第3話『過去からの呼び声』



診療記録 No.2024-091

患者:園原 雪絵(48歳・専業主婦)

症状:美容整形後の慢性的な痛み、霊的残余、怨念性皮膚異常


霧子は薄暗い医局で、古びた診療記録を見つめていた。黄ばんだページをめくる手が、かすかに震えている。


「母の最後の患者...園原雪絵」


十年前の事件を記した医療記録。最期の診察時間は深夜零時。その夜、霊能者である母・御船千鶴は患者の怨念に取り憑かれ、そして壮絶な最期を遂げた。記録には「術後経過:経過観察必要、霊的反応:要注意」と母の走り書きが残されていた。その文字が、今でも生々しく紙面に刻まれている。


窓の外では冷たい雨が降り始めていた。雨粒が窓ガラスを伝う様子が、まるで誰かの涙のように見える。


「御船先生、園原さんが来院されました」


佐伯の声に、霧子は記録から目を上げた。診察室のドアの向こうに、白衣の少女が一瞬、不安げな表情で佇んでいるのが見えた。少女の姿は雨に濡れた窓ガラスの向こうで、かすかに揺らめいている。


「...わかりました」


霧子が立ち上がった瞬間、医局の蛍光灯が一瞬、不気味に明滅した。



「こんにちは、園原さん」


中年の女性が診察室に入ってくる。整った顔立ちだが、どこか生気が失われているように見えた。頬の皮膚は不自然なほど引き締まり、首筋には無数の手術痕が走っている。その一つ一つが、まるで縫い目のように浮き上がっていた。


「御船先生...あなたは」


園原は霧子の顔を見て、一瞬たじろぐ。その瞬間、診察室の観葉植物の葉が不自然に震え始めた。


「ええ、十年前の御船千鶴の娘です」


霧子の言葉に、園原の表情が強ばる。診察室の温度が急激に下がり、窓の外を流れる雨が、一瞬静止したかのように見えた。


「あの夜の...ですか」


園原の声が、別の声と重なって響く。少女のような声と、老婆のような声が、歪な和音を奏でていた。


「園原さん、症状を詳しく伺わせてください」


霧子は冷静を装いながら、診察記録に目を落とす。しかし、ペンで書こうとした文字が、まるで血のように紙面に滲んでいく。


「手術跡が...ずっと痛むんです。でも、それは傷の痛みではなく...」


園原が言葉を探している間に、診察室の影が不自然に揺らめき始めた。壁に掛かった鏡の表面が曇り、そこに何かが浮かび上がろうとしている。歪んだ人影が、鏡の中で蠢いていた。


「まるで、誰かの指が傷跡を辿っているような...冷たい指が、私の中を...這い回るような...」


その瞬間、園原の顔から血の気が引いた。首筋の手術痕が醜く隆起し、そこから黒い糸が溢れ出す。その糸は意思を持ったように蠢き、床を這い、壁を登っていく。霧子は咄嗟に立ち上がった。


「佐伯さん!」


叫び声と同時に、園原の体が大きく痙攣する。医療器具が散乱し、カルテが宙を舞う。その紙片の一枚一枚に、十年前の手術記録が血文字のように浮かび上がっていく。「美容整形」「皮膚切開」「脂肪吸引」...医療用語が、怨念のように紙面を埋め尽くしていく。


「先生...私は、ただ美しくなりたかっただけ...若さを取り戻したかっただけなのに...」


園原の声が、徐々に少女のような声に変わっていく。その声には、どこか懐かしさが混じっていた。診察室の隅に佇む白衣の少女が、悲しげな表情でその様子を見つめている。少女の姿が、蛍光灯の明滅と共にちらついていた。


「母さん...そうだったの?」


霧子の問いかけに、白衣の少女が小さく頷く。その仕草は、母のものと瓜二つだった。



「この患者、霊安処置室へ」


和装に着替えた霧子は、意識を失った園原を見下ろしていた。首筋の手術痕は醜く隆起し、まるで別の生き物のように蠢いている。その下には、十年分の怨念が渦巻いているのが見えた。


霊安処置室の壁には、無数の御札が貼られている。それぞれが淡く光を放ち、邪気を押し留めようとしていた。雨音が、遠くで鳴る太鼓のように響いていた。


「園原さんは、母の最後の患者だった。そして、母を死に追いやった『美の檻』の最初の犠牲者でもある」


佐伯が息を呑む。彼女の背後で、医療機器のモニターが不規則な波形を描き始めた。


「十年前、母は園原さんの美への執着が生んだ怨念に取り憑かれた。その怨念は、美を求めるあまりに歪んでしまった魂が作り出した檻...。そして...」


霧子の言葉が途切れた瞬間、園原の体から異様な音が響いた。乾いた布が引き裂かれるような音。それは園原の皮膚が内側から引き裂かれる音だった。


首筋の手術痕が醜く隆起し、その縫い目が一本、また一本と弾けるように開いていく。血の気を失った白い皮膚の下から、漆黒の何かが這い出してきた。


「ぎ...あぁぁぁッ!」


園原の喉から絞り出される悲鳴。開いた手術痕から溢れ出す怨念は、腐敗した肉のような甘ったるい臭いを放ちながら、てらてらと光る黒い粘液となって部屋中を埋め尽くしていく。


粘液の表面には無数の顔が浮かび上がっては消えていた。歪んだ微笑を浮かべる女性の顔。皮膚が溶けたような顔。縫い目だらけの顔。それらは全て、かつて美を求めすぎた女性たちの面影だった。


「させない...!」


霧子は咄嗟に札を投げつけるが、黒い粘液は霊符を溶かし、その中から無数の手が伸びてきた。皮膚が剥がれ、筋肉が露出した手が、霧子に向かって貪るように伸びてくる。


天井の蛍光灯が次々と破裂し、火花が散る。暗闇の中で、怨念の塊がより濃い漆黒となって蠢いていた。


「先生!」


佐伯の悲鳴。黒い糸が彼女の足首に絡みつこうとした瞬間、眩い白い光が走った。


白衣の少女が、霊安処置室の中央に立っていた。彼女の周りだけ、時間が止まったかのように静かだった。


「まさか...あなたが」


霧子の声が震える。記憶の中の母の最期の言葉が、今になって意味を持ち始めていた。


少女は静かに頷き、両手を広げる。その仕草は、かつての母のものとそっくりだった。十年前の悲劇の夜、母が最後に見せた仕草。


「母の...最後の患者」


霧子の呟きに、少女は悲しげな笑みを浮かべた。彼女の体が淡く光り始め、その光は瞬く間に部屋中を包み込んでいく。まるで、月光を閉じ込めたような、優しい光だった。


黒い糸が萎えるように消えていき、園原の体から噴き出していた怨念が静まっていく。手術痕は元の傷跡となり、歪んでいた空間が元に戻っていく。部屋の隅に積み重ねられた医療器具が、かすかに震えながら元の位置に戻っていった。


白衣の少女の姿が、光の中で徐々に薄れていく。最後に残った微笑みは、まるで母のようだった。少女の姿が消えると同時に、雨が上がった。


「これが...母の最期の真相」


霧子は呟いた。母は園原の治療の最中、『美の檻』という怪異に取り憑かれた。しかし、その犠牲となったのは母だけではなかった。母が治療していた少女も、怨念に飲み込まれていたのだ。


「でも、どうして少女は...」


「母を責めることなく、ここに留まり続けた。そして今、私たちを守ってくれた」


佐伯が静かに言った。彼女の声には、深い敬意が込められていた。


霧子は、母が最期に見ていた光景を、ようやく理解した気がした。母は怨念に飲み込まれながらも、最後まで患者を救おうとしていたのだ。その想いは、白衣の少女の姿となって、今もこの病院に残り続けている。


診察室の隅に、一枚の古い写真が落ちていた。雨に濡れたような跡がついているその写真には、母と一緒に写る白衣の少女の笑顔が、かすかに残っていた。写真の端には、母の字で日付が記されている。


十年前の、あの運命の日付だった。


(終)


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