きみが望むなら 5

 森には水楢みずならや杉やひのきの立ち並んでいる。


 辺りには蝉の声が絶え間なく響き、時折森を吹き抜ける風は、心地よい音で木々をざわめかせた。


 理久はそんな木漏れ日の中にいた。紺色の着物に同じ色の袴。左腰に刀を帯び、右手に木刀を提げている。


 そこは、白ノ宮の近くにある修練場から、ほど近い場所だった。



 下方に向けられた理久の視線の先には、でこぼこした地面に落ちた、黒い影があった。


 理久の心の中には、昨夜の未命との記憶が渦巻いていた。



 溢れるような黒髪。白花と綿の甘い匂い。唾液の味。血の匂いと血の味。――未命の温もり。


(いったい、あれは何だったんだ……)


 そんな思いを抱きながら、熱くたぎるような胸の脈動を感じた。


(飢えたきみを、助けなければ……。そう思ったんだ。それだけだ……。それ以上のことは、何も)


 なのに思い浮かぶのは、潤んだ透明な瞳や、血に濡れた唇、襟から覗く白い胸元ばかりだった。


「だめだッ。俺は、こんなじゃ……」


 呟いて、右手の木刀を持ち上げる。右足を引いて、正眼せいがん――正面に水平に構える。



『影に克て。――理久よ』



 幾度となく、父より聞かされた言葉だ。理久は目を細めて、影に目を向ける。


 息を止めて木刀を振り上げると、影も動く。


「いやァッ」


 気合い一閃振り下ろすと、影の斬撃は滑るように動き、理久の体を断ち斬る。――そんな想念に襲われる。


 理久は顔や体に汗を滴らせ、息を吐く。


(だめだ。まだまだ、俺には……)



 そのとき背後に足音がした。――見ると黒衣の侍、蓮二がいた。相変わらずの蓬髪に、左眼の上を走る傷痕が目についた。


「変わった稽古だなァ」


 理久は木刀を降ろすと、


「蓮二殿……。そうかも知れませんね。天清流の、影斬りという稽古です。影に勝つというもので……」

「そうか。――どうせなら、あっちの修練場で、守護どもと混じったらどうだ? 退屈だろ?」

「いえ。俺はこの天清流を、まだまだ磨かねばなりませんので」

「そうかよ。――けどよォ、視野を広げるのも、大事だぜ」


 それに、理久は目を細める。


「そうだとしても、変わった剣術は、乱れになるので」

「何だァ、そりゃ……」


 蓮二の声が低くなる。


「気に触ったのなら、お詫びします。――しかし、蓮二殿の剣術は、かの瘴魔退治の……銀狼衆ぎんろうしゅうの剣術だと聞きます。――人の剣術とは、異なるものではありませんか……」


 すると蓮二は唾を吐いて、


「まあな。ろくなもんじゃねえよ。かの御用剣術、と比べたらなァ」


 蓮二はくるりと背中を向けた。去り際に、


「だがよォ、影を斬るにゃ、邪剣が持ってこいかもなァ」




 ◇



 理久は木陰に座り、竹筒――水筒を傾けて水を飲んだ。太陽は傾き影が長くなった。鴉の鳴き声が聞こえてくる。


 潤む夕日の西空は、気がつくと紫色になりかけている。なぜか未命の髪の色を思い浮かべる。黄昏が近い。風がにわかに冷たく感ぜられた。


 ――そんなときに、妙な匂いが漂ってきた。


 強いて云えば、濃い墨汁のような、きつい匂い。獣脂の匂い。


 茂みががさりと鳴ると、獣の影が現れた。



 ゴフゥゥ……



 と低い声で唸ったのは、大きな猪のようだった。――それに目が赤黒く、体からは妙な黒い湯気のようなものが見えた。


 直感的に理久は悟る。


(瘴魔……! なぜ……?)


 とっさに立ち上がると、理久は左腰の刀の鞘に右手を伸ばす。


 正眼に構えたところに、猪はまた「ゴルルゥゥ」と唸り、突っ込んできた。理久は汗でぬるつく手を動かして、渾身の突きを繰り出す。


「イヤアッ……!」



 しかし虚しくも、切先きっさきは猪の額に弾かれた。なにしろ、全身に針金の如き獣毛が逆立っており、あまつさえ、猪の頭蓋骨など岩盤も同然だ。


 猪の赤黒い目がますます光を帯び、逆立った牙が迫ってくる。


「うおッ……!」


 理久は横腹に衝撃を受け、地面に転がる。右手から刀は失せた。見上げるとまた、先に猪の鈍重な図体が見えた。涎を垂らし、後ろ脚を幾度か蹴上げ、鼻息を荒げている。


 ゴゴフゥゥ……


 理久は横坐りになり、右手で突かれた右腹を押さえ、息を呑む。――ついに猪がまた、突っ込んできた。


「くそッ。止めろ……」


 そのとき、理久の目前に黒い影が覆った。鈍い音がすると、「グゴォ」と猪の唸り声がした。


 そこには黒い影――蓮二の横顔があった。どうやら蓮二が、猪に蹴りを喰らわせたようだ。


「小僧、まだやってたのかよ! ッたく。妙な匂いがすると思えばよォ」


 そうこうするうちに、また猪は怒りの声を響かせ、突っ込んできた。


 そこへ蓮二は左腰の太刀を抜くと、大きく右足を引いた。岩でも持ち上げるように体勢を落として。――おまけに地面すれすれに太刀を下げた脇構え。


 理久からすると、見たこともない、不細工な荒々しい、構えとも呼べぬ構えだった。


 猪が目前に迫ると、蓮二は大きく胸を膨らめて息を吸ったようだ。



オーン!」



 叩きつけるような蓮二の大声に、鳥たちが羽ばたいて逃げた。猪はぶるり、と体を震わせて足を止めた。蓮二の右足が踏み出されると、太刀が弧を描くように回転し、猪へと振り下ろされた。


 肉を断つ重々しい音。猪の断末魔が森に響き渡る。




 ◇



 松明を持った守護たちが、猪の骸を囲んでいる。


 蓮二は杉の大木にもたれ、そんな光景を静かに見守っているようだった。


 理久はいまだ興奮醒めやらぬまま、蓮二の横に立っていた。



 守護たちは、白木の甲冑に身を固めた者もいれば、理久のように非番の、紺色の着物姿もいた。


「珍しいな、瘴魔がこんなところまで、やってくるなんて」

「おい、川に浸けてから、皮を剥ごうぜ。肉は鍋によお」

「精力がつくぜ」

「いや、瘴魔を喰うわけにゃ、いかんだろう」

「それより、理久がやったんだってよ」

「違う違う、馬鹿が。そんなわけねえよ。蓮二殿だ」

「なるほどな、さすが、元銀狼衆」



 そんな議論が交わされる中、理久は蓮二の横顔を見ていた。左眼の上を縦に走る古い傷痕を。松明に照らされた、陰影がきつく浮かぶ相貌を。


「俺も……」と理久が口走ると、「何だァ」と蓮二は太い眉を動かした。

「俺も、強くなれますか」


 すると蓮二は腕を組んで、じっと猪の骸を見ていた。


「あの……」と理久がまた問いかけようとしたとき、


「小僧、お前に、守るモンはあるのか?」

「え? 守る、もの……」


 蓮二はふいに目を向けてきた。瞳の中に底知れぬ夜闇と、松明の炎が宿っていた。理久は気圧されながらも、半ば直感的に未命の顔を想い描いた。


「あ、ある。――俺には。ま、守るべきものが」


 すると、蓮二は苦々しく口をぐいと歪めた。


「けッ。益体やくたいもねェ。格好つけてるうちは、守れねえよ」


 そう云って組んだ腕を解いて、大木から背を離した。


「あばよ。俺ァもう行くぜ。――腹が減って敵わねえ」


 歩き始めた蓮二は、ふとまた足を止めて、背中で問いかけてきた。


「そういや、小僧、お前の名は?」

「理久……」


 すると、蓮二は右手をひょいと挙げてから、何も云わずに歩き出した。


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