夜を越えて 2

 布団の中で目覚めた未命は、縫衣の姿を見つけた。


 囲炉裏の底には埋み火。その向こうに縫衣が壁を背にして目を閉じ――頭を傾けて静かな呼吸をしていた。眠っているようだ。


 未命はどうしたらよいか分からず、しばらく縫衣の姿を見ていた。不思議なことに、縫衣の近くにいると、いられた。蒼い眼の魔性が、引っ込んでいてくれる。



 やがて外から鳥の鳴き声が聞こえると、縫衣は瞼を動かし、目を開けた。左の入り口の方を見ると、「ずいぶん、寝たかな」と呟いた。ついで振り向くと、


「ねえ、都に――旺鹿おうかに行こう」


 未命は驚いて、


「え? 旺鹿に?」

「そう。食べ物がなくて。刀もそろそろ、研いでおきたいし」

「う、ん。でも、わたし…………」


 と、未命は守護たちの声を思い出す。


『どこだ! 犬を連れてこい!』『広がれ! 網を作れ!』


「わたし、追われてるよ……」

「そうか。いずれにしても、そんな格好だとね……」


 すると、縫衣は立ち上がった。未命は自身の姿を見るのだが、やはり逃げてきたままの、白い寝巻き姿だった。縫衣は引き出しを開けて、奥の方から着物を取り出した。




 ◇



 旺鹿は馬稚国の都であり、一帯の文化の中心地だった。そんな旺鹿へ至る山道を、暗緑色の装束を着た、行李を背負う二人が歩いていた。


 青い空には遠い入道雲。その向こうにあまりに眩しい太陽が輝いている。辺りには岩ばった道に、まばらな木々。どこまでも続く森。


 歩むうちの一人は縫衣。後ろに束ねた黒髪に、暗緑色の鉢巻をなびかせ、夏風の中を進む。


 もう一人は、同じような出立いでたちに、笠をかむり、後ろを歩いている。左腰には漆塗りの刀の鞘を黒光りさせている。


「こんな変装で、大丈夫かな……」


 未命が漏らすと、縫衣は背中で答えた。


「大丈夫だよ。――でもさ、もっと低い声で喋った方がいい。なにせ、銀狼衆のなんだから」

「う、ん。そんなこと云っても」

「ま、喋らなきゃいいかな……」


 そう云って縫衣は、すたすたと歩いてゆく。そんな背中を見ながら、未命は出がけの変装を思い出す。


 髪は後ろに縛って、余りを切った。顔は消し炭で少し汚し、いささか不自然ながら日焼けめいた色にした。胸は幸い、さらしを巻くほどもない。仕上げは着古した、銀狼衆の装束。そうして笠をかむれば、少年剣士に見えなくもない。



 ざりざりと小石を踏んで山道の先をゆく縫衣は、背中を向けたまま、


「顔色が、よくなったね」

「え?」と未命。

「昨日の夜に比べたら」

「そう……」


 未命はあの、蒼い眼差しを思う。魔性が静かにしてくれると、落ち着いていられる。岩ばった山道の路傍には名も知れぬ花、青草が風に傾く。――縫衣は云った。


「わたしは、ある程度はわかるんだ。――瘴気や霊気。人が負うものを」

「負う、もの……」

「うん。人は、たくさんのものを、負っている。――ときに、美しく。ときに、呪わしく。そして、さなかにいるとき、それが、その人のすべてになる」


 未命は体をこわばらせ、縫衣の背中を見つめた。行李と、ぶら提がる水筒が相変わらず揺れる。


 下り坂になり、林に差しかかったとき、未命は云った。


「あ、蒼い眼が、見えるの」

「蒼い眼?」

「ええ。一か月ほど前に、狭世はざまよに入ったときに。女の魔性に出会ってしまった……。蒼い眼の。それから、血に渇くようになって……」


 未命は続けて、鼠の血を吸ったことや、理久に血を分けてもらったことを話した。昨夜の猫のことや、巫女殺しが起きたことは、黙っていた。


 縫衣は林の中を進んでゆく。話は聞いてくれたようで、「そっか」と呟いた。


 やがて山道で立ち止まると、縫衣は振り返ってきた。


「大丈夫だよ。だから、慌てないで」


 真剣な眼差しに、未命は思わずぞくりとした。それに縫衣の眼差しは、心の中深くに突き刺さってきた。


(え? 誰に云ったの?)


 そんな疑問さえ感じる。――まるで、未命の奥底に潜む、に伝えたようだったからだ。



 林を抜けると、青い空の下に田畑や畦道が広がり、民家が立ち並ぶのが見えた。その先には馬稚国の都――旺鹿おうかがあった。


 都は堀と木塀に囲まれ、櫓や建物が連なっている。その先には、夏雲にそびえる馬稚城の天守閣。


「さ、もう少しだ」と縫衣は足早になる。

「待って……」と未命はまた追いかける。



 城下を東西に貫く大通りは、活気に満ちていた。


 未命はちょうど旅道具屋の前で、縫衣の隣に立ち尽くし、往来に目を奪われていた。


 町人や商売人に紛れ、馬稚の侍や役人もいる。小僧や、親に連れられた童。派手な着物のやくざ者や遊女なども。


「ふふ、その様子だと、あまり来ないの?」


 と、縫衣は話しかけてきた。未命は笠の下から、


「う、ん。わたしは、はじめて……。話には聞いていたけど。――こんなに、賑やかだなんて」

「そう。白ノ宮に来る前は、もっと静かなところで暮らしていたの?」


 そこで未命は口篭る。


「わからないよ。――四年前に、宮に来たとき。その前は……。わたし……」


 思い出そうとしても、かつての記憶は遠い陽炎の中の物語のようで、定かではない。


 ――そのとき、思いがけぬ声がした。


「御免。ご両人」


 見ると、白木の鎧を帯びた武士――白ノ宮の守護がいた。大柄の熊のような髭面だ。


「その出立いでたち。銀狼衆の方々とお見受けする。――つかぬことを聞くが、都で瘴魔騒ぎでも、ございましたかな?」


 守護の眼光は鋭い。おそらく、未命を追ってきたのかも知れない。――じろじろと縫衣を見ている。未命は笠をかむっているが、縫衣はあからさまに、銀狼衆の女剣士という風情で、嫌でも目につく。取り敢えず奇妙に思い、声をかけてきたのだろう。


 縫衣は答える。


「どうもこうも、銀狼の浪人者と云えども、ここは天下の往来。風に流れ、通りがかることもある。それに何か、問題でも?」


 すると髭面は舌打ちして、今度は未命に迫ってきた。


「貴殿は……。申し訳ござらんが、その笠を取って、顔を見せてはもらえぬか? 見たところ、二人とも女の剣士というか……。そんなことが……」


 未命は唇を噛み、手に汗して縮こまった。髭面の右手が伸びてきたとき、未命は低い声で云い放った。


「触るな、下郎が」


 すると髭面は眼光鋭く、


「何と……。これは失礼。しかし、そのお顔を、拝見したいものでござるな」

「なぜだ」

「仔細は述べられぬ」

「やめておけ」

「ほう、やめておけ、とは如何に?」


 そこで未命は髭面へ挑むように向き直った。


「修羅の道に男女は関係ない。――そもそも俺は男だ。――それに、銀狼衆では、生きた年がそのまま階級であると、聞いたことはあるか?」

「な、何だと……」

「ああ。四年という歳月を、俺は修羅として生きた。――そして、瘴魔に取り憑かれた、この眼を晒すことを、憚るのだ」

「何? どういうことだ」


 と、髭面は目元をぴくりと動かした。


「是非もない。俺の魔眼を見た者は、魔性の呪いを受ける。――女の魔性の呪いを、背負うことになる。すれば正気を失い、魂を喰らわれ続けることは必定。この、俺のように」


 髭面は後ずさり、喉を動かして唾を呑んだ。未命は右手を笠に添えて続ける。


「お前がそれで構わぬなら、いくらでも、とくと見るがいい。ただし、銀狼では苦情は、聞き入れぬぞ。――よいな」


 すると、髭面は口を動かして空気を喰って、遮るように手を広げた。


「や、やめろ。いい。もういい!」


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