第四章 欲望
欲望 1
未命は
「落ち着いてるね。静かになったよ。――白ノ宮が」
と云う縫衣に、未命は答えた。
「うん。――黄花さんのことが判明して。よかった」
そうは云ってみたものの、未命の脳裏に緋奈の姿が浮かぶ。暗い牢場で膝を抱えて座り込む、あの姿が。――それに、緋奈が明かした行商人の話を思い返す。
「禅治、って云ってた。――その行商人、見たことが、あるかも」
「へえ、そうなの?」と縫衣。
「うん。ときどき白ノ宮にやってくる人。変わった――山吹色の頭巾と羽織の。いろんなものを、売りに来るの」
「そう……。緋奈さんは、その人に話を持ちかけられたのかもね」
やがて襖の向こうから声がした。
「お食事のご用意ができました。広間の方へお越しくださいませ」
きっと、案内役の四位巫女だ。未命は申し訳ない気持ちになった。
「どうしたの? 浮かない顔で」
と云う縫衣に、
「ええ。もう正体を明かしたんだから、わたしが働かないといけないよ。本当は。四位巫女としてさ」
「そう……。そうだったね」
「そうだよ」
とはいえなぜか未命には、前のような暮らしが想像できなかった。
(緋奈……。あなたは、どうなるの? それにわたしも……。縫衣さんがいなかったら、魔性を抑えられない。こんなわたしが、また元の暮らしに戻れるの?)
忙しくも厳しい、四位巫女としての日々が、あまりに懐かしかった。客人として迎えられるより、雑巾掛けや箒がけをしていたかった。それが未命の日常であり、帰るべきところだった。
「世は巡る……。さあ、夕餉にありつこう」
と、縫衣は立ち上がった。
銀狼衆の装束のまま、素顔をさらし、不思議な気持ちで未命は広間に行った。
膳を運ぶ巫女たちにも、見知った顔がいた。けれど言葉を交わすこともなく、縫衣と並んで食事を平らげた。
寝巻きに着替え、真白な寝具に包まれ、綿と香の匂いの中で目を閉じる。
隣には縫衣の寝息が聞こえる。あいかわらず寝ているのか起きているのか、よくわからない。
(もしかしたら、縫衣さんは、眠らないんじゃないだろうか。どこか、人間離れしているから……)
ぼんやりと思い、そんな妄想をおかしく思い、密かに笑う。
夜風――ときおり風が吹いて木々や家を揺すった。夜渡吒ノ神は白ノ宮の戸をたたいて巡る。
――魔は失せたか? 失せたと思うか? どこにでもいるぞ。
黒繻子の長髪に漆黒の薄衣。銀の三日月の短刀を忍ばせ、夜から夜に。濡れた黒衣がはためくと、未命はその暗幕をくぐる。暗い森の天に、三日月が灯っている。
女の影が立っており、こちらを向いている。蒼い瞳が輝く。
「逃げなくても、いい」
女の声がした。
「え? 誰……あなたは……」
女の影はざり、と森の土を踏んで近づいてきた。蒼い打掛がぬらりと、月明かりを映す。未命は尋ねる。
「ねえ、あなたは……。誰なの?」
目の前に蒼い両目が迫る。
「わたしは………………」
女の声が聞こえるが、心の一部が反射的に拒んだようだ。
目を開けると、窓の外に星が見えた。――慶紗ノ宮の客間だ。
隣には、縫衣が仰向けに眠っていた。顔や首筋が白く滑らかに見えた。白く濃密な霊気が体に溢れて、光だっていた。
未命は体の熱に浮かされるように、布団から這い出た。動悸が止まず、息が苦しい。
気がつくと縫衣の首筋が、闇の中にぼんやりと見えた。縫衣の下唇を噛んでいるようだった。
――血の味がする。
(何……。何してるの……わたし。だめだよ、こんな)
そう考えるのに、まるで体が獣に乗っ取られたように、血を求めた。血の味と共に、濃密な、あまりに甘い霊気が感ぜられた。
縫衣の吐息が溢れてきて、にわかな呻き声がした。
「う、ん……」
そこで未命は、自身の体を引き剥がすようにした。両腕を畳について横に転げた。
「いやッ……。いやだ。何で……」
口元に手を当て、ぬるりとした、血の感触を撫でる。その血を舐める。これほど甘い蜜があっただろうか。
(だめだよ。助けて……。縫衣さんといれば、抑えられるんじゃ、なかったの? どうして……)
すると、「大丈夫だよ」と声がした。
「え……」
未命が見ると、縫衣は上体を起こして、口元に手の甲を当てていた。――闇の中でそんな輪郭が見えたのだ。未命は縫衣へと這うように近づいて、
「ごめん……なさい。わたし。――血を呑んでしまったよ。縫衣さんの……。ごめん……」
縫衣は闇の中で顔を向けてきた。
「徐々に、抑えるのが、難しくなっているのかも。――そうね。もう」
縫衣はしばらく考え込んでいた。やがて決心したように頷いてから、立ち上がった。白い寝巻きを幽霊のように泳がせ、部屋の隅の行燈に近づいた。
縫衣が行燈の前面を開けると、部屋の中が眩しくなった。
「え、何? どうしたの?」
未命が問うも、縫衣は気にかけず自身の行李に近づいた。そして、あぐらをかいて行李を抱えるようにして、蓋を開けた。
未命には何となく、縫衣が探しているものがわかった。やはり、縫衣は
布団の脇に、縫衣はその鉄塊を置いた。
行燈の暗い光を浴びて、なお重く輝く鉄紺色の塊。大ぶりな、いかめしくも呪しい一つの鈴。それが、どかりと今、未命の眼前に置かれたのだ。無言の縫衣の手によって。
未命は胸の鼓動を感じながら、反射的に呟く。
「
「そう。よく憶えていたね。――鳳嵐鈴だよ。確かに」
未命は吸い込まれるように、鳳嵐鈴の青黒い胴廻りを見る。複雑な紋様や、鷲や羽や植物が描かれている。
縫衣はその鳳嵐鈴を見下ろしながら、一度、深くため息をついた。未命は、はじめて縫衣のため息を聞いた。――たぶん、そのはずだった。
人間離れした縫衣が、はじめて人間として、目の前に座っているようだった。
「刻が、来たのかもしれない。――未命さん。もはや、今が……」
「刻が……」
「そうだよ。――雪解けの蕾が、開こうとしている。悶えている。――彼女が」
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