第16話「壁の向こう側3」
「怜、時間だ。準備は良いか?」
「⋯⋯⋯⋯ わかった」
茂樹が修理したマシンを、レーシングスタンドから下ろした。
度重なるマシントラブルで、怪我とナーバスな感情を抱えたまま、怜は富士スピードウェイの練習走行に臨んでいた。
マシンも身体もボロボロ。満身創痍だった。
それでも大会は近づいてくる。
放っておいても問題は解決しない。
茂樹もチームも、出来る限りの対策をしてくれた。
怜が走って、この問題を乗り越えるしかない。
握りつぶされた自信は、ここでしか取り戻すことはできない。
怯える心を奮い立たせて、怜はコースインゲートに並んだ。
傍らに遥と茂樹が付き添った。
ゲートオープンの時間が近づき、装備チェックのオーガナイザーがスタンバイする。コースインを待つマシンの列はにわかに活気づく。
「さあ、怜、行って来い!」
茂樹は怜の背中を押し出すように叩いた。
しかし怜は、マシンに
「怜、どうしたの?」
遥がヘルメットの中を覗き込むと、怜は胸に手を当て目を閉じている。
「遥⋯⋯、お守り⋯⋯」
怜がボソリとつぶやくと、遥は青ざめた。
「あっ⋯⋯ 怜、⋯⋯ごめん、私」
レーシングスーツのポケットにあるはずの物がなかった。
「行って、帰ます」を誓うお守りは、転倒事故で土まみれになったレーシングスーツをクリーニングするときに、遥が出したまま忘れて来てしまった。
その事が怜を更にナーバスにさせた。
ふだんなら、それは些細な出来事だった。
しかし、すべてが上手くいかない今の怜は、そんな僅かな失敗も許すことができないほど追い詰められていた。
「⋯⋯⋯⋯」
無言で怒りをあらわにする怜に、遥は一切の言い訳をしなかった。
遥の潔さが、怜の神経をさらに逆撫でした。
「ま、まあ、そういうときもあるさ。
こんなにガンバって来たんだから、そんな事でイライラしてクラッシュしたらバカらしいよな?
怜、落ち着け。
遥も気にするな」
いたたまれない空気に耐えかねて仲裁する茂樹に向かって怜は、
「もういい!!」と吐き捨ててコースに出て行った。
このゲートから先はレーサーだけの世界。
全ての責任はライダーが背負い、何があっても言い訳できない孤独な世界だ。
だからチームはコースの外からライダーを全力で支える。
孤独を少しでも減らせるように。
この日怜は孤独に向き合いコースに入った。
モータースポーツは、たった一度のミスが取り返しのつかない結果につながる数少ない競技だ。
トップを独走していても、マシントラブルであっさりリタイアする。快調に飛ばしていてもコースを飛び出し命を落とすこともある。
僅かな判断の遅れ、躊躇、体調の波、些細な心の乱れが取り返しのつかない事態を招く。
そして、速くなるほど死の恐怖は近づいてくる。走行速度があがれば、たった一度のミスが引き起こす事故も大きくなるからだ。
速くなればなるほど、一回のミスが招く生命の危機の重圧は重くのしかかってくる。
だから決勝のスターティンググリッドに並ぶ
華やかな最速の誉れを祝う笑顔の裏側で、僅かなミスも許されない重圧にあがらう。
鋼の精神力に抑えつけられた本能が、命の危機を知らせるために震わす身体を恋人が寄り添い癒やす。必ずまた「ここ」に帰ってくることを誓って。
(パアァアア パアァアアア パアァアアアア ゴォォォォーーーーー )
この日、コースに入っても怜の苛立ちは治まらなかった。
最悪のコンディションが続いていた。
出走前の捨鉢な気持ちよりも、遥にそれを叩きつけてしまった自分が許せなかった。
ふだんなら、頭を冷やす術を心得ていたが、遥の些細なミスもそれを咎める自分も、今日の怜は全てを許すことができなかった。
怒りに任せて走る怜は、遥が出すピットサインを無視して走り続けた。
怒りで身体が燃えるように熱かった。
なのに心は捨鉢で冷え切っていた。
マシントラブル続きでヤケになっているのは、怜自身がよくわかっていた。
それでも、事故を起こしたら遥のせいだとでも言いたげな、八つ当たりをする子供のような心が怜の中にいた。
冷静で洗練されたいつもの走りは見る陰もない。粗野で勢いに任せた強引な走りで、ただコーナーを攻めた。
「もう、このまま終わってもいいや⋯⋯」
そんな投げやりな気持ちで走っていても、何万回と練習を繰り返してきた身体がリズムを覚えていた。
イライラは次第に薄れ、頭は空っぽになっていった。ただ迫りくるカーブを、怜がこれまで積み上げてきたものがクリアしていく。
2周、3周と走る中で、怜は自分の中の異変に気づいた。
「身体が⋯⋯走りたがっている?」
怜の中で懐かしい感覚が湧きあがっていた。
長いこと忘れていた、走ることがただ楽しかった頃の感覚だ。
なぜ今、この感覚が蘇るのかわからなかったが、怜は考えることをやめて身を委ねることにした。
「ふーん♪、ふふふん、ふん、ふーん♬」
怜は、無意識に鼻歌を口ずさんでいた。
(ゴォォォォーーーーー カァアアアァァァーーファァァァ)
重圧だった風切り音とエグゾーストがBGMに聴こえた。
怜の鼻唄は軽く、気持ちは晴れやかだった。
無意識に選曲した女性アーティストが唄う空と週末をイメージした開放的な歌詞は、長い間暗雲に淀んでいた怜の心を洗い流していった。
走ることが純粋に楽しかった。
競技者として「オートバイ」に乗るようになってから、すっかり忘れていたあのワクワクが、はじめてオートバイに乗った時の、あのトキメキと感動が、怜の中に蘇っていた。
ピットからの指示もラップタイムも見ず、競技者としての全ての義務を放棄して、怜は「オートバイ」を楽しんでいた。
何度ホームストレートを通過したか忘れた頃、管制塔の電光掲示板に残りの走行時間が目に入った。
「あ⋯⋯時間。⋯⋯あと、2周ってところか」
我に返り、怜はそれまで存在も忘れていた、茂樹と遥のいるピットに目をやった。
するとそこには、目を疑う遥の姿が視えた。
「遥、⋯⋯え? 泣いている?」
視えたのは一瞬だったが、ピットロードのフェンスから乗り出した遥は、泣きながら怜に何か叫んでいた。
「遥が泣いている? なんで?」
怜にとって青天の霹靂だった。
怜は遥と出会ってからずっと、走ることを突き詰める自分に課した厳しさを、何の躊躇いもなく遥にも求めていた。
過程なんて意味がない。
どんな才能も努力も、結果に繋がらなければ意味がない。
結果が全て。
結果こそ純粋。
それが怜にとっての「オートバイ」だった。
怜にとって遥は、自分自身だった。
彼女への親愛の証として、怜が自分に課す厳しさを彼女にも求めるのは当たり前で
思い通りにならない事や都合の悪いことも、全ては自分の至らなさだ。
そうでなければ速くなどなれない。
逃げ場のないこの厳しさを、彼女と分かつことで乗り越えてきた。
彼女もそれをわかっていたし、それが怜にも伝わっていた。
だから彼女は、どんなに厳しいことがあっても不満や言い返すことはない。
怜も支えてくれる彼女に報いるために結果に拘った。
二人は一人。それが当たり前だと信じていた。
上手くいかない時。逃げ出したい時。
いつも受け容れてくれる彼女の強さも、自分の強さだと、
その日、怜は、
いつの間にか自分が彼女に逃げ込んでいたことに、気づいてしまった。
彼女が、怜の隠れ家。
彼女が、怜にとって最後の甘え。
彼女が、怜が壁を超えるための⋯⋯最後の代償。
その事に、気づいてしまった。
もう、怜に、逃げ場はなくなった。
「ああ、俺は遥に逃げ込んでいたのか⋯⋯」
怜は、静かに最後の
諦めにも似た、抑揚のない感情だった。
「全てを捨てる覚悟はできたか?」
自分の中からの問いかけに、怜は無言で頷いた。
ずっと探していた問の答えは、自分の中に在った。
「遥、⋯⋯俺は、『行く』よ」
ピットロードから彼女が叫んでいた言葉は、「
「行って、帰ます」と誓い、独りでコースに入っていく怜の背中に、遥がかけてくれる言葉だ。
二人で紡いできた想いを言葉にしたら、こんなにも陳腐な台詞になるのかと思った瞬間、怜は加速し始めた。
それはあたかも怜の中で眠っていた、もう一機の
((ゴーーーーー ァァァァーー))
風を切る轟音が遠のき、周りがスローモーションに視える世界に入った。
マシンに触れているハンドル、タンク、シート、ステップに、怜の身体から神経が伸びていくのがわかった。
怜とマシンは、フワリとした温かな空気に包まれた。
瞳孔が開いていくのがわかった。
強制的に引き上げられた動体視力が、高速で迫るアスファルトの小さな傷やギャップを鮮明に捉える。
路面に接地したタイヤが裸足で歩いているようにコースの凹凸を怜に伝える。
コースに吹く風をヘルメット越しに感じる。
コースサイドに落ちたタイヤのカーカス、滑りやすいオイルのシミまで、速く走るための情報が、高解像で怜の中になだれ込んでくる。
車体の中に伸びた神経が、鋼鉄の馬の漲るパワーを怜の意識に直結する。
怜の意識の中で肉体の輪郭は消え、オートバイの流麗な体躯を身体と認識している。
怜の意識が加速し、マシンが加速した。
(キイィィィィィィィィーーーーーン シャンシャンーーー カァァァァアォアァーーー)
ラスト一周、空を舞う燕のように自在にコースを駆け、怜はその日、超えられなかった自己ベストを大きく更新した。
怜はパドックに戻ると、八つ当たりした事を遥に謝った。
遥は、ただ笑うだけだった。
二人の間でその時のことは不可侵の話題になった。
それからしばらくして、遥は怜の前から姿を消した。
怜は半身が引き千切られる地獄を味わい、あの全能の感覚を雨の選手権大会で再び体験した。
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