く。いつもなら、午前中は睡眠時間に費やしているのに。そうでもしなきゃ、平日の疲れは一ミリも拭えない。
それでも、憧れの人とのデートがあるなら、休日だったとしても何時にでも起きられる。けれど、今日は心弾む予定なんて一つも入っていない。
もう一度ため息を吐いて、ベッドから起き上がる。顔を洗い、パジャマを洗濯機に放り込んで、下着のまま部屋の中を歩き回る。こんなところ、誰かに見られたら恥ずかしさで死んでしまう。けれど、今はなによりも暑さが勝つ。
夏は大嫌いだ。太陽はいつにも増して輝いて、虫が飛び交い、誰かのうるさい声がより聞こえやすくなる。たまったもんじゃない。
首筋に汗が伝う。胸元まで伸びたこの髪を切ってしまいたい。毛先を指に絡めてから、その気持ちを押さえる。だって、憧れの人はロングの女性がタイプだって言っていた。髪色は黒か茶色がいいな、とも。だから、私は黒髪を貫いている。明るい色が似合うと思いますよ、っていつもの美容師さんは言ってくれているけれど、黒髪のままでいる。なのに、憧れの人は振り向いてくれない。
全身に日焼け止めクリームを塗る。一寸の隙も許せないので、入念に塗り込む。今日は日差しを遮るものが全くないところに行かなければいけない。ずっと、太陽の下に晒されるのだ。私の唯一の取り柄とも言える、白い肌を失ってしまうかもしれない。憧れの人も色白の女性がいいと言っていた。だから、私の肌が少しでも茶色になってしまったら。そんなの、考えるだけでも号泣できてしまうほどに嫌だ。だから、絶対に焼かない。このままの肌で家に帰ってくるのが今日の目標だ。
前を向いてみても、憂鬱な気分は変わらない。行きたくない。行きたくない。このまま、ベッドにダイブしたい。日焼け止めクリームが勿体ない、と思うだけで、普段通りの休日を過ごせるはずだ。顔を洗ってスッキリしたけれど、なんだか睡魔も再登場しそうな気がする。
仮病を使おうか。夏風邪を引いた、冷房でお腹を冷やした。心配をかけてしまうようなことじゃなくてもいい。仕事を言い訳にすれば、私は今すぐに眠りにつける。
けれど、の三文字が浮かんで、身体が重くなる。
おばあちゃんが終活を始めるみたいで、片付けを手伝ってほしいんだって。あんた、暇でしょ。
先週の休日終わりに届いたメッセージを思い出す。
終活。二十代の私には聞き慣れない言葉が目に留まった。私は終活を始めるどころか、数年前に就活を終えたばかりなのだ。
けれど、私と五十歳は離れているおばあちゃんにとっては決して他人事ではない。そのことが私の心に重い塊を落とす。
そんなことを言われて、どんな顔をしておばあちゃんに会えばいいのだろうか。
おじいちゃんを私が生まれるよりも前に亡くしてから、ずっと一人で暮らしてきたおばあちゃん。終活だと分かっていて、なんでもない顔をして手伝えば、おばあちゃんがいなくなっても構わないと言っているみたいだ。
そんな捻くれた考えをするのは私だけ。自分に言い聞かせて、クローゼットからジーンズとシャツを取り出す。
クローゼットの中には可愛らしいワンピースやフリルのついたシャツ、ふんわりと広がるスカートがたくさんある。全部、憧れの人の好きなタイプに影響されて買った。私と彼は、職場以外で会ったことがないのに、私服まで彼の理想に合わせている。ここまで一途なのは、きっと私ぐらいだ。だから、ちょっとぐらい振り向いてくれたっていいじゃないか。
久しぶりにジーンズを履いて、何の装飾もない白シャツを着る。気持ちが入らないまま、メイクをして髪を一つに束ねる。それから、ブランドロゴがつけられただけの、何の特徴もないキャップを深く被った。
昨日の夜のうちに、寝ぼけ眼で必要なものは鞄に詰め込んだ。優秀な私を褒めてあげたい。
息を吐き出して、スニーカーを履き、家から出る。
鍵を閉めてから、やっぱり開けたくなる。行きたくないのだ。
肌が焼けるとか、帰省の時期に電車に乗りたくない、とかそういうのは建前でしかない。おばあちゃんに会うのが気まずいのだ。最後に会ったのは、大学を卒業した時。それからもう四年が経った。いつも間にいるお母さんも今日はいない。
小さい頃はおばあちゃんと二人で過ごしていても何の苦もなかった。家事だってお母さんよりおばあちゃんによく教えてもらったぐらいだ。けれど、思春期に入って、私はおばあちゃんの家に寄らなくなった。預けられる年齢でもないし、気恥ずかしさを覚える頃だった。だから、二人きりで会ったことはもう十年以上ない。そして、今日会う理由が、おばあちゃんの終活を手伝うため。おばあちゃんの喉に死神の指先が見えてしまうかもしれない。
怖い。そう、怖いのだ。私はまだ身近な人を亡くしたことがない。誰かともう二度と会えなくなる悲しみも恐怖も孤独も知らない。だから、おばあちゃんがいなくなってしまうかもしれないと考えると、とても怖い。
荒くなる心の波を、呼吸を繰り返すことでなんとか落ち着ける。
大丈夫。おばあちゃんが今日いなくなるわけじゃない。もし、二度と会えなくなると思っているなら、これからはたくさん通えばいい。それだけの話だ。
大丈夫、と声に出す。自分によく言い聞かせるためだった。
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