欲望 9
◇
暗闇の底でたどり着いたのは、森の情景だった。
(ここは? ――どこ? 何を見ているの……。わたしは…………)
どんよりとした曇天の下、森の中で未命は一人の兵士の後ろにいた。――おそらく、四年前に老兵と共に、白ノ宮へ向かったときの記憶だろう。
「逃げよ! おまえさんは……」
白髪の兵士――
「さあ、ここはよい……。走れ! 逃げよ!」
「え……」
さらに茂みから、二匹の山犬が現れた。山犬は牙を剥き出して、鼻の周りに皺を寄せて声を震わす。
ガルルルルゥ……
佐湖は未命の前に立ち塞がるようにして、横目で怒鳴った。
「行けえー!」
「で、でも……」
「構わぬ。――早う!」
その声と同時に、先頭にいた山犬が佐湖へ飛びかかってきた。未命は目をつむり、顔を背けた。
「うおおォー!」
佐湖の呻き声を覆うように、山犬の唸り声が重なっていった。
ガウガウガウッ……
未命は荷物を放り、ひたすらに走った。後ろから獣の足音が追いかけてくる。
(何で……。何で? これは何? いやだ……。いやだ……こんなの!)
森の空気を浴びながら激しく呼吸し、未命は走り続けた。そこで目前の茂みに飛び込んだ。
茂みの中で、枝や棘に引っかかれながら抜けると、急に足の裏が軽くなった。
――気がつくと、宙に飛び出していた。抜けるような山の眺望。眼下には木々の先端が見えた。
急峻な赤茶けた斜面は、下の森へと続いていた。ごうごうと風を浴びて、未命は落ちてゆく。
「あ、ああ……。助けて……。助けてー!」
叫び声すら、風に飲まれてゆく。
――意識が遠のく。
ごつり、と鈍い音。
がり、ざざざ。ごぐり。
赤い色が飛び、服が裂ける。
気がつくと、未命は森の片隅に立ち尽くしていた。
傍には真っ赤に濡れた、粗末な服の少女が倒れていた。
「何……。あなた、大丈夫?」と声をかけたが、ぴくりとも動かない。
そのとき、未命は背後の声を聞いた。
「――何をしておる。そなた、崖から落ちてきたのか? かような、霊魂となり果てて」
はたと振り向くと、薄墨の如き揺らぎが見えた。森を背景に、黒いもやのようなものが空中に渦巻いていたのだ。まるで意思を持つように漂い、未命に近づいてきた。
「崖から? え、誰? 何……」
「ほう。そなた、存外にわたしと、共鳴するやも……。これは、合一すれば……」
やがて、未命はその
ついで見えたのは、これも見たこともない、異常な光景だった。
広大な、どこまでも続くような暗い空間に、ひたすら巨大な火球が浮かんでいる。大地の全てが浮かび、目の前で球となって燃え上がるような……。
その果てしなく大きな火球は、別の真っ黒な球体に喰われつつあった。
――太陽が、渦に喰われつつある。
そんな観念がどこからともなく、脳裏に湧いてきた。
黒い球体――その渦に立ち向かう、暗緑色の着物の、刀を手にした少女が見える。それに、左方にはもう一人いた。
蒼色の打掛姿の背中。生地には黒と水色の珠が無数に散り、結った髪から落ちる髪が背中にかかる。――その女は、右手に鉄紺色の、異形の鈴を手にしていた。その右手を持ち上げると、あたりに黒い竜巻が巻き起こる。
竜巻は轟音と共に突き上がって、辺りを呑み込んでゆく。
次の瞬間――女の体が散り散りになり、真っ暗闇に流れてゆく。無数の糸のように、黒い藁筋のようになり、暗黒の濁流を飛ばされてゆく。
いや、求めている。遠くにある故郷を。
『ああァ。もう一度。せめてあそこへ、ゆこう。――大地へ! このまま、消えてしまう前に…………』
女は消えてしまいそうな魂をなんとか保ち、大地を――
そんなとき、ある存在に引き寄せられた。魂の底が、共鳴したようなのだ。――日月ノ長神が織りなす、皮肉な運命の敷布。その綾に紛れた一筋の魂に、導かれていった。その先で……。
「――何をしている。そなた、崖から落ちてきたのか? そのような、霊魂となり果てて」
蒼玉は消えてしまいそうな自身の意識を束ねて、その少女の透明な姿に語りかけた。
少女はしばらく、傍の哀れな死骸を見つめて、不思議そうな顔をした。
「わからない……。え、わたしは……」
「ふむ。戻ろうにも、元の
そこで蒼玉は思案する。
(この娘の体を奪えば、再びこの地に、戻れようか……。いや……)
あらめてその死骸を見るに、手足は捻れ頭蓋は割れ、血だらけだった。
――霊気をほとんど失った蒼玉にとって、人間の血が溢れる光景など、甘し蜜の溜まりでもあったが。――いや、肝心の体がなければ、何もできない。
(そうか。わたしの力を持ってすれば、復元できようか。――いや。よしんば体を復元できても、それを操る霊魂が、尽きてしまう。おそらく……)
そこで蒼玉は再び少女を見る。少女の霊魂は風にほどける湯気のように、薄らいでいた。死した人間のいずれも、そうであるように。
大いなる霊気の流れの中に――
「娘よ。まだ早いぞ。旅立つのはのう。長神の織りなす、敷布の綾に織り込まれるのは……」
「え……?」
「――のう、悔しくはないのか?」
「え、悔しい……?」
少女は灰色の瞳の中に、小さな光を灯した。蒼玉は近づく。
「ああ……。わたしには、見えるのだ。そなたの、不遇だった人生が……。救いを求めて。――さだめし、長神の皮肉な定めに陵辱され……それでもなお、生きようと、旅をしていたのだろうよ。――――それなのに、目的も果たせず、崖から落ちて死んだのだ。のう、違うか?」
「わからない。――いえ、でも」
「そうだろう? のう。それが悔しゅうのうて、何だと云うのだ」
少女は目を広げ、天を仰いだ。しばらくするとその細い、あまりに幼い眉を歪ませて、目を潤ませた。燃える瞳で見つめ返してくると、
「あ、あ……。わたしは。悔しい。――それに、変わりたかった……。あの、白ノ宮で、生まれ変わろうと――そうだ! 変わりたかった!」
蒼玉は内実、不思議な思いで少女の霊が泣くのを見ていた。霊というものが、生者の如くかように涙を流すのが、滑稽であり、悲痛にも思われた。
「求めよ」と蒼玉は続けた。「そなたを、甦らせよう」
少女はびくり、と震え、
「え、甦らせる……?」
「そうだ。わたしは故あって、かような姿となっておるが。そなたと魂を混ぜ合わせれば、可能であろう。――いや、この
「魂を、混ぜ合わせる……」
少女は怯えるように、後ずさる。
「そうだ。――そなたの魂。わたしの魂。それらが混ざり、結果として、やっと一人分の魂となろうよ」
「え……。どうして……」
「どうもこうも、なかろうよ。それより他に、我々が生き残る術はなし」
少女はさらに後ずさってから、俯いた。
「混ざり合う……」
「ああ……。そうさ。――悪うなかろうよ。あくなき欲望を力とする、この蒼玉と肉体を分ち合うのだから」
蒼玉は静かに足を踏み出し、少女へと近づいていった。
「いや、だ。――わたしは、わたしなのに。そんなの」
と云うわりに、少女はただ、両手を胸前できつく握って震えるだけで、逃げはしなかった。
少女の顔が上げられると、その瞳の奥底から、蒼く深い光が滲んできた。
「わたしは、あなた。あなたは……」
第四章 欲望 おわり
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