欲望 6

 夜半過ぎの縫衣の客間に、三人は座っていた。未命は卓の前に座り、理久の作業を見ていた。


 ――理久は紺色の着物に刀を帯び、あぐらをかいていた。膝の上には芝色の風呂敷包みを抱え、包みの中に布を詰めていた。最後に理久は包みの上に、きつい結び目を作った。


 縫衣はいつもの銀狼衆の出立で、やや眠そうな目に行燈の火を映している。


 未命は傍に置かれた笠を一瞥してから、縫衣に尋ねた。


「もし、禅治がきたら、どうするの?」


 縫衣はちらりと視線を向けてきた。――夜の小動物のように見えた。


「うん……。何か合図が、あるのだと思う。宮に尋ねてくるか……。あるいは、何かの音とか」

「いえ……そうじゃなくて。禅治と接触したら……」

「そうね。まずは捕える。禅治にいろいろと、聞かなければ。――場合によっては、実に、大きな力が動いていることになる、から……」


 縫衣はそう云って、首を回した。


「え……。捕えるって。そんなこと、できるの?」


 そこへ理久が、


「俺も、必ず近くにいるから。そのときになったら、もちろん協力する。仲間の護杜や、何人かには伝えてあるから。いざとなったら、守護も出す」

「え……。う、ん」

「ああ。心配はいらないよ。――きっと」

「ありがとう。理久」


 そう云ってから、未命はふと、胸元に右手を当てる。


「どうしたの?」と縫衣。

「ええ。あの、わたしの中の、魔性――蒼玉。それを、追い出すことは、できるの? いつまで、恐れていればいいの?」


 すると縫衣は行李を引き寄せ、手を入れると、例の鈴――鳳嵐鈴ほうらんりんを取り出した。未命は唖然として見ていると、縫衣は黒繻子を解いて卓の上に置いた。


「この鳳嵐鈴は、蒼玉が使ったもの。――この鳳嵐鈴が、手がかりになると思う」

「え? 蒼玉、が?」

「そう。かつての戦いのとき、蒼玉はこれを掲げて打ち鳴らして、敵を破った。あの、恐るべき災厄を。――だから、この宝具の呪力が」

「それがあれば、蒼玉を追い出せるってこと? そのためには、どうすればいいの? ねえ、教えてよ」


 そこで犬の鳴き声がしたとき、縫衣は云った。


「未命さん……。それはさ……」


 もう一度犬の鳴き声が響いたとき、縫衣は閉ざされた窓の向こうに顔を向けた。


「まさか……禅治?」




 ◇



 理久は行燈を手にし、白ノ宮の正門に向かった。未命と縫衣もついてくる。


 未命は笠をかむっていた。――なにしろ禅治に対して、『緋奈』であると、ごまかさねばならない。そんな未命の右手には行燈、左手には風呂敷包み。その包みには、――と見せかけた、布の塊が入っていた。


 理久は夜番の守護に会釈し、門の脇の通用口の前に立った。


「行こう。ここを通る話は、つけてある」


 理久が先に外へ出ると、後ろから未命と縫衣が続いた。また、犬の鳴き声がする。街道沿いの脇の方からだ。


 夜の街道は峠の上まで続き、薄暗い月明かりが森や道を幽玄と照らした。夜風が吹いて森をがさがさと揺らした。行燈を目掛けて蚊や羽虫がたかる。


「あっちだ。鳴き声の方へ」


 と、理久は歩いてゆく。


 街道の峠を少し行ったとき、脇からまた、犬の鳴き声がした。


「こっちだ」


 と、暗い森に目を向ける。また夜風がざわめく。――夜の森は暗幕の如く、生命の侵入を拒むようだった。波打つ粘質な黒い魔性……それが夜の葉幕だった。


(夜渡吒よ……。あなたは、この夜にどんな風を運んでくるんだ。――それに、烈賀王よ。俺に、天清流の名に恥じぬ勇気を……)


 理久は振り向き、行燈に照らされた未命の、不安げな伏せたまつ毛と、暗い表情を見る。


(俺が。――この俺が、守ってみせる)


 左手で刀の鞘をたしかめ、理久は脇道に歩を進める。


「わたしが……」


 と、未命が前に躍り出た。


「もし、禅治に鉢合わせたら、危険だから。わたしが先に、様子を見ながら……。ね?」

「ああ……。そうだな。気をつけて」

「う、ん……。わかってる」



 理久は未命の背を見て進んでいった。


 先をゆく未命が行燈を掲げると、闇は灯りを疎むように道を空けた。



 ふと頬に痛み……どうやら、突き出した枝が理久の頬を掠めた。


『人の子よ。我の領土に何の用ぞ』


 などと、夜渡吒の声を想像する。


(違う。たんなる枝だ。惑わされるな。歩け……)



 しばらくゆくと、未命が短い声を上げた。


 理久が見ると、茂みの奥に茫と灯りが見えた。


 未命は一度振り返り、『行ってくるよ』と目で云って、さらに進んでいった。


 理久は行燈の蓋を降ろし灯りを隠した。そうして、あらためて闇の先を見た。すると、妙な男の姿が見えた。


 暗くはあったが――おそらく山吹色の頭巾に、同色の羽織。ふっくらとした顔に口髭。――いかにもやり手の行商人のようだ。


 未命はそこに近づいていった。背後の縫衣が潜めた声で、


「大きく回り込もう。ね、理久さん。間合いに入ったら、禅治を一息に捕える。いいね」




 ◇



 右手に行燈、左手に風呂敷包みを提げ、笠を目深にし、未命は枝と土を踏み締めてゆく。


 夜露に濡れた風は肌に絡んで、首や腕や腿を撫でてゆく。


 先には行商人――禅治が、左手に松明を持って木の下に立っている。杉の巨木――それは老いて崩れかけ、夜の異形と化している。


(あァ、夜渡吒ノ神よ。――今までわたしを、これほど苦しめ、弄び。そして、まだその罪深き瞳で見つめているのなら……。今宵だけは、わたしを見守るがいい! これまで、その三日月の短刀でわたしを仕留めなかったのに。今夜に限って、血の贖いをさせる、なんてことはないでしょうね。――だから夜渡吒よ。今宵だけは…………)


 禅治の姿が徐々に克明と闇に浮かび上がってくる。火の揺らぎによって影が移ろい、魔性めいて見せた。


 ときに裕福な商人と見えれば、ときに巨大な蛙の異形にも見えた。


 唾を飲み下して未命は、じりじりと近づいてゆく。禅治は松明を動かし、近づいてきた大きな蛾を焼いた。右手を自身の頬に走らせ、おそらく蚊を潰した。それから、口髭のついた太った顔に、にたりと笑顔を浮かべた。松明がもたらす陰影があまりにきつい。


「これはこれは、巫女様……。ほほほッ、首尾は、どうでしたかな」




 ◇



 理久は縫衣の背を追って、薮や森を足早に進んだ。左方の茂みの向こうに、禅治の松明の火を見ながら。


 縫衣は信じられぬ敏捷さで、音もなく夜闇を進んだ。あまりに速すぎて、遠く背中を追うのがやっとだ。


(この、縫衣って人は。――夜風の、夜渡吒ノ神の申し子か……いや。人間なのか? ――銀狼衆とは。このようなものなのか……。信じられない)


 そんなことを思いながらも、理久は禅治が背負う杉の巨木に回り込むよう、近づいてゆく。




 ◇



「さ、巫女様。お品の方を、見せていただきましょうかね」


 禅治は細い目で笑い、猫撫で声でそう云った。するとまた、


「ところで、巫女様。念のため、お名前を聞かせていただいても、ようございますかねェ」


 未命は笠の下で、ごくりと唾を飲み込んだ。――燃えて暴れる心臓を感じながら、しかし声が震えぬよう注意をし、


「あい。四位巫女の、緋奈でございます」


 ――しばしの間。しかし、禅治は顎の肉をたゆんと弾ませて頷いた。


「お久しぶりでございます。緋奈殿。――この禅治、一日千秋の想いで、今宵を待ちかねておりましたぞォ。ほほッ。さてさて。例の、かずらの根は、お持ちになられたのでしょうな……」

「あい。巫女の血をたんと吸った、かずらの根を掘って参りました」

「ほう、それは実に……。して、その血の持ち主の巫女は、どなたなのですかな? お友達の。あの、恋仇の……」


 どきり、と手を震えさせてから、未命は云った。


「――それを、伝えねば、なりませぬか」

「おおこれは、したり。わたくしとしたことが。女人の、それこそ白花の花弁の如き、柔らかなお心を、無粋にも踏みにじってしまうような。――まこと、商人にあるまじき所業。お許しくださいまし。――これでも、福の神の禅治、と、ある街では呼ばれておりましてなァ。いやはや」


 そうして禅治は、首をぐいと曲げて、卑屈な視線を向けてきた。


「そのォ、しかしです。しかしですなァ。――まこと、面倒なことに。――巫女の血と霊気を求める、呪の道の客人方はですなァ。どこの、どのような巫女から採れたものか、ということを、非常に気にするのです。――わたくしにとっても、実に複雑怪奇なもので、よくわかりませんがね。それに、あなた様が欲しておられた……。ほれ、あの惚れ薬の茶葉。それを、今お持ちしておるのです。その、巫女の名をば、この禅治の耳にちと、お借りできれば。そうして、その根っこをいただければ。――もう、こんなにいらぬ。使いきれぬ、というほど、差し上げると申しているのですよ。ね? 損なお話じゃ、ございませんでしょう。緋奈殿……」


 そんな延々と続きそうな口説き文句が、あまりにねばっこく、未命は吐き気を催してきた。


(わかってる……。理久たちが回り込むまで、時間を稼がないと……。でも、これはあまりにさ)


 そこで芝居にもほとほと疲れて、ついに云った。


「あい。分かり申しました。それでは……。その、相手の巫女は。未命さんです」

「ほ……ほほほッッ」


 禅治はそう嗤い、汚い音をたてて舌なめずりし、くつくつと肩を揺すった。


「さすがです。緋奈殿ォ。これは、長神様も仰天の、お見事ですぞォ! ほほほほッ……」

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