第31話 ユリ姉



 === 視点:八木駿矢 ===




 ユリ姉が死んだ。

 それは同時に俺の人生も終わったことを意味していた。


 残りの人生、生きる意味のない消化試合。


 すぐに俺も、死んでやろうと思った。


 けど、死ぬ前に一つ、やり残したことがある。


 最後に、ユリ姉の感情を知ってから死にたい。


 ユリ姉が死んだのは、気持ちを理解できなかった俺の責任だから。


 あのとき、俺はなんて声をかけるのが正しかったのか。


 その正解を知ってから、死のうと思った。






 高校に上がってから、俺の楽しみは塾にだけあった。


 正確に言うと、塾の帰り道。


 家の方向一緒だし夜道は危険だから、という口実で成り立ったユリ姉と二人だけで帰る大切な時間。


 その時間のために、俺は学校に行かずとも塾には毎日顔を出した。


 ユリ姉のいない学校に俺はハナから興味がない。


 学校に来ない不良だ、なんて言われるが、俺からすれば行きたくもないのに無理して学校に行ってる奴らの方が理解できない。


 人生、有限だろ。


 やりたくもないことに時間を割くとか、どう考えても無駄じゃん。


 ユリ姉に心配されたから最低限学校へ行くようにしていたが「あ、これ意味ねぇな」そう思ったら即、俺は帰宅した。


 我慢を重ねても、自由に生きてても、どっちにしたっていつか死ぬ。


 だったら俺はやりたいように生きる。


 そういうスタンスでこれまでの人生を過ごしていた。


 しかし一方で、ユリ姉はそうじゃなかった。


 自分ではない誰かを常に優先して、いつも人のために命を削っていた。


 他人に優しくあろうとする人間は、ユリ姉以外にもこの世界にいるとは思う。


 しかし、人間が他人に優しさを見せたとき、それは大きく二つのパターンに分かれる。


 手を差し伸べることで後々メリットになる場合と、優しくしたところで何一つ利益が生まれない場合。


 別に前者のケースだけ重視する奴を、決して否定するつもりはない。


 だが後者の状況になったとき、悩むことなく助けようと動ける人間は、美しい。



「駿矢くんが、笑ってくれて良かった」



 自分勝手に生きて孤立していた俺に、そう声を掛けてくれた日からずっと、俺はどんなことがあってもユリ姉の味方でいようと思った。


 ユリ姉が幸せに生きてさえいえば、それだけで良かった。


 だから、目の前でユリ姉が身を投げようとしたとき、心臓が止まりそうになった。




 その日、俺は塾で居残りを食らった。


 どうにも不良生徒として悪名高い俺がいることで塾の評判が悪いらしい。


 知らねぇよ、と思った。


 どうにかならないか、と塾の経営顧問たちと話し合うため、俺はユリ姉に先に帰るよう伝えた。


 大事な帰り道の時間を奪われる訳にはいかなかったが、今後塾に通えなくなる方がマズい。


 長い目で見て、今回は居残った方が賢明だと判断した。


 しかしながら、話し合いは死ぬほど面倒くさかった。


 あ、これ意味ねぇな。


 つーか、塾をクビになってもよくないか?


 元々、夜遅い時間にユリ姉を一人で帰せるのが心配だから、とかそんな感じで始まったんだから、これからも俺が迎えに行って一緒に帰ればいい。


 つまり、塾を辞めても帰り道の時間は継続できる。


 じゃあ、この話し合いは無駄だな。


 俺は塾の講師たちを振り払って、一足早く塾を去ったユリ姉のあとを追った。




 時刻は22時14分。


 通常22時に終わるため、走っても間に合わないような気がした。


 街灯も多く車通りの激しい県道を外れ、徐々に明かりの少ない住宅街に近づく。


 その途中にある、長さ20メートルほどの無機質な一本の橋。


 その橋の欄干にそっと手を置いて、無感情に真下を見つめるユリ姉の姿があった。


 ユリ姉の視線の先には、さらさらと音を立てて流れる川があり、その水面におぼろげな月が浮かんでいた。


 声を掛けようとした刹那、ユリ姉の上体が前に倒れた。



 …………は?



 頭が真っ白になった。


 急いで駆け出し、川に身を投げようとしたユリ姉を止める。



「…………あれ、駿矢くん?」


「なにやってんだよ!」



 ユリ姉に声を荒げるのは、生まれて初めてだった。



「……ごめん。ちょっと、ぼーっとしちゃってた」



 ユリ姉が顔を伏せながら申し訳なさそうに謝る。



「謝らなくていいから、話してくれよ」



 激しく動揺していた俺は、とにかく冷静になる時間が欲しかった。


 ひとまず場所を移すことにして、廃れた公園に行き、隅に置いてあるベンチに二人で座った。


 そこへの移動中、互いに喋ることはなく、俺はただ泣きたい気分だった。


 ベンチに腰を下ろし、周囲に人がいないかを確認する。


 真っ暗なこの空間に存在するのは、俺とユリ姉の二人だけ。


 こんなにも悲しい二人きりの状況は未だかつてなかった。



「……なんでだよ」



 説教なんかをするつもりはなかったが、怒っているように聞こえてしまったかもしれない。


 しばらくの間、ユリ姉は黙ったままだった。


 黙秘しているのではなく、悩みながら言葉を選んでいるような気がしたから、信じて待つことにした。


 向こうに見える一軒家の部屋の明かりが一つ消えかかったとき、ようやくユリ姉が口を開く。



「あの、これはずっと前から、私がそういう風に生きてきただけで、本当に誰も悪くなくて、私が悪いだけなんだけど」



 下手な言い訳をするような歯切れの悪さだった。


 それに対して、俺はただ黙って続きを待つ。


 ユリ姉は悪くない、と言うには、まだ早すぎる気がした。



「ずっと、誰かの笑顔を見るのが好きだったの」



 ユリ姉は、回顧するように語り出した。


 ずっと、人の笑顔が好きで、人を笑顔をさせたくて、そのための行動を選んできたと言った。


 優しくすると、皆が喜ぶ。

 期待に応えると、皆が喜ぶ。

 笑って話しかけると、皆が喜ぶ。

 皆が笑顔になってくれると、自分も嬉しい。



「……自分のこと、すごい善人みたいな言い方で恥ずかしいな」


「ユリ姉が善人じゃないなら、この世に善人なんて一人もいないよ」



 耳を傾けながら、俺はこれまでにユリ姉から与えられてきた言動を振り返っていた。


 知ってる。


 ユリ姉のそういう性質を、俺は知っている。


 どれも、身に覚えがある。


 努力する姿も、言葉の選び方も、広い視野で周りの人たちを気にかける姿も、それらはいつも温かさがあった。


 打算的で利己的な優しさじゃなく俺のためにしてくれているんだと分かって、いつも救われていた。



「……でもね、あるとき、ふと」



 自分のことがわからなくなった、とユリ姉は言った。


 自分が何を好きか。


 自分が何をしたいのか。


 これから先、何になりたいのか。


 高校三年生という自分の将来を考える時期に、自分のことが何一つわからない。


 私って空っぽなんだ、とユリ姉が自虐的に笑う。



「実は最近ね、何をしてても、楽しくないんだ」


「……だから死のうとしたのか?」


「あっ、いやっ、違うのっ」



 ユリ姉は大きく首を横に振る。



「あの橋渡ってるときに、つい下を見てたら………えっと、なんていうか」



 ユリ姉が苦し紛れに選んだ言葉は、想像以上に酷かった。



「その、吸い込まれそうになった、というか、楽になれるんじゃないかなって、思っちゃって」



 聞いて、絶句した。


 違わない。


 楽になろう、は死のうするのと一緒だろ。


 俺にはその感情が理解できなかった。



「危ないことしちゃったね。駿矢くんが来てくれて、良かった」



 虚ろげなユリ姉が頭を下げた。



「迷惑かけちゃって、ごめんね」


「…………別に」



 そう答えて、どうしようか、と次の言葉に困った。


 俺はこれまでの人生、ユリ姉を肯定して生きてきた。


 ユリ姉の味方として、ユリ姉が一番正しいと信じていた。


 でも今は、ユリ姉の感情を肯定してはいけない。


 肯定したら、ユリ姉が消えてしまう。


 ユリ姉がいない世界。


 考えて、ゾッとした。


 恐ろしいほどに背筋が凍った。


 ダメだ。そんなのは絶対にダメだ。


 ユリ姉がこの世から消えるなんて、あってはならない。


 だから、否定しろ。


 無理にでも否定しろ。


 ユリ姉を否定さえすれば、ユリ姉は生きる。



「なんつーか、さ」



 俺は、世界で一番の大馬鹿者だった。



「そんなことに悩んで、命を危険にさらす必要ないだろ。だからユリ姉は、間違ってるよ」



 一度口に出した言葉はもう戻らない。



「…………うん。ごめんね」



 そのときはまだ、間違ったとすら思わなかった。


 俺が正しいと勘違いしていた。


 間違っているのはユリ姉の方。


 川を見下ろして吸い込まれそうになるなんて、馬鹿げている。


 抱えている悩みも変だ。


 自分のことがわからない?


 自分の意思がわからないなんて、そんなはずがないだろ。


 だからこれからはユリ姉の思うがままに生きればいい。


 俺のように、好きなように生きさえすれば、きっと変われる。


 人のために生きていたら本当の自分がよくわからなくなった、そんな理由で命を落としそうになるなんて、どう考えてもおかしい。


 ユリ姉の気持ちも知らずに、そんなことを自分勝手に思っていた。



「もしまた何か思い詰めたら、俺がいつでも相談に乗るから」


「……うん、ありがとう」



 相談に乗る権利なんて、俺にあるはずがなかった。


 結局、俺は何一つわかっていなかった。


 一週間後、ユリ姉は北高の屋上から飛び降りた。
















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