夜明けの牙 ~はぐれ狼アシェンの物語~
浅間遊歩
夜明けの牙
徐々に明るくなる森の中、オオカミのアシェンは岩陰に身を潜めていた。
2歳になる彼は、ほぼ成獣だ。夜目の利くオオカミにとって、夜は狩りの時間。しかし、一晩中獲物を追い続けたものの、何も仕留められずに朝を迎えてしまった。周辺には、すでに朝の気配が漂い始めている。
岩陰に伏せたまま、アシェンはわずかに鼻をひくつかせた。風が湿った苔の香りとともに、遠くの獲物の匂いを運んでくる。シカだ。この匂いは間違いない。ほら、向こうの茂みが揺れている。しかし、単独では手に余る獲物だ。大きすぎる。狙うなら子鹿か、老いた個体。せめて手負いなら……けれども、血の匂いはしない。行くべきか、それとも見逃すか。だが、もう何日も肉を口にしていない……
「いつまで考えてるんだ?」
突然、頭上から声が降ってきた。アシェンは耳をぴくりと動かし、視線を持ち上げる。木の枝にしがみついているのは、老いぼれカラスのモルドだった。
「お前は本当に優柔不断だな、腹ぺこオオカミよ。素早く決断しろ。動け!」
モルドはくちばしをカチカチと鳴らして、不敵に笑う。
「黙れ。……ずっと見ていたのか?」
「あまりにも狩りが下手糞すぎて、面白かったんでね」
モルドが翼を広げ、しわがれ声でカァと鳴く。そして冷たい声で告げた。
「群れを離れたオオカミの未来なんて、そう長くはない」
その言葉に、アシェンは顔をゆがめた。
彼が群れを離れたのは、第一位のオス・ファンゴルとの争いに敗れたからだ。掟に従うことが嫌だったわけではない。だが、シスルを奪われるのは嫌だった。
シスルはアシェンと同じ春に生まれた若いメスで、お互いに憎からず思っていたはずだった。だが、ケンカに負けたアシェンが顔を上げると、シスルはうっとりとファンゴルを見つめていたのだ。
その日のうちに、アシェンは群れを離れた。
ファンゴルに従って生きるのが嫌なら、自分のやり方で生き抜かねば。そう決心して旅立ったものの、仲間たちとならうまくいった狩りも、ひとりでは失敗続き。なので、チャンスさえあれば日中でも狩りをしていた。それを空から見られてたなんて……。一体いつから?
アシェンはモルドから目をそらし、低い声で答えた。
「未来なんてものは、自分で決める」
「ほう、いいセリフだな、小僧。でも、それを言うなら、まずは自分の腹を満たせ」
モルドは笑い、鋭い目をアシェンに向けながら首を傾けた。鳥の視界では正面を両目で見られないせいだ。
アシェンはイライラしながら口角を上げ、わずかに牙を見せる。
「あっちへ行け。お前こそエサでも探しに行けよ」
「なあに、もうすぐ弱ったオオカミの肉が手に入るさ」
「…………くそ」
悔しいが言い返せない。すでに、胃がヒリ付くほどに腹が減っている。しかし、しゃべるのも体力の無駄だと判断し、むかつきながらも口を閉じる。
獲物。
ちゃんとした獲物を狩らなくては。動けなくなる前に。
小さな虫と雑草と泥水だけでは、オオカミは生きてゆけない。
アシェンは意を決して立ち上がり、静かに進んだ。前方の茂みをかいくぐる。
その先にいたのは、一頭のシカ。しかし、彼が期待していた子鹿ではなかった。自分よりも大きなシカに、たったひとりで戦いを挑むのは、非常に危険だと分かっている。しかし野ウサギやリス、たくさんいる野ネズミでさえも、森の中で捕まえるのは困難だった。奴らは小さすぎて、小回りが利き、追いかけてもすぐにどこかへ雲隠れしてしまう。ならば、シカだ。やはりアイツを狩るしかない。
アシェンは、じわりと地を這うように前進した。草を踏む音すら最小限に抑え、慎重に距離を詰める。あと数歩――そう思った瞬間、シカが耳をピクリと動かし、警戒の様子を見せた。
(気づかれたか?)
だが、違った。シカは突然、横っ飛びに跳ね、走り出した。
(なんだ?)
木の陰から、別の何かが現れた。それは、一頭の若いメスオオカミだった。どうやら彼女もひとりで狩りをしているようだ。周りに他のオオカミの姿はない。
彼女は素早く回り込み、シカの進路を塞いだ。シカは驚き、あわてて進路を変える――だが、その行き先にはすでにアシェンが待ち構えていた。
(今だ!)
アシェンは茂みから飛び出し、シカの脇腹に食らいつく。皮膚が柔らかく、角の突きや後ろ蹴りを食らわないベストな位置だ。シカが悲鳴を上げて身をよじる。
ゴクリ。
温かい液体がノドを流れ落ちる。
ゴクリ、ゴクリ。うまい。力が湧いてくる。
再度、力強く噛み締めようとした瞬間、
ガンッ!!
シカが身体をねじって振り回した前足の蹄が側頭部を直撃する。
「…………ッ!」
一瞬のめまい。食い込んだ牙が外れそうになる。その時、
「ガアッ!」
反対側からメスオオカミがシカの喉元に噛みついた。暴れるシカ。
アシェルは気を取り直して足を踏ん張り、メスオオカミはくわえた首ごとシカの頭を地面に打ち付ける。二頭のオオカミは、首を振り、噛みつき、叩き、食い破った。
ふたつの力が合わさり、シカはついに崩れるように倒れ込んだ。
静寂。
朝日が昇り切った森に、オオカミの荒い息遣いだけが響く。
「わたしが、先に、見つけた」
メスオオカミが息を切らしながら言う。見知らぬオオカミだ。アシェンの生まれ育った群れにはいなかった。
年は近いだろう。幼くはないが、若々しい体つき。アシェンよりも白っぽい毛並みの鼻筋には、治りかけの傷がある。ケンカ傷だろうか?
群れの序列をめぐる争いは、オスだけのものではない。時には、メス同士の方が激しくなることさえある。オスをめぐる争いに敗れたか、それとも気に入らないオスの求婚を拒み、群れを離れたのか――。
彼女の挑むような視線を正面から受け止め、アシェンは答えた。
「おれが、先にかみついた。」
ひと呼吸おき、続ける。
「そして、ふたりで仕留めた。」
アシェンはメスオオカミを追い払うことなく、そのまま足元のシカに食らいついた。肉を引き裂きながら、彼女に向かって言う。
「一緒に食おう」
メスオオカミの緊張が解け、ほっとした表情になる。
アシェンの様子をうかがいながら、彼女はおそるおそる肉塊に牙を立てた。そして次の瞬間、抑えきれない空腹に駆られるように、夢中でむさぼり始める。
食事――あらゆる生き物の幸福の時間帯。
オオカミ達は、無言で食らい続ける。命が命をつなげてゆく。シカは、飢え切った二頭のオオカミの腹を満たすに十分な大きさだった。
久しぶりに腹が膨れたアシェンは脚を投げ出し、草むらに横たわった。
隣に目を向けると、メスオオカミは最後の一口を飲み込むところだった。口の周りにはまだ赤い血が付いており、舌でぺろりと舐め取っている。
「いい狩りだったよな?」
声を掛けると、メスオオカミは笑顔を見せてくれた。
「そうだね」
狩りに熱中する鋭い目つきの彼女は見とれるほど美しかったが、こうして笑う彼女もいい。
アシェンはメスオオカミの隣に座り直し、さりげなく匂いを嗅いだ。
「次も、一緒に狩る?」
「そうね」
彼女は一瞬だけ目を細め、それから少し間を置いて答えた。
「次も、きっとうまくいくよ」
そう言ってアシェンの匂いを嗅ぎ、尻尾をふわりと揺らした。
「おれはアシェン」
「わたしはエイラ」
ふたりは見つめあい、しばしの沈黙を楽しんだ。
二頭のはぐれオオカミは、一つの群れになった。これから長い時間を共に過ごすのだ。
「クアア。結構。こりゃ結構。なんともまぁ、お似合いじゃないか! 」
老いぼれカラスのモルドは、いつの間にくすねたのか、爪でつかんだ肉片をついばみながら笑っている。
森の奥では鳥の鳴き声が聞こえ、朝の風が木々を揺らしていた。
夜明けの牙 ~はぐれ狼アシェンの物語~ 浅間遊歩 @asama-U4
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