第4話『美醜の境界線』
診療記録 No.2024-133
患者:水無月 詩織(27歳・モデル)
症状:整形依存、顔貌崩壊、怨霊性顔面変異
特記事項:要緊急対応
録音記録より(深夜2:13)
霧子の診察室に、真夜中の闇が満ちていた。窓の外では冷たい雨が降り続け、その雨音が録音の背景ノイズと不気味に混ざり合う。机上の古びたボイスレコーダーから、おぞましい真実が流れ出してくる。
「私の顔が...私の顔が消えていく...」
水無月詩織の取り乱した声に、霧子は身震いを覚えた。すでに10回目の再生。しかし聞くたびに、その声は少しずつ変化しているような気がする。まるで、録音の中の詩織もまた、刻一刻と違う人間に変わっていくかのように。
「これは...」
霧子は暗闇の中で、母から受け継いだ霊感の高まりを感じていた。診察室の影が、わずかに蠢いている。
「誰かが...私の顔を...削り取っていく...お母様、やめて...やめてください...」
ノイズ混じりの録音の向こうで、皮膚を引き剥がすような音が聞こえる。そして、もう一つの声。
「もっと美しく...私の可愛い詩織をもっと美しく...」
母親の声だった。
*
「水無月さんの症例です」
佐伯が震える手で差し出した資料に目を通しながら、霧子は眉をひそめる。分厚いファイルには、水無月親子の10年に及ぶ異常な記録が綴じられていた。手術前後の写真、詳細な手術記録、そして母親の執着的なメモの数々。それは医療記録というより、狂気の記録とでも呼ぶべきものだった。
ページをめくるたびに、紙の束から甘ったるい消毒液の臭いが漂ってくる。その臭いは、まるで手術室の記憶そのものが染み付いているかのようだった。
過去12ヶ月の施術歴:
- 二重切開(3回)
- 鼻翼縮小(4回)
- 頬骨削り(2回)
- 顎の輪郭形成(3回)
...
すべての手術を執刀したのは、母親の水無月真理子。美容整形の名医として知られる彼女は、一人娘の詩織を「最高の美」に仕立て上げようとしてきた。
「母親からの紹介で、次の手術の診断を依頼されています」佐伯の声が震えている。「でも、これは明らかにおかしい。この手術頻度は...人体の再生限界を超えています」
霧子は最新の診断書に目を落とす。そこには「顔面全層剥離・再構成」という、医学的にも倫理的にも常軌を逸した手術計画が記されていた。まるで、人の顔を完全に作り変えようとでもいうかのように。
霧子が資料に目を落とした瞬間、紙面の文字が歪み始めた。インクが血のように滲み、そこから母親の声が漏れ出してくる。
「詩織の顔は、私の作品なの」
霧子は静かに資料を閉じた。
「手術を断ります」
その時、診察室のドアが開いた。
*
「先生...助けてください」
水無月詩織の姿に、霧子は言葉を失った。蛍光灯の光が不自然に明滅する中、診察室に立つその姿は、人であって人ではなかった。
顔の輪郭は完璧に整えられ、目鼻立ちは芸術品のように美しい。しかし、それは石膏像のような無機質な美しさだった。皮膚の下で何かが蠢いているような不気味さ。無数の手術痕は、まるで顔という仮面を繋ぎ合わせた縫い目のようだ。
そして最も恐ろしいことに、その顔は見る角度によって違う人物に見える。正面から見れば詩織本人の面影が残っているが、横顔は母親の若い頃に酷似し、俯いた表情からは見知らぬ女性の美しさが覗く。まるで、一つの顔に複数の人格が封じ込められているかのように。
「鏡を見るたびに...違う顔になっているんです」
詩織の震える声は、幾重にも反響して聞こえた。少女の声、母の声、そして見知らぬ女性たちの声が、不協和音のように混ざり合う。
「でも、それは私の求めた顔じゃない。全部...お母様が求めた顔なんです」
診察室の温度が急激に下がる。水無月の影が、壁一面に広がっていく。しかし、その影は人の形からかけ離れ、まるで無数の顔が重なり合ったような異形の姿を映し出していた。
「お母様は...私の顔を集めているんです」
詩織の声が掠れる。診察室の温度が急激に下がり、窓ガラスに霜が走る。壁という壁に映る影が、おぞましい形に歪んでいく。
「毎回の手術で切除した組織を...標本にして...」
彼女の言葉が途切れた瞬間、診察室の鏡が一斉に曇り始めた。曇りは見る間に凍り付き、その氷の層の下から無数の顔が浮かび上がる。全て水無月詩織の顔。しかし、それぞれが微妙に、そして決定的に違っている。
生まれ持った素顔。最初の整形後の顔。二回目、三回目...果てしなく続く変化の記録。その一つ一つが、かつて確かに詩織のものだった顔。切除され、標本として永遠に保存された彼女の分身たち。それらの顔が全て、凍り付いた鏡の中で苦悶の表情を浮かべていた。
そして、それらの顔の間から、真理子の狂気の目が覗いている。
「完璧な美を得るまで...私は永遠に手術を続けるの。この子の中に眠る、無限の可能性を引き出すために...」
母の声が、氷の向こうから響いてくる。
「もう逃げられないの...」
詩織の声が、次第に遠ざかっていく。その声は今や、幾重もの層を持つ混濁した響きとなっていた。少女の声、母の声、そして数え切れないほどの見知らぬ声が、渦を巻くように重なり合う。
「私の顔は、お母様のコレクションの一つになる...」
その言葉と共に、診察室の闇が濃密さを増していく。蛍光灯の光は完全に消え、代わりに鏡に映った無数の顔が、青白い蛍光を放ち始めた。
霧子が札を取り出した時、既に遅すぎた。
診察室の影から、真理子の姿が滲み出てくる。しかし、それはもはや人の形を留めていなかった。
真理子の体は、まるで人体模型のように上下に引き裂かれ、その中から無数の顔が覗いていた。ホルマリン漬けの標本のような艶を帯びた顔。生きた人の皮膚のように脈打つ顔。骨だけになった顔。それらは全て詩織の特徴を持ちながら、どれも完全な彼女ではない。
「私の愛しい作品...」
真理子の声が、診察室の空間そのものを振るわせる。その振動で、壁に掛かった医療機器が次々と落下していく。
「もうすぐ完成よ。最後の手術で、ついに完璧な美を...」
佐伯が悲鳴を上げた。詩織の顔が、まるでろうのように溶け落ちていく。溶けた皮膚の下からは新しい層が現れるが、それは生身の肉ではなく、半透明の膜のようなものだった。その膜の下に、無数の顔が重なり合っているのが透けて見える。
そして、その重なり合う顔の最深部に、真理子の若かりし日の美しい顔が浮かび上がってきた。
「母の顔を...私に...」
詩織の最後の言葉が、永遠の闇の中に消えていく。その瞬間、彼女の体が光の粒子となって崩れ始めた。燐光を放つそれらの粒子は、真理子の体内へと吸い込まれていく。
霧子は必死に札を投げ、加持を唱えた。しかし、母娘の歪んだ執着は、既に治療の限界を超えていた。最後の札が、何の効果も示さずに灰となって崩れ落ちる。
「愛とは、時として最も残酷な呪いとなる」
それは、かつて霧子の母が残した言葉だった。その意味を、今になって初めて真に理解した気がした。
診察室に満ちていた無数の顔が、ゆっくりと真理子の中へと溶けていく。後には、一枚の古い写真だけが残された。
幼い詩織が、無邪気な笑顔を浮かべている。その横には、若かりし日の真理子。完璧な美を湛えた母の顔は、すでにどこか狂気の色を帯びていた。
*
診療記録 追記:
患者の容体、危篤。
顔面組織の壊死が進行。
母、水無月真理子の所在不明。
警察への通報事項:
真理子の自宅から、防腐処理された顔面組織の標本を複数発見。
全て、詩織から切除された組織と確認。
霊視記録:
患者の魂は、母親の歪んだ愛情という名の「美の檻」に、永遠に囚われた可能性あり。
余白に残された走り書き:
「この世で最も恐ろしいのは、愛という名の呪い」
(終)
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