欲望 8

「あ、ああァ……」


 と、縫衣は悲痛な声を漏らし、目を見開いている。かずらに噛まれた三箇所から血が垂れ、足先からも血が落ちた。


「縫衣さん、ごめんなさい! わたしのせいで。縫衣さん……!」


 そこで未命は、また地面が盛り上がることに気づいた。


「まさか、かずら……。まだ来るの……? どうしろって云うの?」


 未命の声に呼応するように、二匹の蛇の頭が地面から現れる。未命は声にならぬ声を上げ、尻もちをついた。


 シャアアアーーッ


 二匹は鋭い声を上げて、牙を剥いて襲いかかってきた。未命は目を閉じる。


「理久……!」押し殺すようにその名を呼ぶ。



 しかし、痛みはやってこなかった。不思議に思って恐る恐る目を開けると、地面に二匹の、かずらの頭が落ちているのが見えた。


 そこに重なるように、分厚い鉄の板が渡されていた。鉄の板がすう、と引かれると、未命はその先を目で追った。そこには、黒い壁があった。――いや。


「おいおい。こりゃ、いったいどうしたこった」


 黒衣を帯びた蓬髪の男――蓮二は、未命が見たこともないような大きな太刀を右手に持ち上げて、肩に担ぐ。


「どうやら、苦戦みてえだなァ。どれ」


 と、蓮二は宙吊りになった縫衣へと目を向けた。正味、縫衣の顔は青ざめ、ぐったりとなって、かずらたちに吊される格好になっていた。


 そこで、未命の横に一陣の風が吹いた。――体勢を落とした黒い、蓮二の姿だ。蓮二は縫衣の足元にたどり着くと、牙を剥いて――鈍く光る大太刀を走らせた。


 二度三度、風が唸ると、縫衣の体がぐらりと揺らいだ。かずらの蔓は斬り落とされ、頭は、縫衣の体に噛み付いたままだ。


 かずらの血が噴き上がる中で、蓮二は左手に縫衣を受ける。


「だからお前は、無茶なんだ。ッたく」


 呟いて、蓮二は振り返る。


「大概はわかった。さしづめ、例の行商人と、揉めたってことだろ。――で、肝心のよォ。かずらの大将は、どこだ」


 未命は未だ震え、生き心地の得られぬまま、闇を指差した。


「に、逃げて、行きました……。理久が、追いかけて。今しがた……」

「ほう。あの、天清流。で、お前はどうする。巫女」


 未命はしばし戸惑ったものの、上体を起こして、


「追います」

「その前によォ。持ってけよ。鳳嵐鈴、だろ……。そいつァ」

「え……」


 蓮二の視線の先の地面に、かずらの蔓と縫衣の血に紛れて、例の鉄塊が落ちていた。


「鳳嵐鈴……」


 未命は手を伸ばし、その鉄紺色の塊を拾い上げた。左手に行燈を抱え、右手に鳳嵐鈴を携え、理久の消えていった闇を見据える。ついで、蓮二の声がした。




 ◇



 湿った夜気の中を泳ぐように、汗だくになって理久は駆け続けた。先には闇の中に、松明の火が揺れている。


 縫衣の言葉を信じるならば、その火の持ち主がたる、禅治のはずだ。


 行燈を左手にしていたものの、地面に置いて、さらに速く走り出した。おかげで、すぐに追いつくことができた。


 ヒィヒィと、喘いで走る禅治の背後に迫ると、理久は手を伸ばして肩を掴んだ。


「待て! 禅治だなッ。お前……」

「離せェ!」


 禅治は喚くも、体勢を崩して倒れ込んだ。松明がごうと唸り、地面に落ちた。


 理久は腰の刀を抜く。対して禅治は体勢を立て直して懐の短刀を抜くと、肩で息をしながら、


「宮の兵士ですか。しつこい……」

「うるさい。お前を、逃すわけにはいかないんだ」


 理久は上段に構え、禅治を見据えた。


(こいつ。短刀で、立ち向かうつもりか。この俺の剣に……)


 そのとき、禅治の左手が動いた。手のひらが見えたかと思うと、視界が土に覆われた。


「何だ! 何を……。貴様ッ」

「ほほッ。甘ちゃんで、助かりました」


 理久は追撃を恐れ、刀を横凪にした。――けれど、手応えはなかった。


(くそッ。逃げられたか。すぐに、追ってやる。――おお、こんな姑息な手に、はめられるなんて……)


 涙と共に幾らか目の痛みが治ると、すかさず周囲を見た。――すると、地面にうずくまった禅治の姿。短刀を地面に刺していた。


「何をしている! 禅治……」

「残りの仕掛けを、呼んでいるのですよォ」


 と、太った顔に笑みをうかべた。


 間もなく理久の両脇の地面から、妙な音がした。ざらざらと、土が掘り起こされるような……。見ると、蛇の頭の如きものが、持ち上がってきた。


 シャアアァーーッッ


 二匹の蛇は奇声を上げて牙を剥くに、すかさず迫ってきた。


「おおッ! まさかこれは、かずら……。くそッ……」


 抗う間もなく理久は、右手首に、左腕に噛みつかれた。激痛と共に、力が吸われる感覚。――事実、血が滴り、どんどん吸われている。


「やめろーッ! 離せ。離せ!」


 そう喚くも、蛇の顎はいささかも弛まず、両腕に食い込み続けた。朦朧とする意識の中で、理久は未命を想った。


(未命……。すまない。結局俺には、止められないのか。俺の剣では。――どうして……。武神にして、天清流の守護神たる、烈賀王よ! なぜでしょうか! ――俺の信念と修練が、届かぬと云うのですか……)




 ◇



 未命は遠くに見える、小さな光を目掛けて走ってきた。森の木々をくぐり、枝をかわしながら。


 地面に落ちていたのは、理久が使っていたであろう、行燈だった。


「どこなの? 理久……。どこに行ったの?」


 顔を上げて声を張り上げるが、返事はない。――そのとき、森の向こうから聞こえた。


「やめろーッ! 離せ。離せ!」


 それは、理久の声のようだった。未命はまた、その声の許へと駆け出した。


「理久、大丈夫? ねえ、理久!」



 梢を超えて茂みを抜けたところに、松明の火が見えた。松明を握っているのは禅治。その手前に、二匹のかずらと、それに噛みつかれた、理久が見えた。


 理久は両腕を噛まれ、ぐったりと吊るされるように、中腰になっていた。刀がその横に落ちていた。


「ほほッ。これはまた、会いましたな。巫女殿」


 禅治はにやけながら、松明を掲げた。未命は禅治を睨んでから、理久へ目を向ける。


「大丈夫? 理久! 理久……。ごめんね! わたしのせいで。理久……」


 理久は薄く目を開けて、青白い唇を開いた。


「あ、あ。未命。来ちゃだめだ。――この蛇ども。きみは、こんなのに、血を吸われたのか。あのとき……」

「理久……」

「逃げろ。きみは」


 そのとき、ふと視界の端で、禅治の姿が動いた。見ると、禅治はうずくまって、短刀を地面に突き立てていた。そして声高に、


あぎとよ! その巫女を喰らいなさい!」


 その直後、未命は首元に異変を感じた。――咄嗟に喉に触れると、ごつごつした、木肌のような感触があった。激甚な痛み……。何かが喉に噛み付いている。――それはわかった。


「うう、あ……」


 あまりの痛みに力が抜ける。血が流れ、胸元に伝ってゆく。無意識に手を伸ばすと、懐の中に、鉄の冷たさがあった。


「ほ、鳳嵐鈴……」


 あやふやな意識の中で、未命はその鉄塊を左手に取った。視界の下方に、かずらの蔓と、鳳嵐鈴の血塗られた鉄紺色が見えた。


 鳳嵐鈴からは奇妙な音が響いてきた。


 

 キイイィィィン


 意識が暗闇に覆われる。どこからともなく声がした。おそらくあの、魔性の声。


「なあ、悪い話ではなかろう。――のう」


 未命はその声に、びくりと体を震わせる。暗闇の中で旋回しながら、深淵に落ちてゆく。

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