第15話「壁の向こう側2」

 遥がまだ怜のヘルパーをしていた頃。

怜はマシントラブルを抱え、大きな転倒事故が続いていた。

 不思議もので、トラブルは連鎖する。

 ボロボロになっていくマシンと革ツナギが、怜の心を追い詰めていた。


 (アァアアアアーン カァアアアーーーン)

 シリーズ初戦を終えた富士スピードウェイ。

 新しいセッティングを試すために、怜はコースに出ていた。

 選手権を追うシーズンは、オートバイメーカーが投入する新技術を搭載したニューマシンのセッティング探しから始まる。


 遥と茂樹がピットから見守る中、メインストレートを快調に飛ばす怜のマシンが白煙をあげた。

 時速200Kmを超えるスピードで飛行機雲のような白煙を引きながら、制御を失ったマシンは第1コーナーのストローバリアに向かって突っ込んでいった。

 乗っていた怜はコースに投げ出され、ヤスリのような特殊舗装を滑走した。


 事故の原因は、エンジンの焼き付きだった。

 その日、新しいセッティングを試していた怜は、良好な仕上がりを確認すると、ラスト2周、試走行を締めくくるタイムアタックを敢行した。

 一周目、新しいセッティングが決まった怜のマシンはスピードに乗り、いとも簡単に自己ベストを更新した。

 ラスト一周。ピットロードでタイムを記録している遥たちの眼前をフルスロットルで駆け抜ける。

 前の週より明らかにスピードが乗っている。

 「行けー!! 怜!!」

 ペースアップを告げる上向きの矢印を描いたサインボードを振り回し、茂樹が叫ぶ。


 ロングストレートの終わり、第1コーナーのフルブレーキに備えてカウルに潜り込ませた上体を起こし、大気のブレーキに晒そうとした瞬間だった。

 (カァアアアーー ガシュッーーゴッ)

 抱え込んだタンクの下で、高回転で燃え盛るエンジンが破壊音を遺し沈黙した。

 (キイィィィーー ギャアアアーー)

 間髪入れず、後輪がロックした。

 衝撃で怜はマシンから前方に投げ出されそうになった。

 ゴムが焼ける匂いと共に、怜のマシンは白煙をあげて暴れ出した。


 考える時間などない。

 怜は咄嗟に本能に身体の制御を渡した。

 怜の意識に関係なく身体はリアブレーキのペダルを力いっぱい踏込んだ。

 後輪を大きく左右に振りながら暴れていたマシンが、一瞬だけ車体の重心が前輪にかかり腰振りをやめた。

 沈みきったサスペンションが伸びマシンの制御が戻ってきた。

 (今だ!!)

 怜は前輪のブレーキレバーを握りしめ、ありったけの体重移動でマシンを倒し込んだ。

 (キャァァァァーー カシュ シャャアーーー)

 航空機の着陸のように怜のマシンは、滑らかにアスファルトの路面へと沈み込んだ。

 横倒しになったマシンの横で座った状態で滑走していた怜は、背を伸ばし腕を胸の前に縮めて仰向けで脱力した。

 後続車に轢かれない事を祈って。


(シャャアアアアーーーーー ダンッ ドドドッーー)

 長いアスファルトの滑走の後、ゼブラゾーンの段差で跳ねた怜は、土煙を上げながらエスケープゾーンに突っ込んだ。

 脚から綺麗に滑れていたことで、仰向きのヘルメットには下から土煙が勢いよく吹き込んだ。

 息を止め、体の力を抜いて土煙の中を滑り、膨大な速度エネルギーが地面と怜の摩擦で消えるのを待つ。


 長い滑走が止まったころ、辺りは茶色の煙で何も見えなくなっていた。

 怜は四肢の状態を確認して立ち上がり、マシンの行く方を探した。

 怜よりも更に先、クラッシュパッド手前で横倒しになったマシンを見つけた。遠目には原型を保っているのが見えた。

 駆け寄ってダメージを確認すると、長い滑走でかなり短く削れたハンドルエンドとステップ以外見当たらなかった。

 怜はマシンをクラッシュパッドに立てかけると、パッドの外側に避難して息ついた。


 怜の眼前に、つい先日、この直線コースで目撃した大事故の記憶がフラッシュバックした。胸の奥底から湧き出してくる恐怖に身の毛がよだつのがわかった。

 今回は大事故は回避できた。しかし、次も出来るかはわからない恐怖が、どす黒いタールのスライムのようにねっとりと怜の意識に纏わりついていた。

 怜の意識に、命を預けて走るマシンにいつ振り落とされるかわからない、という、レーサーにとって致命的な疑念が植えつけられた。



 翌週、怜は筑波サーキットで再びタイムアタックにのぞんでいた。

 筑波サーキットは一周2Kmのトリッキーなショートコースだ。

 全日本選手権が開催される二輪レースのメッカだ。西の鈴鹿、東日本の筑波と言われるレベルの高さだ。


 怜はこの日、先週の転倒で負ったダメージを払拭するように、このショートコースを快調に飛ばしていた。

 天候快晴。初夏の爽やか気候は、マシンにもタイヤにも好タイムが期待できるコンディションだ。

 パドックの2階、コース全体を見渡せるルーフトップで遥と茂樹が見守る中、怜はタイムアタックに臨んでいた。


 富士スピードウェイと比べると低速コーナーが連続するこのコースは恐怖心よりも疲労感が勝る。怜に纏わりついた粘着質な恐怖心も、爽やかな青空に晴らされたようだった。

 第1コーナーを立ち上がり、S字コーナーをリズミカルに駆け抜ける。180度ターンのヘアピンコーナーで先行2台追い抜いてダンロップコーナーを第2ヘアピンに加速する。

 スピードにノレている。流麗なフィギュアスケーターのように、ヒラヒラとマシンが翻りコーナーをクリアしていく。

 第2ヘアピンを立ち上がりこのコース最長のバックストレートを駆け抜けると、軽いフロントブレーキをキッカケに最終コーナーに滑り込んだ。

 怜はこの高速コーナーが得意だった。慣性ドリフトでユラユラと揺れるようにコーナー前半で向きを変え、クリッピング手前から早々の加速をしようとアクセルを開けた瞬間だった。

(カァアアアーーン ーーラァァアアーー、ギャッ キュッ ドンッ)


 後輪タイヤが突然真横にスリップした。

怜が反応する間もなく、タイヤは再びグリップした。

 怜のマシンは時速150Kmの推進力で空に向かって打ち上げられた。

 ハイサイドだ。

車体は高々と宙を舞い、ハンドルを握りしめた怜の手は力ずくで引き剥がされた。

 怜も青空に向かって高々と吹き飛んだ。


 (ーーーーズシッ、ーーードシャ、ーーガシャ)

 マシンは路面を何度ももんどり打ち、カウルが粉々に砕け散りながら転がった。

 怜は土のエスケープゾーンまで一気に飛んで、バックドロップを食らったように頭から落ちた。

 空を仰ぎ朦朧とする意識の中で、上からマシンが降って来るのが見えた。

 「あっーーー 死ぬ!?(ーードスンッ)」


 一瞬、下敷きになって潰されることを覚悟し身を固めたが、投げ出した脚の上に落下したマシンは、ステップとハンドルが車体を支え、怜の足を守るように直撃を逃れた。

 痛みがないことに気づいた怜は、反射的にマシンを持ち上げ立ち上がったが、右肩の焼かれるような痛みで再びへたり込んだ。

 イエローフラッグを大振りしながら駆け寄るオーガナイザーがスローモーションで見えた。

「(ダイジョウブデスカ!? こっちにニゲテ⋯⋯)」

 耳元で大声を出す男の声が籠もって遠のいていった⋯⋯


 怜はそのまま気を失い、救急病院に搬送された。

 全身に打撲傷無数。

 右肩の靭帯断裂。

 首元から鎖骨が飛び出す重症を負った。


 怜が病院に運ばれるのを見送ると、茂樹はコースから回収された怜のマシンから潰れたカウルを剥ぎ取って調べた。

 原因は、後輪タイヤに生々しく残る真横に走るスライド傷。この事故が避けがたいマシントラブルだったことを示していた。


 怜が飛んだのは、筑波サーキット屈指の高速カーブの最終コーナー。レーシングマシンがフルバンクで駆け抜ける速度は時速150Kmを超える。

 もしその最中に、突然足元をすくわれるとしたら、まともな人間なら二度とマシンにまたがる事が出来ないトラウマになる。

 シリーズ戦の最中の怜にとって、それは今シーズンを終わらせるダメージだ。

 だから怜は、その翌週には飛び出した鎖骨を矯正バンドで締め上げて走った。


 怖かった。

それは意識に訴える恐怖ではない。

本能に直に突き刺さる恐怖だ。

 何度も走ったストレートが怖い。

 大気を切り裂く風切り音に、心が所在なく揺れる。

 カーブが迫る度に鼓動は早まり、本能がブレーキレバーを握ろうと暴れる。


 それでも、脳からの生存指令を断ち切り、本能をねじ伏せてオートバイを加速する。

 怜は、人である前にレーサーである必要があった。

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