第13話「壁を突き抜けたとき」

 シリーズ最終戦。雨のエビスサーキット。

予選、決勝とも雨の予報。現地に入るとひどいコンディションだった。


 しかし怜は、これまでにないほど調子がよかった。マシンのセッティング、コース攻略、フィジカル、メンタル、全てが整っていた。

 レースウィークに茂樹たちと現地入った。前のレースから引きずるタイヤトラブルとストレートの伸びの悪さはあったが、予選には調整が間に合った。

 怜の身体も仕上がっていた。二年前から始めた体幹トレーニングの成果が現れていた。

 遥を失った後に繰り返したモトクロスコースでの走り込みが、怜のマシンコントロールの次元を強制的に引き上げた。


 怜自身も決勝に向けて全てが上り調子なのがわかっていた。

 精神が揺らがない。早ることもない。

 程良い緊張感が持続していた。


 予選開始。

 身体は燃えるように熱く、心の芯は穏やかだった。

 気負いもない。身体全体を温かな空気のようなものを纏っている。

 出走前、パドックで、左の胸に手を当てて誓う。

 「行って⋯⋯来ます」


 マシンの最終チェックを済まし、パドックからピットロードへ入る。

 コース入口付近でチェッカーフラッグをもったオーガナイザーが、いきり立つ出走車両を制しているのを静かに視る。

 シグナルグリーン。

 コースインして、エンジンとタイヤを温めながら、コースコンディションを隅々まで確かめる。

 1周、2周⋯⋯3周目。

 ピットからGOサインが出る。

 予選タイムアタック開始。

 アクセルをあける。

 マシンが虎砲をあげる。弾けた矢のようにマシンが加速する。

 身体がマシンパワーに着いている。

 ハンドルグリップ、シート、ステップ、タンクホールド。接触している部分から神経が伸びて、マシンの微かな挙動も伝わってくるのを感じる。

 意識が、マシンとシンクロしているのを感じる。

 今日は乗れている。


 雨の日は、怜の得意のドリフト走行が冴える。

 高速コーナーは慣性スライドで滑るようにクリア。

 カントのついた奥のヘアピンは、ダダダッと入口で荷重の抜けた後輪を滑らせ、立ち上がりはしっかりグリップして加速する。

 すべてがコントローラブル。力みもない。

 ピットサインの「No1」を確認し、余力を残して予選を終える。

 結果は、雨の影響が強い予選4組トップ。

 全体の6位で決勝二列目のポジションを獲得した。

 優勝を狙うには、まずまずのポジションだ。



 翌日、決勝。雨はやまない。

前夜も降り続いた事でますますコンディションは悪かった。

 叩きつける雨も激しさを増していた。

 怜は天候を気にしていなかった。

 悪天候には自信があった。望むところだ。

 予選からの集中も切らしていない。

 身体が熱いが、心は水面のように穏やかだ。


 予報で天候回復の見込みはない為か、主催者の決断も早い。

 レースは続行。早々に決勝進出の28台はコースに入った。

 怜はスターティンググリッド二列目。

 第1コーナーイン側に並んだ。

 上位のマシンはいつものように、ライダーの恋人が付き添ってスタートを待つ。

 遥はいない。怜は独り、シールドを少し開けて第1コーナーをじっと見つめている。

 ピットロードから、茂樹が見守っている。


 ブザーが鳴り、付添いはコースの外に出る。

 静かになったコースにライダーだけを残し、シグナルカウントダウンが始まる。

 「3⋯⋯2⋯⋯1⋯⋯GO」

(((パアァアアアアアアアアアアアアアアアア!!)))


 静まり返ったサーキットに、地響きをあげてエグゾーストノイズの波が湧き起こる。

 倍率10倍の予選を勝ち抜いたつわものたちが、接触ギリギリで我先と第1コーナーに飛び込んでいく。

 怜はスタートに失敗。中盤に飲み込まれた。

 混戦の中で第1コーナーを立ち上がる。

 隊列の先頭車両を捜す。

 第1コーナーの先、S字コーナーを立ち上がる先頭車両の背中が見えた。


 (逃がすな! 捕まえろ!!!)

 怜の頭の中にどこかから声が聞こえる。

 全身の血が沸き立つ。

 アクセルをふり絞る。

 タイヤがスライドを起こしマシンが震える。

 かまわず抑え込んで加速する。

(ダッ、ダダダッーー カァアアア、アァアアアーー、カァアアアーー!!)

 乗れている。

 必ず追いつける。

 自信は確信となって、毎周数台のマシンをごぼう抜きにする追劇を開始する。

 


 レースは中盤をすぎていた。

 怜は、自分がどこを走っているのか分からなくなっていた。

 ピットサインは28位。

 レース開始からずっとこの順位だ。

 抜いても、抜いても、順位は上がらない。

 「何かおかしい」と感じていたが、成すすべはない。

 抜かれないように抜くことで精一杯だった。

 そのとき怜は、それまで出会ったことがない速いグループの最後尾に食いついていた。

 練習走行では出くわさない連中だ。

 特に眼の前にいる2台の速さは尋常でなかった。

 調子はいい。

 体力もまだまだ、集中も切れていない。

 それでも、ついていくのがやっとのスピードだ。

 「速い⋯⋯、こいつら」


 オートバイのレースはアルペンスキーに似ている。

 次々と迫り来るコーナーを、身体全体を車両の内側に落とし、肩と膝を起点に遠心力でコーナーをクリアしていく。

 左右に連続するカーブでは、マシンとライダーはシンクロして遠心の中でダンスを舞う。

 アルミとマグネシウムで造られたマシンが軋む。

 ライダーには、激しい運動量と強烈なGを伴う旋律を指揮するリズム感覚が求められる。


 怜は先行車に引っ張られていた。

 彼らが空気を斬り裂いてつくる低気圧の道に吸い寄せられ、怜のリズムを遥かに上回るアップテンポのリズムでマシンが切り返えされる。

 「速い、⋯⋯くるしい」

 遠心力で手足が悲鳴をあげている。

 少しでもこのリズムから遅れたら、気圧の谷を外れたら、一瞬でコースの外に吹っ飛びそうだった。

 自分の限界を超え始めているせいか、視界が霞む。

 気を切らすと意識が遠のいていく。

 「苦しい、呼吸ができない⋯⋯もう、⋯⋯だめか」

 

 ペースを落とす理由を探す自分が現れ、優しい言葉を並べ始める。

 (このままオーバペースで自爆するより、ペースを落として完走する方が良いんじゃないか?)

 (どうせ28位なんだし、無理してマシンを壊しても仕方ないよな?)

 (茂樹も、オーナーも、わかってくれるはずだろ?)

 必死で集中を保つ怜に、慰労を称えるコイツの言葉は甘い蜜、⋯⋯だった。

 「⋯⋯⋯⋯⋯ ははは、あはははーー、うわああああーーー!!」

 怜はヘルメットの中で叫んだ。


 「ないから! 俺にはもう⋯⋯何もないから!! ーーー遥!!」

 怜の脳裏に遥と過ごした優しい日々が再生されていた。

 それを失った日、彼女が怜に初めて見せた苦痛に満ちた表情が蘇った。

 それが怜の心に流れ込み、

 これまで決して埋まることのなかった心の渇き満たしていった。

 「ああ、遥。俺は⋯⋯行くよ!! 見ていて!! 行けーーーー!!」


 そのときだった。怜は、怜の中で「パチン」と何かのスイッチが入る音を聞いた。

 突然、怜の身体が軽くなった。

 周囲がスローモーションで見えた。

 すべてを感じ、すべてを御している。

 自分と、世界を、すべてを外から見ているような全能感が怜を包んだ。

 それまでついていくのが精一杯だったスピードを越えるリズムで怜の身体が加速し始めた。

 乱れていた呼吸も、遠心力に軋む身体の苦しさも、もう感じない。

 怜にも何が起きたのかわからない。

ただ、怜の中の何かが加速し始めた。


 (カカアアアアアアーーー!!!!)

 カスレていたエンジンが、虎砲を上げて加速し始めた。


 前走者の背中がみるみる近づいてくる。

 あっさり、抜き去る。

 後方に排気音が消えていく。

 前を見る。遠くに見えていた先行車に、あっという間に追いつき、抜き去る。

 入れ忘れていたもう一機のエンジンが始動したように、怜の命が加速していた⋯⋯



 結局、怜はそのレースで、上がり続ける自分のペースを抑えきれず、最後の一周でコースアウトしてしまう。

 怜の中で初めて体験する「加速アクセラレート」を御しきれず、突き抜けてしまった。再スタートすることもできたが、ピットサインの28位という順位では意味がないと、そのままコースサイドでレースの終わりを目守った。


 レースを終えて、回収車両が怜のマシンと怜を乗せてピットロードに帰ってきた。管制塔近くの水場で泥で汚れたマシンを洗っている怜と茂樹の元に、若いオーガナイザーが駆け寄ってきた。

 「ゼッケン6番の人ですよね? 凄かったですね!」

 「? ⋯⋯ えっと、なんでしたっけ?」

 「惜しかったですよね! ラスト3周の追い上げ、鳥肌が立ちましたよ!!」

 「えっと⋯⋯ ああ、まあ、でも周回遅れなんで」

 「はあ? ⋯⋯ いやいや! 5位ですよ。あの時、5位なので、あのままコースアウトしなければ、ラスト1周でトップに追いつくタイムですから!」

 「⋯⋯ ええぇっ!?」


 実際の順位は5位だったのだ。怜の猛追を見ていたオーガナイザーは、身振り手振りで興奮して言った。すぐ目の前に迫っていた2台は3位と4位だったのだ。

 1周目の混戦で、ピットクルーが怜の通過を見落とし、怜はずっと周回遅れだと思われていたのだ。

 そんなレースの結果より、やけに速い連中だった事が腑に落ち、怜はスッキリした気分で泥まみれの愛機の慰労を称えた。


 レースを終え、怜は自分の身に起きた不思議な体験を振り返った。

「あれ」はいったいなんだったのだろう。

このレースはコンディションが良かった。

 思いつく限りの練習をして万全だった。

 やるべきことはやり尽くした自信があった。出走前には不思議な高揚感が身体を包んでいた。

 絶好調だった。しかしそれでも届かなかったとき、そしてあきらめなかったとき、人はさらに奥にある何かを使って立ち向かう事を、怜は初めて知った。


 「パチン」と音を立ててスイッチが入ったのが、たぶん、あれが怜の限界を越えた瞬間だったのだろう。

 逃げようとする自分の心に、怜が無意識に口走った言葉は、遥がコースインする怜にいつもかけていた言葉だった。


 「Go Ahead行けー!!」

 怜は遥に、その世界の住人になる覚悟をもらった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る