きみが望むなら 9

 背後から守護たちの声が聞こえてくる。


「どこだ! 犬を連れてこい!」

「広がれ! 網を作れ!」


 未命はそんな声から逃げるように、森を駆けた。根が足を引っ掛け、枝が体を遮る。森の切れ目からは三日月が見えた。


 狼や山犬の声がどこからともなく聞こえる。未命の気配に驚いた獣の影が、茂みに消えてゆく。梟の声が深く響く。


 暗い森をなぜ走れたのかはわからない。三日月の光によるものか、四位巫女なれどその鍛えられた感覚によるものか、はたまた、魔性の力によるものか。



 ――そして夜風。温い濃密な山気を帯びて、風は髪や頬や腕にまつわってくる。寝巻きの生地に這入り込んで肌に絡んでくる。


 美しき夜の皇子――夜渡咤の神が、先刻の約束に応えるかのように。その冷たくも温い手で、夜へと導いているようだ。闇は終わりなき黒繻子の暗幕だった。皇子の濡れた黒髪。


(だとしたら……。約束どおり、白銀の三日月で、わたしを、貫いてくれるんでしょうね! 間違いなく、終わらせて……)



 幾度か転んで地面を舐めた。舌や口の中を噛んだ。血と土の味がしたが、きっと、血の懲罰だと思った。


(そう……。わたしはあまりに、奪ってきた。吸ってきた……。それに比べれば、このくらい……)



 少し目が慣れてきたこともあり、森の獣道がよりはっきりと見えてきた。


 息を切らし、血を味わいながら走り続ける。


 開けたところに来ると、目の前に大きな木の影がそびえていた。そこに近づいて手をついたとき。



 がさがさと、茂みが揺れた。


「ひっ」


 と声を漏らしてそちらを見る。


 ――これ以上、どんな恐怖があるというのだろう。果たして茂みから現れたのは、二匹の蛇のように見えた。暗い地面を這う二匹は滑るように迫ってきて、足元に触れた。


「やだっ。何……」


 蛇は左右の足首に至ると、這い上ってきた。右側の方がやや早い。腿の辺りまでやってくる。きつく縛られる。


(夜渡咤ノ神よ! お願い、早く、わたしを連れていって! もう何も感じない、闇の向こうへ)


 ついで、茂みの方から音がした。次なる蛇が頭をのぞかせていた。



 ――そのとき、未命は赤い光を見た。


 それは暗闇に光る松明だった。松明の火に見えたのは、着物姿に浅い笠をかむった侍のようだ。


 というのも、左腰に刀の鞘が見えたのだ。それも、白柄に白鞘だった。


 侍は左手に松明を持ったまま、右手を伸ばして抜刀した。


「落ち着いて」


 侍はそう云ったのだが、未命は驚いた。――侍の声は白ノ宮でよく聞くような、女の声だった。


 侍は刀を振り上げると、ひゅう、と風を斬った。すると未命の脚に絡んでいた力が外れた。ついで侍は蛇の増援の方へ迫り、同じように刀を振り下ろした。



「さ、ここを離れよう。話はあとだ」


 未命は何とか座り込まず、大木に寄りかかっていた。


「え、で、でも。それに、あなたは……?」

「わたしは、縫衣ぬい銀狼衆ぎんろうしゅうの剣士。――それより、早く。別の瘴魔も、集まってくるかも。走れる? いや、逃げるほかに、どうしようもない」


 ちょうどそこで、周囲の闇がざわめきはじめた。獣の唸り声。か細い啜り泣き。かさかさした、得体の知れぬ音。


 侍の笠の下には声のとおり、女の小顔が伺えた。真剣な眼差しは、松明の火を含んで赤く光った。未命は大木から離れて、


「わ、わかったよ……」

「あなたを救う。――――あなたに、生きる気があるなら」



 未命はその女――縫衣の背を追いはじめた。


 着物は闇の中で黒っぽく見えた。いや、暗緑色か。それに、銀狼衆と云っていた。


 たしか、瘴魔退治を生業なりわいとする、恐れられている侍集団のはずだ。


(だとしたら、どうして、わたしを……。わからない。何もかも……。夜渡咤ノ神よ。お前がこの剣士を、迎えに来させたの? ならば、もっと深い夜に、誘うというの…………?)




 ◇



 理久は騒ぎに気づいて目覚めた。あたりは暗かったが、火が灯りはじめていた。守護の寝所はざわめきたち、怒鳴り声が聞こえてきた。


「総員起床せよ! 早う参れ!」


 すると別の守護が近づいてきた。


「おい、聞いたけどよ。女の魔物が出たらしいぜ」

「魔物だと?」と理久。

「ああ! 猫の血を吸ってたんだとよ! それもどうやら、四位巫女の、未命って奴じゃねえかって、大騒ぎだ。そいつが、森へ逃げ出したんだとよ!」


 理久は枕元の刀を左腰に差して、麻の寝巻きのまま外に飛び出した。


(この前の、巫女殺し……。それに、猫の血を……。未命、どうしたって云うんだ。きみは……)


 いまだ現実を受け入れられぬ気持ちのまま、理久は松明を受け取り、門へと向かった。


 五十人からなる捜索部隊が森に入り、未命を探すことになった。


 やがて二刻ほどで朝日が昇ったが、見つけることができず、守護たちは白ノ宮に戻ってきた。




 ◇



 理久はこの日も、門前の見張り番だった。


 引き続き未命を探す部隊もいたが、日常と変わらぬ警備体制も維持されていた。


 未命のことが気がかりであったが、どうすることもできなかった。


 太陽が中天に差しかかる時分、理久の眼前に何かが落ちてきた。――どうやらひとひらの羽根のようだ。茶褐色の芯に、焦茶色の羽根が重々しく付いている。


 羽根が地面に落ちると、あまりの大きさに理久は驚いて腰を折り、左手で拾い上げた。そして空を見る。


 頭上から『がさり』と音がした。青空に浮かんでいたのは、焦茶色の影の塊だった。――大鷲か何かのように思われた。それに、頭も異様に大きいようだ。


 太陽の下、その怪鳥の先端には丸みを帯びた大きな頭が見えた。


 理久は口を開けたまま、しばらく目を奪われていた。怪鳥は白ノ宮の上空を見下ろし、ぐるりと旋回すると、



 ギエェェェ……



 と一哭きし、翼をはためかせて空へ舞っていった。


(何だ……。何だあれは。瘴魔か? 何の化け物だ……)


 理久はじっと、その影が彼方へと消えてゆくのを見ていた。




 第一章 きみが望むなら おわり


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