蒼い瞳 4

 夕餉を済ませてから、未命は縫衣を連れて白ノ宮を出た。縫衣はどこから借りてきたのか、左手に行燈を持っていた。


 ――用心のために、宮の外で夜を明かしたい。


 そう縫衣が云ったからだ。



 宵の森を進むと、やがて茅葺きの小屋が見えた。


「あそこ。あの小屋が……」

「うん、ちょうどよさそう」と縫衣。

「ちょうどいいの?」

「ええ。白ノ宮からさほど離れていないし」

「そう……」



 未命は理久との思い出を噛み締めながら、軋む戸を開けた。後ろから来た縫衣が行燈を掲げると、小屋の中が照らされた。


 壁には竹ひごや板がかかり、棚には錆びた鉈や壺。隅には藁束や簡素な寝具がある。古い木や埃、土の匂いがする。


 縫衣は囲炉裏の前に座ると、行燈の蓋を開けて灯芯を出した。藁や薪をくべて囲炉裏に並べると、火を移す。火影が波のように小屋の中へ広がった。


 縫衣は火を見ながら一呼吸して、「こういうところが、一番落ち着くよ」と呟いて目を細めた。その暗緑色の着物も火の影を含んでいた。



 未命はふと、隣にいるのが理久なのではないか、という錯覚に陥る。


 囲炉裏の火を見ていると、この小屋で重ねた理久との逢瀬が、幻のように思えてくる。右手の指先を口元に伸ばす。


(何だったの? あの日々は。わたしの中の、抑えきれない乾き……。今でも、まだ奥底にいる、あいつ。――蒼い眼の魔性。お前は、いったい誰なの? ねえ、理久。どこにいるの? ――どうして、今いてくれないの?)


 火は音をたて薪をみ、想念を焼いて呑み込んでゆく。かつて未命が、理久や生き物の血を飲み干してきたように。


 風が吹いて木々がざわめく。家が揺れる。夜渡吒やわたノ神の先触れだ。



『ごめんよ、未命、遅くなった』

『ううん、いいよ』

『具合は?』

『――わからない。頭が少し痛くてさ。――渇いて……そのせいかも』

『ほら、唇が白い……かさかさだよ』

『理久は……大丈夫なの? 血が、枯れてしまわないの?』

『枯れない。きみに触れれば』



 火影と火の音は夢想をもたらした。未命はまた己の唇に触れ、血の味を思い出した。仄かな塩気と甘さ。鉄と唾液の味。それが理久そのものの魂のように薫りたち、喉に胸に沁みた。



 縫衣はあぐらをかいて、火箸を右手に、囲炉裏の揺れる火を見ていた。呆れるほど、縫衣は黙っていた。


「――ねえ、どうするの?」


 と、未命は影を背負う縫衣に尋ねた。縫衣は前を見たまま口を結んでいた。


「ねえ。本当に明日、全てを話すの? 縫衣さん……。いったい、かずらって、何なの? 黄花さんは、何に……。いえ、誰に殺されたの?」


 また風が吹いて戸が鳴った。しばらくして、ついに縫衣は桃色の唇を押し開いた。


「薪は焼かれてゆく。しかるべくに」

「え? 何それ」

「一度燃え上がった火は、消えることはない。――薪を喰らいつくすまでは。だから……」


 すると何を思ったか、腰の白鞘を左手に持ち上げた。火は白鞘を仄赤く照らした。


「縫衣さん。あなたは……」

「これは、賭けでもあってさ。――けれど、やはりこうなると、思っていたよ。未命さん。――先に謝らなければね。本当に……すまない」


 と、縫衣は横目で視線を向けてきた。



 小屋の戸がぎしり、と鳴った。風の音ではない。もっと力強い。


 ひっ、未命は声を漏らした。


「な、何……。まさか…………」

「すまない。こうするしか、なかったんだよ」


 ついで、めきめきと激しい音がして、戸が内側に割れて、倒れてきた。


 蛇の頭の如き――茶色の触手が二本、侵入してきた。


「え、ああ……。かずら……!」


 未命はよろめきながら立ち上がった。


 一方で縫衣は、即座に戸の方に駆けていった。かずらに立ち向かうと思われたが、そうはせず、触手を飛び越えて外へ飛び出した。


 ついで信じられぬ、縫衣の大声が聞こえた。


「助けてーッ! 出たよ! 化け物が! 守護たちよ、ここへ来て助けて!」


(何よ! どうして? どうしたっていうの? 縫衣さん……)


 二本の触手は板敷に登り、がりがりと妙に硬い音をたてて進み、未命の許に迫ってきた。


「ちょっと、止めて! くるなッ!」


 触手の先の蛇の頭を足蹴りしながら、尻餅をつき、後ろへ退がる。どん、と棚に背がぶつかり、壺が落ちてくる。音をたてて割れる。


 なおも蛇が迫り、足先に触れる。


「いや……。どうして……」


 ついに蛇が足にたどり着く。ざらついた感触がくるぶしに触れる。蛇の、造り物のような顎ががばりと開かれ、右足に食いついてくる。


「痛……痛い! ああ……」


 ついで左腿にも痛みが走る。――冷たい。体の熱が奪われていくような感触。


「お、お。どうして……」



 そのとき、小屋の外から声がした。


「何事でござるか、これは!」

「来た……。魔性が現れたの!」と縫衣の声。

「何ですと? ん、これは……!」


 小屋に飛び込んできたのは、松明を手にした、白木の兜鎧の守護だ。


 さらに、その後ろから縫衣が現れた。


「あの蛇の如き触手――かずらは、地面から現れ、人を襲うの! 血を吸って……」

「何と……。そんな……」


 そうこうするうちに、未命の足の感覚が薄れてきた。蛇は口から血を滴らせ、赤味を帯びて、暗い目をまたたかせ、歓喜するように身悶えている。


 そこで縫衣が刀を抜いた。白鞘から銀色の刃が現れると、刃が光のように動いた。気がつくと眼前に、縫衣の姿があった。


 光が閃くとかずらの頭が、二つ床に落ちた。触手の断面から、血が噴き上がった。


 入り口の方には、三人の守護が詰めかけ、しかし呆然としていた。


 縫衣は彼らに振り返ると、


「見ての通り、この白ノ宮には人を襲う、おそるべき魔性が蠢いている! 血を吸うやつがさ……。見たよね、みんな……。しかと」


 頭を失った触手たちは、血を撒き散らしながら、綱が引くように退いていった。


 守護たちは仰け反り、触手の逃げ道を開けた。未命の足元にはまだ、木の玩具のような蛇頭が落ちていた。


 守護たちは顔を見合わせたが、やがて一人が云った。


「こ、これは縫衣殿。いったい……」

「見たよね? これが、人を襲い、血を吸って殺す魔性の正体。――わたしは、かずら、と呼んでいる」

「か、かずら……」

「そうよ。おそらくあの、黄花さんも」

「な、何ですと?」


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