第4話

ゴリゴリと音を立てながら肩を回した後、段ボール箱を開封した時だった。みゃお、と奥から鳴き声が聞こえた。

 もしかすると、猫が入ってしまったのだろうか。扉は開けっ放しにしていた。おばあちゃんのことを不用心だと思ったくせに、私も大して変わりないじゃないか。

 みゃお、としつこく猫が鳴き続ける。うるさいな、とうんざりしていると、物陰がこちらへ近付いてくる。

 外からの光で見えたのは、真っ黒な猫だった。右頬に一本の傷がある。金色の目を光らせて、みゃお、と私に呼びかける。首輪はついていないから、本当に野良猫らしい。きっとこの子が、おばあちゃんが言っていた猫だろう。魔女の使い魔みたい、と思った。魔法でも使って、先輩を私のものにしてください、なんて馬鹿げたことを考える。魔法が使えるのは猫じゃなくて、魔女の方なのに。

 猫は私の足元にすり寄ってくる。追い払うのも面倒に感じたので、そのままにして作業を再開する。分からないところで鳴き続けられるより、見えるところにいてくれる方が楽だ。

 埃を被った段ボール箱の中には、たくさんの茶封筒が入っていた。どれも古いものらしく、黄ばんでざらついている。それから、どの封筒にも桜の花びらの絵が描かれていた。奥に行けばいくほど、古いものになるのか、絵の上達具合がよく分かる。

 もしかして、と目を大きく開いた時、猫が鳴いた。狼の遠吠えみたいに長く大きな声で鳴いた。そんな力が小さな身体のどこから湧いてくるのだろうと思う。

 十秒ほど続いた雄叫びのような鳴き声に満足したのか、猫は倉庫から出て行く。その姿を目で追っていると、開いた扉から、桜の花びらが舞い込んできた。

 眉間に皺が寄る。

 八月の今に、どうして桜の花びらが。立ち上がって、扉に近付くと、誰かの話し声が聞こえてきた。知らないはずなのに、どこか懐かしさを感じる声だ。

 堂々と出て行けばいいのに、なぜか私はそっと息を殺して外の世界を覗き見る。

 息を呑んだ。すぐそこにある大きな桜の木がピンク色の可憐な花を咲かせていたのだ。そして、その木のもとに、一人の女性がいた。着物姿で艶のある黒髪に花びらが絡んでいた。女性の視線を追うと、一人の男性が塀から身を乗り出して、二人見つめ合っている。とても愛おしそうな目で、惹かれ合うように。その様子に細田先輩とナコさんの姿が重なる。見ているこちらが恥ずかしくなるほどに、相手を想う目で見つめ合う二人から目を逸らしたいのに、なぜか私は囚われたまま動けなかった。

「志津子さん、僕は貴女を愛しております。この想い、叶えたいわけではありません。けれど、伝えずにはいられないのです。貴女に許婚がいること、もちろん分かっております。ですが!それでも、貴女に伝えたかった!」

 泣きそうな声と表情で叫ぶ男性の右頬に、一本の傷があった。それから、男性が呼んだ志津子さん、という女性の名。

 傷にも見覚えがあるし、名前も聞き覚えがある。

 二人は、私の祖父母だ。写真の中の祖父の右頬には直線の傷があった。そして、志津子というのは、祖母の名前だ。

 どうして、と思う。この状況が全く理解できなかった。桜が舞う中にいる二人は今の私よりも少し若いように見える。どうして、私は今ここにいるのだろう。頭の中が混乱状態に陥り、まともな思考ができなくなっている。

 けれど、二人は私の祖父母であるということだけはしっかりと理解していた。私は祖父に会ったことがないのに、二人が並んだ若い頃の写真を見たことがあるわけでもないのに。

「誠一郎さん。私も貴方をずっとお慕いしております。できることなら、一生を貴方と添い遂げたいのです。私、必ず父と母を説得してみせます。約束します。誠一郎さんから頂いたお手紙も見せてよろしいですか?より私達が想い合っていることを伝えられるかと思うのです。」

 女性の声が震えていた。恐怖からの震えではない。言葉には乗せきれない、けれど溢れ出てしまう思いが全て声になって発されているようだった。

「もちろんです。貴女一人に負担を押し付けてしまうこと、申し訳なく思います。ご両親が納得できるほどの、もっと立派な男になって、必ず貴女を迎えに行きます。だから、どうか、それまで僕を想っていてください。志津子さん、僕は貴方を心より愛しております。」

 二人がとても幸せそうに笑う。あまりの幸せぶりに、女性は笑顔を保ったまま涙を零している。

 おばあちゃんはね、本当はおじいちゃんと結婚する予定ではなかったのよ。けれど、おじいちゃんが迎えに来てくれたの。あの時の喜びは、もう一生忘れられないわ。

 いつかのおばあちゃんの声が脳内で再生される。あれはたしか、おじいちゃんの十年忌だったと思う。写真の中で仏頂面をしているおじいちゃんに、おばあちゃんは笑いかけていた。

 足元に温もりを感じて、離せなかった視線をようやく動かす。真っ黒な猫が顔を私の足にこすりつけていた。

 抱き上げて、その猫にもある右頬の傷をなぞる。

「もしかして、君はおじいちゃんなの?」

 猫は肯定とも否定ともとれる鳴き声を漏らす。自分達だけが入ることを許された世界にいる二人には聞こえなかったようだ。

「ねえ、おばあちゃんのこと、見守ってくれてるの?」

 猫はしっぽを揺らす。

「ありがとう。」

 もう一度傷跡を指で辿ると、猫は鳴いた。大きな優しさを含んだような声で。

 まばたきを繰り返す。もう一度、外を見てみると、大木は緑色の葉をつけていた。二人の姿もどこにもない。

 あまりの暑さにやられて、白昼夢でも見ていたのかもしれない。不思議な夢を見たみたいだ。それでも、二人の表情や声は本当の想いが乗せられたもののように思える。あれが現実だといいけれど、やっぱり不思議なことには変わりない。

 猫が鳴く。もう自分の役目は終わったと言わんばかりに、腕からすり抜けて、今度こそどこかへ行ってしまう。

 まだ切り替えられない頭のまま、再び段ボール箱の前に座る。

 どの茶封筒にも桜の花びらが描かれている。いくつか取り出して、慎重に中身を取り出す。

 連ねられた言葉はどれも尊い思いに満ち溢れていた。

 愛しております、と率直な言葉はどの手紙にも綴られている。

 貴女に許婚がいることは分かっております。ですが、この想いを止めることはできません。心優しい貴女に一方的な感情を身勝手に押し付けること、お許しください。

 そう書かれた手紙には、ところどころの文字が滲んでいる。

 おじいちゃんはどんな思いでこの手紙を書いたのだろう。おばあちゃんはどんな思いでこの手紙を読んだのだろう。

 許婚がいる人に想いをぶつけること、どれほどの勇気と覚悟が要っただろうか。

 二人は結ばれたけれど、なにかが違えば、そんな幸せな未来はなかった。お母さんが生まれることもなく、私が今ここにいることもない道だってあったはずだ。

 それでも二人は、連れ添うことを選んだ。親を説得して、許婚にも頭を下げないといけなかったかもしれない。憂いごとは数えきれないほどにあっただろう。それでも、二人はあんなにも幸せそうな表情でお互いを見つめ合っていた。

 写真でしか見たことのないおじいちゃんと言葉を交わせなかったこと、今になって後悔する。

 手紙を元あった茶封筒に丁寧に戻す。封筒を段ボール箱の中に入れた。それから、前を向いた。

 先輩に告白しよう。一方的な想いで、叶うことは決してないけれど。それでも、伝えよう。

 どこか遠くから、あの猫の鳴き声が聞こえた。

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猫が鳴く 青井優空 @___aoisora

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