夜を越えて 3
障子は白く光りたち、ときおり鳥の影が横切った。薄緑色の畳にもその影が流れる。
そこは宿の一階の部屋だった。未命は柱に背を預け、刀を研ぎにいった縫衣を待っていた。
心の中に浮かんでくる理久の顔に、つい問いかけてしまう。
(夢みたいだったよ。――ねえ、理久。二人で逢った、あの小屋でのこと。もしかしたらさ。――魔性が、
未命はきつく目を閉じて。口元を押さえる。そうしているとまた、蒼い目が闇の中に浮かび上がってくるようだ。
思わず呻くように口走る。
「何なの……。お前は。わたしを飢えさせて。動物や……巫女殺しまでさせて! お前はわたしを、どうしたいの……?」
心が乱れるほどに、呼吸が荒くなってきた。どくん、と胸が熱くなる。心の昂ぶりに呼応して、また渇いてくるようだ。
肩で息をして、部屋の中を見回す。――そこに鼠でもいたら、迷わず飛びついていただろう。
そのとき、襖が開いた。――縫衣だ。その顔を見ると不思議なことに、すう、と体が軽くなる気がした。
「思ったより、すいていたよ。おじいさんの、腕のいい
と、縫衣は左腰の白鞘を叩いて、街の匂いと共に部屋へ入ってきた。ふう、とため息をついて、縫衣は畳の上にあぐらをかくと、背中の行李を降ろした。
「買い出しは明日にしようか。――さて、今日はもうこの宿で休もう。夕餉には、名物の鰯つみれ汁が出るはずだ。――なあに、支払いのことは心配しなくていい。こう見えて、そこそこ蓄えはあるんだよ」
縫衣は白い犬歯を見せて微笑むと、懐に右手を当てた。そこに財布があるのだろう。
「縫衣……さん。わたしは。これからさ、どうなるのかな……」
未命がそう尋ねると、縫衣はまた、まっすぐな目を向けてきた。胸が痛くなるような透明な瞳で。それでもやがて、縫衣は行李に目を向けて、引き寄せ、蓋を開けた。
縫衣が行李の奥から取り出したのは、布――それも
それは金属の塊だった。
ともすれば、黒ずんだ鉄の酒杯をひっくり返したようでもある。――だとすれば未命には、夜渡咤ノ神の血の祝杯くらいしか思いつかないが。――そんな胴体には微細な紋様がぐるりと巡らされていた。鳥の羽や植物の蔓のような意匠。
鈴の頭には同じ鉄紺色の棒状の取っ手に、小さな輪がついていた。
縫衣はそのおぞましい鉄塊を、ざり、と音をたてて畳に置いた。
未命は目を広げて息を呑んだ。白ノ宮の
不思議な音が聞こえてくる。
キイイイィィィン………………
驚いて未命が顔を上げると、縫衣は鈴をじっと見下ろしていた。未命は思わず、
「なに……。これはなに? ねえ……。これは、鈴なの……?」
すると、縫衣は顔を上げて、瞬きした。――その透き通った瞳を見たときには、未命の耳鳴りはおさまっていた。
「縫衣さん、ねえ、何なのこれは……!」
縫衣は小さく頷いてから、
「
そう呟くに、問いかけるような目で、じっと見つめてきた。
「ほう、らん、りん……」
呟いて未命はまた鈴を見た。その鉄紺色に吸い込まれそうになる。やがて、縫衣は手を伸ばし、鈴を持ち上げた。再び黒繻子で巻くと、赤児でも抱くように、膝の上にかかえた。
障子の向こうの光が仄かに、赤らんできたように見える。日が暮れようとしている。どこからともなく、味噌の焼ける匂いがしてきた。――夕餉の支度がはじまっているのか。通りの方から、宿の呼び込みの声が響いてきた。
未命は頭を俯かせ、身に帯びた暗緑色の着物の生地と、その先の畳を見た。現実感がなく、ずっとあの、狭世の闇を漂っているような感じがした。
そのとき、縫衣が唾を飲み込む音がした。ついで、
「ごめんね。不安、だろうね。こんなのじゃ……」
見上げると、縫衣は続けてこんな話をした。
「想像の通り、わたしは。――未命さん。あなたのことを――いえ、魔性のことを、知っているの。たぶん。
訳があってさ、わたしはずっと、
わたしは――彼女をいくばくか、導くことができると思う。あなたも……。
――ああ、ごめんね、本当に。何て説明が、下手なんだろう」
「縫衣さん……」
「うん。あなたを、混乱させるつもりはないんだよ。ただ、春の雪解けのように、慎重なだけなんだ。わたしは…………」
未命は続きの言葉を待ったが、それ以上語られはしなかった。
夕餉は部屋に運ばれてきた。ゆっくりと平らげると、交代で浴場に行った。
布団は白ノ宮のものより随分安っぽい、肌触りの悪いものだったが、それがなぜか落ち着いた。
未命は目を閉じてから、隣の布団に眠る縫衣の寝息を聞きつつ、ぼんやりと思った。
(こんなに、静かな夜は、いつぶりだろう。――ずっと、騒がしかった。ずっと、嵐の中にいたみたいで……)
外では夜風が、ひょうひょうと哭いた。獲物を見失った夜鷹の声。あるいは、夜渡吒ノ神の誘いか。――眠気と気怠い重さが脳裏に溢れる。ふと、視界の端に、長い蛇のようなものが見える。
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