きみが望むなら 6

 雛蘇ひなそノ宮の二階に、若い――十六歳かそこらの巫女たちが壁の銅鏡に向かい、並んで座っている。


 二階に暮らすのは主に、見習い巫女の上の、四位巫女たちだ。


 黄金に磨き抜かれた銅鏡は朝の光の中で、巫女たちや部屋を明々と映している。外からは小鳥の声や森を渡る風音。早起きの蝉の声が聞こえてくる。


 白木と白花のかぐわしい香りが満ちている。



 ――そんな十ばかり並んだ鏡の前に、未命も正座をして、衣服を直していた。――白い小袖を整え、ついと覗く朱色の掛け襟を押し込み、背を伸ばす。――もし乱れがあれば上位の巫女に叱られるし、見習い巫女にも示しがつかない。


 未命は口を結んで油断なく、髪を梳り束ね、銀色の水引で留める。


 そうしながらも、ふと鏡の中の己に目を向ける。


 二つの丸い瞳がじっと見返してくる。その瞳を見ていると、あの闇の中で出会ったの姿が脳裏に浮かんでくる。



 あの日――いつものように、神繋かむつなぎノ宮で、先輩巫女の導きにより瞑想に入ったとき。


 繰り返し聞こえる鈴の心地よい音の中で、深い深い闇に降りていった。


 狭世はざまよ。――それは現実たる現世うつしよと、神々と魂の世界たる常世とこよの、間にある世界。


 そんな狭世に流れる霊気に身を浸し、どこまでも流れてゆく。その先でいつか神と繋がり、霊受たまうけを果たすため。


 けれど、その日に未命がたどり着いたのは、これまでにないほど深く、遠い場所だった。


 暗闇の中に、赤い光がちろちろと、あちこちに燃えていた。奇妙な、あまりに深い場所。そこに、あの魔性がいた。


「――ようやく」


 そう聞こえた。少し掠れた、深みのある女の声だった。二つの蒼い目がきらりと、闇の中に光った。


 背中や腕が震えた。蒼い瞳が近づいてくると、未命の視界は突如真っ暗になった。


 気がついたとき、未命は先輩巫女の膝に頭を載せて眠っていた。見上げると、彼女の白い喉元と、瑞々しくも熱く肌の下で脈動する、大小の血管が見えた。――それ以来、未命は血の渇きに襲われるようになった。


 いつか人を襲ってしまう気がして、仕方なく小動物を捉え、血を吸うようになった。――とはいえ、欲しいのは血、そのものではない。血と共に溢れてくる霊気を求めていた。



「ねえ、大丈夫? ――未命、ぼうっとしてさ」


 話しかけてきたのは、四位巫女の緋奈だ。未命は顔を上げて、鏡越しに緋奈の顔を見る。同い年ではあるが幼なげに見え、その無垢な感じに、どきりとする。


「う、ん。大丈夫……」と答えたものの、

「全然、大丈夫じゃないよ。――何かあった?」

「え? そんな……」


 すると緋奈は微笑し、


「そっか。そういうことかな。――ねえ、気になる人が、いるとか? 守護の誰かとか」


 未命は顔を俯けると、


「ち、違う。わからない。わたしは……」

「ふふ、隠さなくたっていいのに。――思いつめるのは、よくないよ。ね、とにかくさ。何かあったら、相談してよね」

「うん。――ありがとう」

「さ、掃除に行かないとね」


 と、緋奈は顎を上げて、一階への階段の方を見た。



 正午、未命は雛蘇ノ宮の縁側に腰を降ろしていた。他の巫女たちも午前の仕事を終え、竹筒の水筒に口をつけたり、裸足になって足を投げ出したりしている。


 周囲には白木の建築が立ち並び、中天の太陽は明るく境内を照らした。蝉の音も騒がしい中、巫女たちのお喋りもとめどない。


 男ぶりのよい守護の話。たまに振る舞われる甘味の話。故郷の話。先輩巫女の噂や愚痴。


 ――さながら朝の雀たちのさえずりのように甲高くも、途切れることがない。


 そんなときまた、遠くの方でざわめきが起こった。


「ねえ、何か売ってるよ」


 と、巫女の声が聞こえてきた。すると周囲からも、「見てみようよ」「え、何それ!」と声がして、何人かが立ち上がった。数人は部屋へ小遣いを取りに戻り、数人はそのまま門の方へ向かった。


 未命も緋奈と共に門の方へ行った。



 いかめしい二人の守護が、白木の兜に鎧を帯びて門の両脇に立ち、鉾を立てている。


 その視線の先の、門にほど近い境内の一画に、店があった。


 ――とはいえ、呉座を広げ、そこに品物を並べた程度のものだったが。


 大きな袋や箱を傍に置く、恰幅のよい中年がいた。


 その男は、日焼けしたふっくらした顔に、山吹色の大きな頭巾と羽織。人懐っこそうな柔和な笑顔で、


「さあさあ、巫女のみなさま、お侍のみなさま、あるだけの、売り切れ御免でございますよ! 西の楼迦国ろうかこくの、見事な翡翠のかんざし! それに、お侍様方には、名のある酒器の揃えもございます。さあさあ!」


 人々は物珍しそうに集まり、行商を囲むのだった。


「ねえねえ、すごいよ、あの綺麗な宝玉! それにあの、首飾りとか……」


 と、緋奈は目を輝かせて指をさす。




 ◇



 夜ごとの逢瀬はついに、五夜目となった。理久が小屋に向かうと、灯りが漏れてきていた。――思いがけず、先に未命がいたのだ。



 未命は理久を見るなり腰を浮かせた。――囲炉裏の火に照った顔に、瞳を潤ませ。


 言葉もなく理久は近づくと、未命を抱き寄せた。やはり不思議な匂いがする。熱い吐息を漏らし、未命は下唇に吸い付いてくる。


 未命はいくらかを憶えたらしく、犬歯で下唇を噛んでくるようになっていた。


 未命の胸の膨らみや、体の熱が伝わってくる。


 下唇に痛み。――血の味が広がる。ざらついた未命の舌にも、血の味が沁みていた。


 甘い吐息が絶えずくすぐってくる。理久は目を閉じて、未命の渇きを受け入れた。


 ――それでも、未命はかろうじて理性を保っているようだった。間もなく未命は、理久を突き飛ばすように腕を張った。自分が求めてきているのに。


「だめ……。理久……。もう、だめだよ。これ以上は…………」


 未命は目を貪婪どんらんと輝かせ、唇に血を垂らしていた。やはり目の底には、ちらちらと蒼い光が見える気がした。


 理久は自身の唇を舐め、血と唾液の味を感じた。


「俺は、夜ごとに、渇いていく感じがする。――未命。もっと、俺たちは、深く…………」


 すると未命は俯いて、


「だめ……。今よりも近づいたら、きっと、わたしがもう、止められなくなるよ……」

「構わない」

「だめだよ……。ね、理久」


 そうして未命は着物の襟や裾を直して、囲炉裏の炎に向かって座った。



 夜風が唸り、外で木々を揺する音が響くと、理久の体の芯がいささか落ち着いてきた。口元を拭う未命の横顔を見つめて、


「そういや、どうなんだ? 未命の中の、魔性のこと。誰かに相談したのか? 魔性のせいで、きみは、こんなふうに……」


 未命は火を見つめたまま、


「え、うん。――――でも」

「でも?」

「う、迂闊に云ったらさ。追い出されるかも……」と未命は顔を向けてきて、「せっかく、理久と、出会えたのに」

「未命、きみは……」


 理久はそう呟いたきり、何も云えなかった。


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