1-3 遊ぶ仔犬亭

 この国、ファーガ国は西ルティア地方の中央に位置する。私が住む街「王都ララバル」はその首都で、人口二万人程が日々の暮らしを営んでいる。神聖808年の現在、サーマル三世という国王が在位しており、安定した治世を行っていた。国は富み栄え、西端の隣国リドアや、その南に位置するリガロ国との交易も盛んである。

 旅支度を整えた私は、まず宿に向かうことにした。この辺りの宿は一階が酒場で、二階が宿泊施設という形態が多い。私が訪れた「遊ぶ仔犬亭」という宿も、そのような造りだった。


「いらっしゃいませ。一名様ですか?」

宿の受付嬢がにこやかに問い掛ける。私より少し年上の綺麗な女性だった。

「しばらくの間、泊まりたいのですが……」

「旅人の方ですね。当宿は三食付きで2500ニルになります。素泊まりの場合は、一泊500ニルになっております」

 受付の女性は、涼やかにそう説明した。

「とりあえず、二・三日宿を貸して下さい。実は私、その……。ピアノを弾くのですが、こちらの宿に、ピアノはおいてございますか。あの……、もし差し支えなければ、夕食の時間帯にでも、演奏と歌うたいをさせていただいたのですが……」

 受付の女性は、それを聞いて眉をしかめた。

「ピアノはありますが、演奏と歌唱は宿長に聞いてみなければわかりません」

「あの、今、宿長さんにお会いできますか」私はおずおずと問い返した。

「しばらくお待ち下さい」

 女性はそう云って、奥の部屋に引っ込んだ。私は心臓が飛び出しそうな程、緊張していた。


 ―― 今、私はピアニストの道の始まりの地点にいるのだ。

 受付の女性を待つ間、私は何度も何度もそう繰り返した。


 しばらくして、年の頃50才位の男性が、カウンターの向こうのドアから現れた。皮鎧を身に付け、腰に革袋を下げている。男性は、しわがれた声で話しかけてきた。

 「お嬢さん、ピアノ弾きかい?」

 「左様でございます。マティと申します。メルキテス時代の演奏家の曲をよく弾きます」

 「ちょっと、弾いてもらおうか。ついてきな」

 男性は酒場の調理場の近くへと私を案内した。そこに年代物の使い込まれたピアノが置いてあった。

 「時々、調律してもらってるんだ。弾いてみな」

 私は、一つ頷くと、ピアノの前の椅子に座り、深呼吸をした。

 「それでは、始めます」


 ピアノの鍵盤をたたく。流れ出るピアノの音色が宿屋と共鳴していく。時に激しく、時に静かなピアノの音が、魂を揺さぶる。一音一音が雨の日の雨粒のように、宿の中に響いていった。


―― 私はこの日のために練習をしてきたのだ。


「なかなか、上手いじゃないか。いいだろう、今晩の夕食の時に弾いてもらおうか」

「有難うございます。ええと、お名前は……」

私は上気して、自分の声が少し上ずっているのを感じながら、そう訊いた。

「ニグルだ。よろしくな」

「ニグルさん、私頑張りますので、どうぞよろしくお願いいたします」

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