第二章 夜を越えて
夜を越えて 1
未命の目の前をゆく剣士――縫衣は夜の森を駆けていった。左手に松明、右手に刀を持って。背中には籐編みの行李を背負い、竹筒が二本ぶら提がっていた。
草履が脱げそうになるたび、転びかけた。足の指が痛い。それでも未命は必死に、縫衣の背中に喰らい付いた。
周囲の気配は濃すぎる墨汁のような腐臭を漂わせ、荒い吐息と足音と共に付かず離れず追ってきた。――縫衣の松明か、あるいは縫衣の気配そのものを
森の暗闇はずっと続く。蒸すような森の空気を掻き分け、息を切らせていると、さながら水中で溺れる心地だ。
「ど、どこまで……?」
と尋ねるも、縫衣は黙って走る。どこに目がついているのか、突如振り向いて、未命の肩に迫る
「今は、黙って」
それだけ云うとまた、縫衣は滑るように駆けてゆく。未命はとにかく必死についていった。
坂道を駆け上がると、やがて急に視界が開けた。――そこは岩場になっており、木々もまばらだった。
縫衣は刀を鞘に納めて、ふう、と息をついた。
「ここまでくれば、たぶん大丈夫。――あそこは瘴気が、溜まりやすいんだ。低地で、森が深いから」
「そ、そう、なの……?」
縫衣は笠を頷かせて、
「ええ。このあたりは流れがいいし。多少は、護られている」
すると、縫衣は振り返って、岩棚の方へ松明を向けた。
「案内しよう。――銀狼衆の、隠れ家の一つだ。と、その前に」
「え?」
「喉、渇いているんじゃない?」
そう云うと、縫衣は水筒に手を伸ばして掴む。
「ほら、水を飲むといい」
「あ、ありがとう。うん……」
未命は受け取ると栓を開けて、口に傾けた。なぜかさほど、渇いてはいなかった。それでも、瞬く間に水筒は空になった。
「よし、行こう」
と、縫衣はまた、松明を闇に向けた。
松明の火に従って、木々や岩に落ちた影が、逃げるように移ろった。
小高い岩棚に近づいてゆくと、根元に木の扉が見えた。茂みに隠されており、昼間でも素通りしてしまいそうだ。
木の扉には長四角の錠前が付いていた。
縫衣は懐から木の板のようなものを取り出し、それを錠前に、下から差し込んだ。ごとり、と音を立てて錠前が鳴ると、扉を引いた。
しばらく細い、岩の隙間のような隘路が続き、そこを抜けると広間があった。――とはいえ、八畳かそこらの空洞のような場所に過ぎないのだが。
「いちおう、土足禁止なんだ」
と縫衣は屈み込むと、右手を伸ばして草鞋の紐を解いた。未命も同じようにした。
下には木の床が張られており、その手前に草鞋を置いた。
縫衣は部屋の真ん中の囲炉裏に近づいて、火を移した。背中の行李を降ろして横に置いた。
壁には木刀や斧や槍や毛皮が掛かっていた。その他、部屋には様々なものがあった。
綱にぶら下がる干し肉や干し野菜。並んだ刀掛け。酒桶。二畳分の畳と布団。積まれた藁束。棚と引き出し。
混沌とした匂いの中に、一際苦々しい、薬草めいた匂いもした。
縫衣は刀掛けに白鞘の刀を置くと、囲炉裏の前にあぐらをかいた。暗緑色の着物と袴が火に照らされた。笠を取って脇に置くと、後ろに束ねた黒髪が現れた。額に巻かれた暗緑色の鉢巻。――その下に真っ直ぐな眼差しがあった。
未命は半ば口を開けて、縫衣の姿を見つめていた。自分よりは少し年上のようだが、若い巫女と云っても通用するかも知れない、すらりとした体に、落ち着いた雰囲気。艶やかな小顔に繊細そうな細い眉がかかる。
しかしその、あまりに真っ直ぐな眼差しは、例えようがなかった。
銀狼衆と云えば、あの流れ者の蓮二とかいう男もそうだが、尋常な武士も道を譲り、袖すら触れぬようにする、狂犬の如き集団と聞く。暗緑色の装束は街中で見ると、それだけで人々に安堵と畏怖を同時にもたらすと聞く。
ことに瘴魔退治にかけては、武士の一団でも手がつけられぬ化け物を、冥府の呪術と剣術で瞬く間に破るのだと。――それが銀狼衆に対する並の理解と云うものだった。
ことにかけてこの縫衣は、あの銀狼衆の剣士だと云う。事実未命は、先ほどの地獄のような森の迷走の中で、その証左は嫌と云うほど目撃した。
やはり縫衣は銀狼衆の、凄腕の剣士なのだ。
(でも、あんな恐ろしい、銀狼衆のお侍が。なんで、こんな、綺麗な眼をしているの……。何だろう、この人は……)
縫衣は背中を向けると、背後にあった黒い鉄瓶を取った。行李に提げた竹筒を取ると、中の水を鉄瓶に注いだ。
囲炉裏に垂れた鎖の先に鉄瓶を付けると、ついで縫衣は行李から、木の小箱を出した。中には茶色い茶葉があった。鉄瓶の蓋を開けると茶葉を摘んで投じた。
「どうぞ。上物の黒麦茶だ。いくらか、落ち着くよ。――ぬるめにしてある」
目の前に差し出された木の湯呑みに、未命は手を伸ばした。はじめは正座していたが、足を横に崩して、茶を飲み始めた。
深く香ばしい匂い。湯呑みを傾けて茶を啜ると、舌に染みるようだった。喉が渇いていたらしく一息に飲み干した。黒麦茶とは云うが、どこか不思議な風味がした。
横にいた縫衣がまた、鉄瓶から茶を注いでくれた。縫衣は鉄瓶を膝の横に置くと、自身もぐいと湯呑みを傾けた。喉を鳴らして飲むと、ふう、と息を吐いて目を細めた。
「そろそろ、聞いてもいい?」
と縫衣が云ったのは、そのときだ。
「え? 何を?」
すると、縫衣は思いがけず柔和な表情で、顔を振り向けた。
「わたしは、縫衣。――それで、まだ、あなたの名前を、聞いていないよ。ね?」
「え、うん。――わたしは、未命」
「そっか。未命」
一人で納得したのうに、縫衣は頷いた。未命は尋ねる。
「縫衣さん……。あなたは、どうして、あんなところに。夜の森なんかに……」
そこで縫衣が首を傾げると、背中に束ねた黒髪がさらりと揺れて、火に照った。
「うん、それなんだけど。――まあね。いろいろと、夢で見たりして。何か、行かなくちゃならなかった。白ノ宮へ、さ。――それで、未命さん。あなたこそ、どうしてあんなところに?」
未命は思わず、縫衣の真っ直ぐな視線に背き、囲炉裏の火へ顔を向けた。
すると様々なことが思い出された。
理久と逢引きした、あの小屋の囲炉裏。燃えるような理久の眼差し。怯える黒猫の頭。緋奈の心配そうな顔。――闇の中に浮かぶ、蒼い二つの眼。
涙が溢れてきて、頬に伝った。縫衣の声がした。
「泣くといい。心の浄めだ。――いかに、苦いものだとしても」
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