第14話「壁の向こう側1」

 (チチッ チッチッチーー ザァァァーーー カッコぉーー カッコぉーー カッコぉーー)

 鳥の鳴き声と川のせせらぎだけが聞こえる山の中。怜は独り、誰も通らないカーブの路側にVTを停めて空を眺めていた。


 雨の最終戦から1週間が過ぎていた。シーズンを終えて今だけは練習もない。久しぶりの完全なオフだ。

 レースを追って全国のサーキットを転戦していたシーズン中には、イグニッションキーを入れる時間もなかったVTのメンテナンスを済ませ、この場所へやって来た。


 ここは丹沢山系を流れる道志川に沿って、神奈川県津久井郡から山梨県にある富士五湖のひとつ、山中湖まで続く山越の道、国道413号線のちょうど中間地点だ。

 始点の津久井郡三ケ木交差点から終点の山中湖の湖畔までは、片道70Kmのワインディングロードが続く。ブラインドコーナーと荒れた路面の旧道と、高速ターンの新道が忙しなく入れ替わる峠道は、バイクで飛ばしても2時間近くかかるハードな道程だ。

 遥と別れ、憔悴しょうすいした怜が、気が触れてしまわないように直走ったひたはしった道だ。


 怜にその頃の記憶はない。

 正確には、この道を走っていたという記憶はないが、身体はこの道を隅々まで覚えているという表現が正しい。

 その頃の怜は、身体の半分が千切れてしまったような激痛を抱えて生きていた。息をするのも痛い。医者も薬も効かない。身を裂かれ続ける絶え間ない痛みに、本能が和らぐ場所を探しても、その行為を拒絶する自分が更に身を切り裂く。

 何もしないでじっとしていたら、数時間で発狂してしまいそうな自分を抑えるために思いついたのがこの道だった。

 オートバイで飛ばしたら、片道だけでもヘトヘトになるこの山道を、怜は逃げるように日に何往復も走り続けた。怜の意識にはその記憶が朧げおぼろげにあるだけだった。


 陽が登る前、夜間輸送のトレーラーしかいない街道を抜けてこの山道に入った。

 乗っているのはヤマハのオフロードバイクDT125。水冷2サイクル123cc、山野を駆け巡る事を想定した軽量な車体にパンチの効いた14馬力のエンジンは、河原のオフロードコースとクネクネと忙しい峠道を駆けるには、バランスが良いオートバイだった。

 怜はサーキットでの練習走行がない日は、日がなDTで山野を駆け回る練習をしていた。


 (パアァアアッ パアァアアア パアァアアアアーー)

 甲高い2サイクルのエグゾーストノートを響かせて三ケ木の交差点から山道に入る。そのまま2時間ぶっ続けで急カーブの連続を駆け抜け、朝焼けの山中湖湖畔の駐車場で折り返す。

 休憩などしない。停まったら身体の中で暴れ回る衝動で叫んでしまうからだ。

 身体の内側に鬱々と溜まったその激情を、ありったけの速度に換えて直走る。


 日中、路幅が狭く先の見えない山道に山越えの車両がつくる渋滞の中を、渓流を泳ぐ魚のようにスルスルと追い抜いていく。

 先頭をぬけると、また次の渋滞に追いつく。

 事も無げに一瞬で追い抜く。

 ペースが落ちることは決してない。

 人里離れたこの山道が漆黒の闇に包まれる夜更けまで走った。

 雨の日も、吹雪でカーブミラーが見えない日も、ただひたすらに走り続けた。

 数日が経つ頃には、往復140Kmの道程にあるカーブのクセと路側に浮いている砂の位置まで身体が覚えていた。

 それはこれまで怜がしてきたサーキットを速く走る為のロジカルな訓練とは程遠かった。

 メニューもない。目的もない。終わりもない。

 ただ、千切れて血を流し続ける心の痛みから逃れるために、走る行為に集中する。

 眠気に意識がシャットダウンするまで一心不乱に走り続けた。

 ひと月経つ頃には、この道を誰よりも速く駆け抜ける地図が怜の細胞に刻まれていた。



 この日、怜はなぜ自分がここに来たのかわかっていなかった。

 ただ身体が、怜にここへ来ることを欲したのだ。

 空腹が食欲を脳に伝えるように、身体の疲労が睡眠を要求するように。

 今朝、夜明け前に目が覚めると、身体が此処へ来ることを怜に要求し、ただそれに従った。



 青空に浮かんだ雲をボンヤリと眺めながら、怜は雨のレースで体験した不思議な高揚感を思い出した。

 「あれは一体、なんだったんだろう⋯⋯」


 怜はあの時、自分より明らかに速いマシンの後ろにつけた。どうしても前に行きたかった。勝ちたかった。

 しかし、その時の怜の実力ではそれは叶わなかった。

 その事をわかった上で、それでも負けなくなかった。

 自分には、もう、これしかないのだと気づいてしまった。

 それは、どんな言い訳も拒絶も叶わない、絶対的な絶望に撃たれながら、その中で生きていくしかない自分に呆れ覚悟した。

 その時、時間が止まった。

 いや、怜のコントロール下で時間が流れ始めたという方がしっくり来る不思議な体験だった。


 心は鎮静な泉のように静かで、それとは逆に身体は燃えるように熱かった。

 息は切れ鉛のように重い身体の感覚は消え去り、暴れていたマシンを完全に支配下に置いていた。

 あの感覚は、支配ですらない。

 マシンに、乗り物に乗っているという感覚は消えていた。

 脳がマシンを自分の身体の一部として認識したような、何の操作感も違和感もなく、鋼鉄の車体が怜の身体の一部として認識されていた。


 アクセルをひねって加速する感覚はなく、ただ前へ進むという意志で加速した。

 マシンの旋回機能として身体を車体の内側に落とし、路面に擦れる脛が滑るタイヤとシンクロしてカーブをクリアしていった。

 エンジンに流れ込んでゆくガソリンと空気の混合気が視えた。

 呼吸で肺に取り込まれた酸素が血中を流れていくように、混合気がマシン身体をパワーで満たしタイヤ足裏がアスファルトを掻いて加速するのがわかった。

 被っているはずのヘルメットの死角は消えていた。眼球で見ていないはずの後続車が視えていた。


 あれから、なぜそんな事が起きたのか、怜はずっと考えていた。しかし、頭で考えても答えは出ないこともわかっていた。

 そして今朝、夜明け前に電子レンジの調理終了のチャイムが鳴るように、何かが怜の目を覚まし、ここへ来ることを身体が求めた。


 なぜあんなパワーが自分を突き動かしたかはわからない。ただ彼女との約束を守るために怜の心は、生まれて初めて一心になった。

 怜はいつか見たオートバイ雑誌の広告を思い出した。

 「何も見えない。何も聞こえない。

  直感だけが研ぎ澄まされてゆく⋯⋯」

 出走前のレーシングスーツに身を包んだライダーが、命を預けるレーシングマシンを祈るように見つめているフォトグラフに添えられたキャッチコピーだ。

 怜は無造作にそれを切り抜き、サーキットの走行タイムを記録するボードに貼りつけていた。


 一心になる。

 生きることも、呼吸をすることも忘れるほど、ただ一つのことに持てる全てを集中する所作だ。

 その言葉を初めて知った時、怜はそんな事が人間に出来るのだろうかと思った。

 ただ、そのライダーとレーシングマシンのフォトグラフを見た時に、その言葉の意味がわかったような気がした。


 怜が体験したのは、あるいはスポーツ選手の体験するという「ゾーン」に入るというものだったのかもしれない。

 人間がオートバイを操り、速さを競うこの競技でも起こるものなのかも知れない。しかし、怜はこれまで、この競技は、人がオートバイの性能を引き出す技術を競うものだと思っていた。

 速いマシンに乗ることが、この競技で最も有利な事だと思っていた。

 しかしあの時、怜が体験したのはその逆だった。

 逆境に立たされた怜の何かのスイッチが入り加速した瞬間、それまで悲鳴をあげていたマシンまでも得体の知れないパワーで加速した。

 あの時の感覚は、怜がマシンの一部になったような不思議な体験だった。

 あのパワーは、いったい何だったのか怜には理解できなかった。


 記憶を探る。

 怜は、遥とサーキットで練習走行をしていた時に不思議な体験をしたことを思い出した。

 それは以前、怜が怒りに震えながら出走した時のことだった。


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