きみが望むなら 8

 巫女殺しの騒動から三日後の夜。


 未命は気がつくと、雛蘇ノ宮の脇にある、かわやの手前に座り込んでいた。手元を見ると、灰色の小さな鼠がうずくまっている。――首元に切れ目があり、血が滴っていた。


 それに、左手の中には鋏があった。――裁縫に使う小さな握り鋏が。それで、鼠に切れ目を入れたのだろう。


(何よこれ……)


 未命は鼠を手放し、口元を拭った。すると袖に、赤い血が付いた。


(え……。わたし、血を…………。さっきまで、寝ていたはずなのに)


 石畳の脇には篝火が焚かれ、周囲を赤く照らしている。そのとき、足音が聞こえてきた。――きっと、見廻りの守護だろう。


「ん、誰かいるのか?」


 未命は冷や汗を垂らしながら、ひとまず厠の中に入って戸を閉めた。


「はい……」

「何だ……。厠か。これは、声をかけて悪かったな」

「いえ」


 守護が厠の前から去った後、未命は厠を出て、寝床へ戻っていった。


 未命は正味、渇いていた。――渇ききっていた。鼠の血は、わずかなりとも癒しにはなったはずだが、どうにも足りなかった。喉が渇き、体の芯が疼いて仕方がない。




 ◇



 翌る日の夜になると、未命は白い寝巻きを着て、雛蘇ノ宮の二階にある寝所で布団の上に座っていた。周囲には布団がずらりと並び、傍には行燈が灯っている。


 太鼓が三度鳴る。――三つ刻を報せる太鼓だ。間もなく消灯しなければならない。理久のことが頭に浮かぶが、理久とは夜番で逢えない。


 未命はあの、巫女殺しの話を思い出していた。――血を吸われたように干からびて、死んでいた巫女。


(あれは、わたしじゃない……。絶対に……)


 そう思うのだが、すると昨夜の鼠の死骸が脳裏に蘇る。


(気づかないうちに……。まさか……。わからない。でも違うよ! そんなわけ、ない……)



 そんなとき、緋奈が近づいてきた。


「ね、未命。今夜は、出かけないの?」


 どきりとしながら、緋奈の仔猫のような、好奇心が溢れるような目に答える。


「え? 何が……?」

「ふふ。最近さ、いつも、夜に抜け出してるよね。気づくに決まってるよ。ね、誰か、守護の人と、逢ってるの?」


 未命は理久の顔を思い浮かべるが、その幻影を追い払う。心の中を覗かれそうで。


「ううん……。そんなことないよ」

「そう。とにかくさ、あの、巫女殺しがあったのもあるし。――ほどほどにしてね」

「え、う、うん」

「その人と、よい関係ならいいけどさ。たまに、思い詰めてるようで。――困っていたら、相談してね。未命……」


 未命は緋奈の心配そうな表情を見て、


「うん。ありがとう。――もしそうなったら、きっと相談するよ、緋奈」

「そうだよ。そうしてね」

「いつも緋奈は、こんなわたしを、気にかけてくれるね」


 すると緋奈は、にこりと笑顔を浮かべた。


「当たり前だよ。同じ年にここにやってきた、仲間だからさ。――わたしも、未命に救われているから。ね?」



 やがて未命は行燈を消し、布団の中で目を閉じた。――外では風音が響いていた。


 暗闇の中に、蒼い二つの眼が見えてきた。その眼に見据えられると、体の芯が痺れ、熱くなり、胸が高鳴ってくる。


 ――昼間も常にその視線を感じるのだが、夜ともなると向き合わざるを得ない。


(やめて……。見ないでよ。ねえ……)


 そう強く思うのだが、念じるほどに蒼い光は強く近づいてくる。


(お前は何……? 何でわたしに取り憑くんだ……。どうして)


 体の芯が熱を帯び、汗がじわりと湧いてくる。とても寝ていられない。


 周囲には巫女たちの、静かな寝息が聞こえる。建物や巫女たちに染み付いた、白花と香と、汗の匂い。その中に感ぜられる霊気――血の匂い。


 どくん、と心臓が揺れ、喉の奥が熱くなる。


 闇の中に薄っすらと、隣の少女の肢体――柔らかそうな頬や首が露わに見える。


 遠い呻き声。「んん」と妙な声がして、二つ先の布団が妙に膨らんで蠢いている。


 ――構わない。巫女たちの戯事などはどうでもよいのだが、その声と汗の匂いが、ますます未命を飢えさせた。


 たまらず未命は布団を抜けて、一階へと向かった。草鞋をつっかけて外へ出た。



 入り口の横に篝火が、木の台の上で燃えていた。羽虫がたかり、火の粉と共に舞っていた。大きな蛾が、ちょうど火に堕ちて焼かれた。


 温い夜風が頬を撫でて髪に触れたとき、夜渡吒やわたノ神を思った。


忌名いみなの主――夜風なる夜渡吒よ。黒繻子くろしゅすの、夜の皇子よ。願わくば、このわたしの身をすぐに、夜の彼方に攫っていってください。――そして、三日月の短刀で、一思いに貫いて! わたしを…………)


 朦朧たる心持ちで、篝火や、守護の持つ松明や、白い建物の影を見た。夜空にはまさに細い三日月に、薄暗い雲がかかる。


 真夏の星々は砕かれた硝子の如く鋭く光り、救いなどないと嗤っていた。


 目の前に金色の目があった。――黒猫は目を広げて、体を硬直させている。


 猫の体は薄っすらと白い光のようなものに――霊気に包まれていた。猫の体の中から、甘い蜜のような霊気が溢れてきており、その匂いだけで未命は陶然となった。


 未命は目を細めて、猫の金色の瞳を見つめた。美しい瞳だった。


 不思議なことに猫は固まったまま、体を震わせている。


「どうしたの? 怖いの? 大丈夫だよ……」


 そう呟きながら、黒猫の頭に左手を載せて、首に廻して引き寄せる。そこでやっと、猫はぎち、と目を固く閉ざす。


 未命は懐から握り鋏を取り出した。



 目を閉じて血を味わう。「ん、あ、ああ……」思わず声を漏らす。体の芯が燃えるように熱くなり、震えてくる。白い霊気の流れが血を通じて、流れ込んでくるのを感じる。


 温かく満たされ、満たされるほどに飢えてゆく。甘し血は蜜のように口や喉を濡らす。喉を鳴らして唾と共に飲む。


「あ、ああ…………」



 そのとき、足音がした。


「おい。――貴様、何者だ」


 未命は猫の体を降ろし、顔を上げた。


 そこには、松明を持った髭面の守護がいた。確か理久と親しい、護杜ごととか云う男かも知れない。


「お、お前は巫女か? そ、その猫の血を、吸っていたのか? おい……。いんや、人間じゃねえな。ひえぇ」

「え、これは。ち、違う…………」


 すると、護杜は目を広げ、大声を上げた。


「誰か、助けてくれェェ!」


 やがて別の声もしはじめた。


「何だ! どうした!」


 護杜は声を荒げる。


「魔物だァ! 血を吸ってたぞ。人間じゃねえ!」


 未命は立ち上がると、本能的に駆け出した。先日の巫女殺しの騒動もまるで収まっていないし、捕まったらただでは済まない。――そう思ったからだ。


 門の方に向かったのだが、そもそもこの時間では門は閉ざされている。そこで思いついたのは、小屋へ行くときに通るだ。未命は石畳を駆け抜けると、男たちの声を背に、水桶を蹴り飛ばしてどかした。


 穴に身を差し入れると反対側に抜けた。夜の森がざわめく。木々や葉は、櫓の上に灯る篝火に照らされていた。


「そっちだ! 逃げたぞ! 抜け穴だ! くそッ」


 未命は夜の森に飛び込んでいった。


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