欲望 2

「どういうこと……?」


 と未命が尋ねると、縫衣は続けた。


「ええ。五年前の、しょくのことを、聞いたことはある? ――そう。あなたが白ノ宮にやってくる、前の年に起きた、あの変事」

「うん……。大きな日蝕は、あったことは憶えてる。幼くて、うろ覚えだけど。先輩の巫女も、大変なことがあったって、教えてくれたよ」



 ――未命が聞いたことがあるのは、こんな話だ。


 五年前に世界――夜久爾やくにの地は、ある驚異に脅かされた。天の太陽が黒く欠け、世界が闇に包まれそうになったのだ。


 白ノ宮の伝承や記録にて、過去の日蝕について伝わるものの、前回の日蝕では異常な騒動が起きた。


 何しろ巫女たちの上層部で、『二度と太陽が戻らず、世界が永遠の闇に包まれる』などという危惧が広まっていたらしい。


 そのときに、が、災禍の根源を斬ったのだと。


 その日、太陽の翳に白花ノ剣がほとばしり、天には太陽を覆うが如き、大輪の白花紋が輝いたという。


 ――そして、その白花ノ剣の名で呼ばれる剣士が、目の前の縫衣であるはずなのだ。


 まじまじと、未命は縫衣の、柔らかそうなまぶたと、薄桃色の唇を見る。


(きっと、何かの間違いか。――神格化された、逸話みたいなものなのかな……。こんなに柔らかな物腰で……。それにしても、天に咲いた白花紋って。どこで、どう戦ったらそうなるの……?)



 縫衣はあぐらの足を組み替えて、首を回した。


「あのときに、『渦』を退けるために、は鳳嵐鈴を使った。――その彼女の名は、蒼玉そうぎょく


 その言葉に、未命はあの、蒼い瞳の輝きを思い出す。同時に、まじまじと縫衣の目を見返してしまう。


「ちょっと、話が……。え? 蒼玉? 渦……」

「わかってる。にわかには、信じられないだろうね。――あの話はだいぶ、わかりやすく伝わっているから。けれど、あなたの中にいる蒼玉は、あの戦いに深く関わっていた」


 未命は右手を突き出して、


「ま、待って。お願い。ちょっと待って」


 未命は座ったまま後ろによろめいて、左手を布団につく。右手を胸に当てて、ぎゅうと襟を掴む。


「未命さん……」

「う、ん……。わかってる。わかってるよ。――縫衣さんは、ずっと待ってくれた。わたしの心が、少しずつ、追いつくまで。――でも」


 未命は寝具の隙間の、暗い畳の縫い目を見ながら、


「怖いよ……。ねえ、わたしは。――どうなってしまうの? わたしの中に、何がいるの? ねえ。それは、追い出せるの? ――何よ。何よ、蒼玉って……!」


 縫衣は膝を立てて、にじり寄ってきた。切実な声で、


「敵ではないよ。蒼玉は……。かつて、渦と戦ったときに、深く傷ついた。――きっと、五年前のあのとき、霊だけが大地に流れついてきた。そして……」


 未命が顔を上げると、縫衣のまっすぐな目があった。


「ねえ、未命さんは……。何か、憶えてるの? 過去のことを」

「過去の……こと?」

「ええ」


 その言葉を聞いたとき、未命は頭や肩に雨を感じた。手を当てるが濡れているわけではない。


「過去……」


 呟いてまた、畳の縫い目を見る。




 ◇



 家には土の匂いが染みていた。


 その秋の夜――部屋の中央には大きな囲炉裏があり、木のへりに火箸や鍋の焦げ跡がこびりついていた。――さながら白ノ宮の近くにあるのような、簡素な民家だ。


 二畳の畳敷の一画に、未命の父親が横たわっていた。痩せた青い顔には脂汗。目元には影のような


「ごふッ。ごほ、ごほ……」


 とむせるたびに、未命の母親は茶碗に白湯を注いだ。野良仕事で日焼けした顔に、憔悴して翳った目が際立っていた。


「大丈夫かい? あんた、ほら、飲める?」


 その声がするも、父親は黙ったまま目を閉じている。


 未命はそれらの情景を、じっと家の隅から見ていた。兄は母親の後ろから心配そうに父親を見ている。妹は未命の着物の裾を持って、俯いている。


 夜風が吹いて、がたがたと家が軋む。何者かが父親の息吹を刈り取りにきたような、そんな錯覚に陥る。


『刻だ。――人の子よ。刈り取りにきたのだよ。さあ、我が銀の三日月に、喉を差し出すのだ。――人の子よ』


 夜渡吒ノ神――その名は聞き齧ったことはある。村の老人がまれに語る。


 正味、未命は人ならぬ存在の声を聞き分けることがあった。夜の声。山の声。水の声。大人にそれを伝えると、『いつかあんたは、巫女にでもなるのかもねえ』などと云われたものだ。



 父親を看取ってから三月みつきもすると、やがて母親が同じ咳をしはじめた。――瘴気による病か、都からもたらされた流行り病か、そんなことはわからない。


 春先の柔らかい陽射しの朝、未命たち兄妹は村を後にした。



「おまえさんは、山歩きに慣れてるようだの」


 そう云うのは、白木の鎧に笠をかむる、老いた小柄の兵士だ。白髪と白髭に日焼け顔。山道の新緑をくぐりながら、その兵士――佐湖さこは続ける。


「どうしたことだよ。おまえさん、まるで口をきかないの。――あと二刻ほどで、白ノ宮に着くぞ。なればもう、娑婆しゃばの者でのうなる。な、記念にの、儂と友達になっても、よかろうよ」

「え……。うん」


 ちらりと佐湖は振り向いて、


「大変だったんだろう。――おまえさん」


 そうしてまた、佐湖は歩き出した。未命は緑に囲まれた、岩ばった山道をついてゆく。


 道端には、黄色や白の花が咲いていた。小さな蜂や蝶が舞い、蟻が列をなしていた。新しい春の匂いが風に運ばれてくると、汗が涼しく乾いていった。


 雲行きが怪しくなり肌寒くなる頃、鬱蒼とした森に差し掛かった。そのとき茂みから、がさり、と音がした。見ると二匹の山犬が、赤い舌を垂らしていた。


「え、犬……」


 と呟く未命は、気配を感じて横を見た。そこにはさらに二匹の山犬がいた。


 佐湖は笠を頭から取り、即座に抜刀した。


「退がっておれ!」


 そのときふいに、未命の目の前に蝶が視え――目をしばたたいたとき。佐湖は刀を構え、山犬たちを睨んだ。



 白ノ宮の正門にたどり着いたとき、未命は雨に打たれてふらつき、今にも倒れそうになっていた。


 雨の音――雨笠をかむる守護が、ばしゃばしゃと、地面を鳴らしながら駆けてきたのを憶えている。


「何事か……。娘……。しっかりせよ! おい……かように、ぼろぼろに……」

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