蒼い瞳 9
未命は耳を疑った。
「え? 理久? ――理久って云ったの?」
「そうだよ。理久……」
未命は格子から手を離し、緋奈、そう呟いた。呆然と膝立ちになり、緋奈を見つめた。
「何も……知らないくせに。未命は。――理久は、あなたがいなかったら。きっと、わたしを選んでいた。知っていたよ。ね、未命。あなたが夜ごと、理久と逢っていたことを。理久の匂いをさせて、戻ってくることを」
「それはッ……」
「隠さなくていいよ。未命……。わたしは、あなたをさ、本当の友達だと思ってたんだよ。それなのに……」
「ごめん……。ごめんね、緋奈。でもさ、わたしだって。緋奈のことを……!」
緋奈はどこか、諦観めいた表情で、
「謝らないでよ。――憎んでいるわけじゃ、ないと思う。あなたのことを。――たださ、白花が、一つしかなかった。その白花を得るには、よそから伸びる手を、遮らないと、いけなかった。きっと。欲しかったんだよ。わたしは、白花を。わたしだけの……」
緋奈の左目から、一筋の涙が伝った。
「緋奈。ごめんね、わたしは。何も、わからなくてさ」
すると緋奈は、右手を持ち上げて自身の髪を掻きむしった。眉を歪ませて、
「謝らないで!」
牢場にこだました。未命はとっさに目をつむる。次第に大きくなる嗚咽に、またうっすらと目を開ける。
緋奈は両手を口に当て、苦しそうに肩を震わせた。三度、四度、大きく蠢いた後、無理に何かを呑み込むような声を上げた。やがて静かになった。
涙の匂いが漂ってくる気がした。そのとき、未命は縫衣の声を聞いた。
「情が絡むようだね。――今は、必要なことを聞かせてもらいたい。――緋奈さん」
すると、緋奈は気だるそうに顔を向け、
「縫衣様……。あなたは、はじめから。――わたしを」
「――ええ。たしかに、見えたよ。巫女にはありえない、瘴気の
「ならば出会ったときに、喋らせればよかったのではありませんか。その刀で」
「人に刃を向けたことは――ほとんどない。苦手でさ。それより……。どこで手に入れたの? 種を。かずらの種子を」
「なぜ。――それを喋らなければ、ならないのですか?」
「なぜ……。そうね。場合によっては、白ノ宮や。――馬稚国の存亡に関わるから」
「え……」
緋奈はにわかに目を広げて、視線を泳がせた。それから、格子の下方を見つめながら、
「たしかに。驚いた……。あの、行商人が」
「行商人?」
と、思わず未命は口走った。緋奈は顔を上げて、
「そう。――ときおり来る、あの行商人。本当かわからないけど、
「禅治……」
「うん。未命と一緒に、禅治さんが広げた店に並んでいるとき。偶然、理久もいた。――そのあと、わたしは禅治さんが片付けをしているところに、通りがかって。すると、話しかけてきたの…………」
そこで緋奈が語ったのは、こんなことだった。
禅治は突然話しかけてくると、男心を籠絡する秘伝の薬がある、と云った。それは、縮れた赤黒い茶葉のようなものだった。願掛けを行う者の血で戻してから、普通の茶に混ぜて、相手に飲ませるのだと。
緋奈は翌朝、守護の朝餉の世話のときに、さっそく理久に実行した。
――その日の午後、理久が雛蘇ノ宮の下までやってくると、頬を染めて云った。
『きみは。緋奈、だね? あのさ。ちょっと、話をしたいって。そう思っていてさ……』
翌日の午後、森で落ち合うことになったのだが、結局理久はこなかった。赤黒い茶葉は少量しかなく、それで終わった。
――翌月にまた禅治がやってくると、夕刻に緋奈は話しかけた。
『たしかに。まことに残念ながら、効果は一日ほどでして。しかも、希少な商品なのです! そうそう手に入らぬものでして……。いや、しかし。貴女様の真心を、この禅治は応援いたしましょう。商人として……。そうですとも。そこで相談なのですが』
そうして禅治は、小さな黒い巾着袋を渡してきた。
『云うなれば私は、天なる長神様に隠れ、呪術を行う、ある方々とも繋がっておりましてな。――彼らは、巫女の血を欲するのです。ご存知はなかろうかと思いますが。かずら、というのです……』
禅治はかずらの種の使い方を教えてくれた。夜に巾着袋より取り出し、対象の髪や体の一部と共に土に埋める。霊気を注ぎ呪を唱える。――するとかずらの種は割れ、根の塊を育む。そこから驚くほど長い触手を伸ばし、標的を襲う。
血と霊気を吸ったあとは、再び土を掘り、赤く膨れた根の芯を取り出す。その芯は極上の素材として闇で取引されるのだと。
『それをいただければ、貴女様が使いきれぬほどの、
そうして緋奈は、『もっとも犠牲に捧げるべき』巫女を選んだ。
緋奈が口を閉じたあと、縫衣は云った。
「その行商、禅治は。なぜ、あなたと……未命さんに目をつけたの? 未命さんのことを、何か云っていた?」
緋奈は首を傾げて、
「わからない……。ただ、怖かった。あの人の、目の奥が…………」
一連の話を聞いたあと、未命はある情景を思い出していた。
◇
ある朝、未命は鏡の前に正座をし、髪を梳いていた。磨き抜かれた銅鏡は、明々と未命の顔を映していた。そのとき、隣に座る巫女――黄花という四位巫女が云った。ほとんど話をしたことはないのだが。
「ねえ、未命さん、悪いけど。櫛を貸してくださらない? お風呂に持っていったとき、なくしてしまってさ。次に行商が来たときに、いいのがあると嬉しいけれどね」
縫衣は横目に見て、
「うん。いいよ。ちょっと待ってね」
返ってきた櫛には、黄花の髪が絡んでいた。それを掃除する間もなく、
「あ、朝のお務めに遅れちゃうよ!」
と、隣の黄花が立ち上がる。未命も慌てて櫛を自分の籐籠に突っ込んで、
「ちょっと、あのさあ。もう……」
第三章 蒼い瞳 おわり
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