第10話 喫茶店





 迎えた日曜日。


 約束の時間である2時ちょうどに集合場所とされた喫茶店へ入ると、窓側のテーブル席に椎名と水野が既に座っていた。


 店の中を一歩進むごとに焙煎されたコーヒーの香りが鼻腔をくすぐる。


 アンティーク調に飾られたこの喫茶店の存在を元々知ってはいたが、実際に来店するのは今日が初めてだった。ところどころに昭和を感じさせるレトロなテイストが表現されていたり、一世代前のヒット曲が流れていたり、全体的に若者向けの店ではないためか店内をぱっと見回した感じ自分たち以外の未成年客は見当たらない。



「あっ、春人くん。やっと来たね」


「お久しぶりです! 先輩元気にしてました?」



 椎名は薄い半袖ブラウスに白いロングスカート、水野は赤いTシャツにデニムショートパンツを合わせている。


 椎名の服装はあの夜と完全に異なり、なるほどこれが優等生モードか、と理解した。与える印象がこうも違うと私服の持つ力は偉大だなと感じる。


 それからあれ以来、椎名は本当に僕を下の名前で呼んでいた。



「元気と聞かれても、別に普通だよ。それよりさ、僕の席がないんだけど」


「ちゃんとあるよ。ほら、立ったままだと邪魔になっちゃうから早く座ろうね」


「あっ、ちなみに先輩がどっちに座るか賭けてます」



 四人用のテーブル席に、二人は向かい合う形で座っていた。


 これだと僕はどちらかの隣に座る必要がある。


 頼み事を聞いてあげる立場なのに、なんでこんな試されるような状況を強要されているのだろう。


 動揺したら負けな気がして、迷わず椎名の隣に腰掛けた。これに深い意味はなく、一度しか絡みのない後輩の方に座るのは気が引けたからだ。



「はい勝ち。ゆずちゃん、あとでパンケーキ一口もらうね」


「思ったより可愛い賭けだな」


「負けた方が『どんな言うことでも必ず聞く』ってルールで賭けてた」


「テニス部の教育大丈夫か? ちょっと今から学校に報告してくる」


「三島先輩、どうしてこっち座らなかったんですか? 一生恨みますからね」



 今世紀最大に馬鹿げた賭けは二人とも自分の隣へ座る方にベットしていたらしい。



梓桜あずさ先輩の隣に座るって恐れ多くないですか? 私のクラスの男子だったら絶対無理ですよ」



 椎名が校内屈指の有名人で人気も高いことを知っているつもりだったが、後輩たちの中では想像以上に神格化されているらしい。



「ゆずちゃんに黙ってたけど、私たち学校でいつも隣の席なんだ」


「まさかそんな隠し玉を持っていただなんて、さすがは先輩。ふっ、今日は私の負けですね」


「頼むからさっさと本題に入ってくれ。茶番だけに付き合わされるなら帰るからな」



 今日の集会がこんな感じで進むのなら、あまりにやってられない。


 ついさっき下ろしたばかりの腰を浮かせたタイミングで、白い髭を生やしたダンディーなウェイターがトレイを運んできたため僕は仕方なく座り直した。


 椎名と水野は僕が来る前に注文していたらしく、椎名の元へショートケーキとコーヒー、水野の元にパンケーキとオレンジジュースが、ウェイターの熟練された手つきで置かれていく。


 注文せすに帰ろうとした仕草を見られていたので、ちゃんと客として来たことを示そうと急いでメニュー表を手に取り一番最初に目についたコーヒーを一杯注文した。


 よく確認しなかった僕が悪いけど、この店は値段の面でも高校生向けではなかったと後で知る。


 一口サイズのパンケーキをナイフで切り分けながら、ようやく水野が作戦会議の火蓋を切った。



「じゃあ本題になるんですけど、まず駿矢先輩って彼女さんいたりします?」


「いない。これは断言できる」



 確認なんてしなくても分かる。


 水野は「おお」と目を輝かせたけど、駿矢に彼女がいない決定的な理由は水野にとって残酷なものだ。


 駿矢が百合恵さんに向けていた感情の名前を僕は知らない。友情かもしれないし、恋慕かもしれないし、憧憬や親愛、どれでもあり得そうではある。


 確実に分かっているのは、百合恵さん以外の女性は駿矢の眼中にないこと。



「じゃあ次は、三島先輩から見て、私が駿矢先輩と付き合える可能性って何パーセントくらいあると思いますか?」


「ない。ゼロパーセント。これは水野に限らず、駿矢が彼女を作る可能性がゼロパーセントだと思ってる」



 天国から地獄へ。水野は一気に落胆した。


 そこに椎名が慌てて割り込む。



「もっ、もうちょっと加減してあげて」


「期待させるのはよくないだろ」


「うぅ、うーん」



 痛いところを突かれたという椎名の表情は新鮮だった。


 どうやら期待という言葉を上手く使えば、椎名を黙らせることができるらしい。


 それと手加減するように言われても困る。僕だって水野を傷付けるつもりはないが、質問に真っ向から答えるためにはこう言うしかない。



「そ、それは、なぜでしょうか?」



 水野が恐る恐るといった様子で聞いた。


 あんな言い方をした以上、理由を聞かれるのは当然のはずだったが、なんと答えるべきか返しに困った。


 まず大前提として、僕が椎名や水野を始めとする他の人たちに対して、百合恵さんの話をすることは未来永劫ありえない。駿矢とですら、したくないのだから。


 しかし、百合恵さんのことを伏せつつも、取り繕わないで伝えるには何をどう言えばいいのだろう。


 時間をたっぷり使って考えた結果、こうなってしまった。



「実際はどうか知らないけど、僕から見る八木駿矢って人間はこの世の女性全員に興味がないんだよ。いや、男にもだけどさ。この世界にいる人間の誰一人に対して、駿矢は求めているものがない」



 自分で言ってて、自身に大ダメージを食らっていた。


 百合恵さんの死を実感できていないのに、百合恵さんはこの世にいないと言っているようなものなのだから。


 心に空いた穴をグリグリと抉られるような痛みが生じた。


 それを聞いた水野は大きく目を見開いてハッとした顔をしていた。そんな水野より先に隣から声が掛かった。



「そのね、さっきから春人くんの説明する八木くんと私の知ってる八木くんが、まるで別人ってぐらいに人物像がかけ離れてるように思うんだ。八木くんが学校に来るようになって私もそこそこ喋ってるけど、そういう感じ全然しないよ」



 …………あ。


 頭から爪先までの全身が、凍りついたように硬直した。


 まったくの不覚。

 やってしまった、と思った。


 そうだった。僕はうっかりしていた。

 今の駿矢は、誰の目から見ても、明るい性格の持ち主でクラスの人気者だった。


 何も言えなくなった僕を助けるように、先程とは違うウェイターが頼まれていたコーヒーを持ってきた。


 淹れたての香ばしいコーヒーがテーブルに置かれ、ウェイターが去ってからも、僕は黙っていた。


 椎名が不安そうに僕を見つめている。


 ここから取り繕うことをせずに、椎名を納得させる方法があるだろうか。


 僕は何も言えず、椎名は何も言わなかった。


 そんな不吉に流れた沈黙を破ってくれたのは、後輩の水野だった。何故か、憑き物が落ちたように、優しく微笑んでいる。



「やっぱり、三島先輩とお話できて良かったです」



 そう言って深々と、座った状態で体育会系のお辞儀をする。


 僕と椎名には、その微笑みの意味も礼の理由もまったく分かっていなかった。


 頭を上げてから、水野は語り出す。



「本当なら私、駿矢先輩を見つけたその日に、すぐにお礼の言葉を伝えるつもりだったんです」



 僕と椎名は、それを黙って聞き入れていた。



「あの日の朝、駿矢先輩を見つけてすごくびっくりしちゃって、一時間目の間、ずっとどうしようって考えてました。それで、よし放課後お礼を伝えるためにお時間頂こう! って休み時間にまた教室行ってみたんです」



 水野を初めて見かけたときを思い出していた。


 駿矢の方を見れなくて、たまたま教室の入り口の方を見たら水野がいたんだった。


 そうだ、やっぱり駿矢が久しぶりに登校してきた日の朝だ。水野が話しているのは恐らくその日のことだろう。


 そしてその日は、授業や休み時間の度に、駿矢の振る舞いに驚かされていた。



「でも、休み時間に行ってみたら、なんだか私を助けてくれたときの駿矢先輩じゃないみたいでした。それから定期的に観察しに行ってみましたけど、やっぱり印象が違くて、ずっと確信が持てなかったんです」



 少し俯いていて、顔も声色も今までのどの水野よりも元気がなかった。



「私を助けてくれたときの駿矢先輩は、上手く言えないんですけど、誰も近づけさせないような凄みがあって、なんだか寂しそうで、なにもかも諦めたような目をしてました」



 駿矢だ。


 百合恵さんの葬式にいたときの駿矢も、そうだった。


 水野の語る駿矢が、輪郭まではっきりとイメージできた。



「きっとこの人はすごく辛いことがあって、それなのに見ず知らずの私を助けてくれてなんて優しいんだろうって、もし私にできることがあるなら何でもしたいって思ったんです」



 もう一度、綺麗に頭を下げた。



「三島先輩のお陰で、助けてくれた方が駿矢先輩だって確信できました。ありがとうございます」



 再度顔を上げて、ようやくいつもの砕けた表情に戻った。



「えへへ、なんか真面目に語っちゃいました。そういうキャラじゃないんですけどね、私」



 駿矢の彼女になると息巻いていたときはあんなにも堂々としていた水野が、今は照れくさそうに頭をかいていた。


 …………なるほど、と僕は納得する。


 バッグから財布を取り出して残高の確認をした。

 よし、問題ないな。



「水野。パンケーキ代いくら? 先輩だから奢るよ。先輩だからな」


「……私にも出させてぇ」



 横を見たら涙ぐんでいる人間がいてギョッとした。



「なんで泣いてるんだよ」


「あれぇ、私、泣いてるの? 確かに涙もろい方だけどさ、ゆずちゃんも八木くんもすごいなぁって思ってたら、つい」


「優等生ぶるな」


「ぶってないんだよぉぉぉ」



 そう言って椎名はポケットからハンカチとティッシュを取り出した。


 僕と椎名のやり取りを見て水野は笑いながら「ありがとうございます!」と今日何度目かの体育会系お辞儀をした。



 


 水野が駿矢の眼中にないのは事実だ。


 それでも、水野のような人間が駿矢を好きになってくれたことが嬉しかった。


 今回の集まりが水野と駿矢を付き合わせるための作戦会議だったのなら、成果はゼロに等しいのかもしれない。


 けれど、三人それぞれにとって良い時間だった。


 テーブル上に並ぶ皿の上は見事に空になり、あとは会計を済ませれば解散になると勝手に思っていた。


 涙を拭き、鼻をかみ終えた椎名が妙なことを言い出した。



「私と春人くん、この後バッティングセンター行く予定なんだけど、ゆずちゃんも一緒に来る?」


「えっ、いいんですか? 行きます行きます!」


「待って椎名、僕それ初めて聞いた」


「うん。だって今言った」



 こんな奴に恐れ多さを感じる一年生が不憫でならない。



 そういう訳で、椎名の息抜きとしてバッティングセンターへ向かうことになった。

 

 






 

 

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